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日本語でソネットを書くということ その1 はじめに

ちょっと最近、日本語でソネットを書くとは一体どういうことか、ということについて考えています。先日ここに挙げた僕のソネットは、言うなればソネットというよりもただの十四行詩にすぎない。

でも、別に、それが悪いと思っているわけではないのです。もしかしたら、日本語でソネットを書こうとしても、どうしたってそのようにしかなり得ないのかもしれない。その可能性はすごくある。でも、もしもそうなのであれば、そうだと自分が納得するための理由が必要です。

ソネットに限らず西洋風の定型詩を取り入れることについてよく言われることですが、日本語は英語やフランス語やイタリア語とはそもそも構造が違うのだ、と。だから、それは無理なんだ、と。それは確かに、仰る通りだと思うのですね。

そうなのですが、では、少し世界に目を向けてみましょう。そうすると、たとえば日本の短歌や俳句というものは、英語やフランス語やドイツ語に訳され、世界中で読まれているわけです。そして、当然のことながら、そうした英語やフランス語やドイツ語に訳された短歌や俳句に触れたことがきっかけで、自分も英語やフランス語やドイツ語で短歌や俳句を詠んでみよう、と思う人も、たくさんいるわけですね。

もちろん、日本人である僕たちは、そうした短歌や俳句を読んだら「これは、なんか違うぞ?」と思うでしょう。でも、だからといって、それらは切り捨ててしまってもよいものなのか。短歌や俳句は日本人にしかできないものなのだ、アメリカ人やイタリア人にはできないのだ、と断定してしまっても、よいのでしょうか。

僕は、それは、なんか、違う気がします。そのような考え方は、あまりにも世界というものを狭めようとしている、そんな気がします。

でも、いや、そうなんだよ。短歌や俳句は日本語話者だけのものだし、ソネットはイタリア語や英語やフランス語の話者だけのものだ。やるだけ無駄だ。それが事実だ。と、考える人もいるでしょう。

それならそれでいいと思う。だったら話はそれで終わりです。ただ、その可能性は考慮しつつ、僕は、もう少し、このことを考えていきます。なんというか、その方がむしろ意味があるような、そんな気がするのです。

日本語でロックができるかどうか、という話も、昔はありましたしね。今はもう誰も、そんなことを問題にはしていないけれど。そういうことは、何か別の場所だってきっと起こり得る、僕はそう思います。

ということで、長くなったので、この話は次回に続く。

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