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日本語でソネットを書くということ その9 七五調ソネットをつくってみる

次は、韻は踏まずに七五調のソネットをつくってみました。

掃除夫

ある月の夜、公園に
箒を持って立つ男。
「こんな夜中に掃除かね?」
聞くと男は頷いた。

「昼間は子どもが多いから、
あんまり見当たらないけれど、
そのままにしちゃ汚いし、
つまずいたりもするからね。

よく見てごらん、足元を。
『俺じゃない』とか『嘘だ』とか、
『あの野郎』とか『死ねよ』とか、
たくさん落ちているだろう?

皆、ここで吐き捨てるから、
こうして掃いているわけさ」

この詩は、七五調でありながら古臭さをなるだけ感じないように、ということを意識しました。以前述べた令和版新体詩風ソネットというのは、僕の中ではこんな感じです。

つくってみて感じたのですが、音律を揃えると、それはそれで単調さが生まれる気がします。この単調さは、新体詩がかつて批判された単調さと通じるものなのでしょう。

そこで、少し工夫をしてみました。



別れの言葉は雲になる
遠くから来る黒い色
ああ、なんて重い色だろう
色んなものが混ざってる

世界が暗くなったなら
少し薄めてやるしかない
この世に生まれついたとき
誰も必ずするように

ぼやけた視界が
晴れたとき
君は見つけることだろう

空に架かった
七色の橋が
世界をつなぐのを

この詩は、前の「掃除夫」とは最後の6連のかたちが異なります。前半の8連は7-5, 7-5, 7-5, 7-5ときていたのですが、後半の6連は7, 5, 7-5にしているからです。実質的には7連なのかもしれませんが、こうすることによって、少し変化が生まれている気がします。どうでしょうか。

よく考えたら、短歌も5-7-5-7-7という、普通に考えたら複雑な構成をしています。それは、一定の音節で長く続けると単調に感じる、という日本語の特性から生み出されたものなのかもしれません。そんな特性があるのかどうかは分かりませんが。

もしかしたら日本語って、一定のリズムと一定の調子で長く続けると、段々意味が薄れていってしまう、そんな言語なのかもしれませんね。お笑い芸人が「間」というのを気にするのも、そういうことかもしれない。詩にも多分「間」があって、「間が悪い」ものや「間が抜けている」ものは、あまり良くない気がします。

なので、日本語ソネットも、たとえば七五調だからといってすべての連を7-5にする必要はないのでしょう。むしろ、それだと構造的に陳腐になるような、そんな気がします。たとえば、場所によって5-7だったり7-7だったり5-5だったりした方がいいのかもしれません。あるいは、最後の6連だけ6-6にするとか。

多分、短歌も5-7-5と7-7で分けることができるのでしょう。そこに何か構造的な意味があるのではないでしょうか。


ということで、実作編はここまで。あとは、たくさんたまったらまとめて詩集にしようと思います。

以上。終わり。

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