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日本語でソネットを書くということ その7 まとめ

ということで、ここまでソネットの歴史に始まって、明治から平成まで日本のソネットをばばっと見てきました。

基本的には、ソネットを日本語でやろうとした場合、調子や音韻にこだわれば雰囲気は出るものの意味や物語性が薄れる。一方、調子や音韻を無視すれば文学性は高まるものの、その物語に引っ張られすぎるとソネットである意味が薄れてしまいがちになる、というところでしょうか。

でも、どうなんでしょうね。「お前できんのかよ」と言われたら「できません」と答えるしかないのですが、それでも現代短歌や現代俳句、現代川柳のすごい人たちを見ていると、押韻はどうか分からないけれど、調子を整えたまま現代風にしたり文学性を高めることは、現代でも可能のような気がします。つまり、令和版新体詩風ソネットや令和版海潮音風ソネットというのは、実は大きな可能性があるのではないでしょうか。

もしかしたら、北原白秋と中原中也がそういったタイプのソネットのひとつのメルクマールになるのかもしれません。彼らこそは、実は新体詩の流れの一番前にいた人たちだったんじゃないか、と僕は思うんですよね。自由詩人でありながら、彼らは調子への愛を持っていたから。

押韻についても、HIP-HOPをやってる人ややってた人たちが今ソネットをつくったら、マチネ・ポエティクをさらに発展させたものができるのかもしれませんね。

ただ、個人的には、僕は韻を踏んだ定型詩は好きですが、意味の分からないものが多いと思います。それは、韻を踏むために体言止めを多用するからでしょう。韻を踏むために致し方なく体言止めを多用した詩が「詩」として果たして本当にいいものなのかは疑問です。三好達治なんかは、そこを批判したかったんじゃないでしょうか。僕自身もそのうちの一人ですが、定型詩好きな人たちはこの「ルールに沿ってるかもしれないけど、だからどうなのさ?」という感覚が人よりもガバガバである自覚は必要ですよね。そうでないと、永遠に新体詩の轍を踏み続けることになる。

一方、村山槐多→立原道造→谷川俊太郎の口語自由詩ラインも、僕は一つの可能性なのだと思います。自由詩は無調無韻という定型である、とまで言ってしまうとあれですが、自由詩というのは世界レベルでの時代的な必然ですから、何も頭から否定することはない。

でも、もし無調無韻ならば、それでも守るべきは14行であることとソネットらしい構成なのでしょうね。ソネットの魅力は前半と後半で内容が急展開するところにあるわけですから、どうせ自由詩でソネットにするなら、ショートショートばりの物語的展開があってほしいものです。そうじゃないと、別にソネットでなくてもいいんじゃないですか? となってしまうでしょう。

谷川俊太郎なんかは、やっぱりそこんとこをちゃんとおさえてるのがすごいなあ、と思います。

ということで、結論としては、僕は日本語のソネットとして守るべきエッセンスは

A)14行であること
B)その言語に適した定型
C)前半と後半の大きな展開

だと考えます。

このように考えた場合、別に日本語による日本のソネットは書けないわけではないし、いくつかはこれまでも書かれてきたのだ、と僕は思います。それは、かつてシェイクスピアやスペンサーがペトラルカ風ソネットを英語に合うものに改変したことと、僕は同じだと思う。

きっと最初にソネットを日本に導入しようとした薄田泣菫や蒲原有明なんからは、この辺のことをよく考えた上で、あのようなソネットを書いたのでしょうね。

まあ、いずれにせよ、定型詩である以上、どうしても高踏派ぶった感じにはなるわけで、そこが良いところでもあり、悪いところでもある。

ABCそれぞれのエッセンスをうまく活用して定型詩の良さを活かしつつも、読んだ人の心情に刺さるようなものにするにはどうすればよいか……。それは現代短歌や現代俳句、現代川柳もまたそうなのでしょうけれど。

ま、あんまり理屈ばかりこねていても仕方ないので、この話はここで終わりです。

あとは、僕は僕で、僕なりに、僕のレベルで僕のソネットやなんかを書いていこうと思います。

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