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日本語でソネットを書くということ その4 明治時代における日本のソネット

さて、それでは日本ではどのようなソネットが書かれてきたのでしょうか。

こちらの論文によると、日本で最初にソネットが書かれたのは明治時代、薄田泣菫によるもののようです。泣菫は自らのソネットを「絶句」と読んでいたのだとか。

https://twcu.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=17739&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

では、泣菫の処女詩集である「暮笛集」に収められた絶句のひとつを見てみましょう。

雛祭

青磁(せいじ)に亂るゝ糸柳の
若芽をきざめる片枝(かたえ)がくれ、
かざれる雛(ひいな)の玉の殿を、
誰が子か仰いで獨り笑めり。
紫玉(しぎよく)をちらせる金の冠、
龍頭(りゆうづ)を彫(ゑ)りたる劍(つる)太刀(だち)の、
花なる御衣(みけし)を透いて見ゆる、
壮(さう)なる姿を君や戀ふる。
春知りそめたる糸柳の
嫋(しな)へて見ゆるも哀れなるに、
緋桃(ひたう)を浮けたる瓶子(へいし)あげて、
沈める思に注(つ)いで見んか。
彌生(やよひ)のみ空と若き命、
いずれか白日(まひる)の夢に似ざる。

雛祭りに女の子が物思いに耽っている、そんな様を描いた詩ですね。韻は踏んでいないけれども、八六調で調子を整えています。また、詩の内容的にはシェイクスピア風で、4行のシーンが3つと最後の2行で構成されています。

同じ頃、蒲原有明と石川啄木もソネットを「明星」に投稿していました。

次は、蒲原有明の「獨絃哀歌」冒頭の詩を見てみましょう。

あだならまし

道なき低き林のながきかげに
君さまよひの歌こそなほ響かめ、――
歌ふは胸の火高く燃ゆるがため、
迷ふは世の途(みち)倦みて行くによるか。
星影(ほしかげ)夜天(やてん)の宿(しゆく)にかがやけども
時劫(じごふ)の激浪(おほなみ)刻む柱見えず、
ましてや靡(しな)へ起き伏す靈(れい)の野(の)べ
沁(し)み入るさびしさいかで人傳へむ。
君今いのちのかよひ路(ぢ)馳せゆくとき
夕影(ゆふかげ)たちまち動き涙涸れて、
短かき生(せい)の泉は盡き去るとも、
はたして何をか誇り知りきとなす。
聖なるめぐみにたよるそれならずば
胸の火歌聲(うたごゑ)ともにあだならまし。

こちらも韻は踏まず、四七六調で調子を整えています。また、構成も泣菫と同じくシェイクスピア風で、内容的には12行と2行に分かれていますね。林の中を歩いているとき、ふいにこのまま旅に出たいという気分に襲われた。でも、色々と考えているうちに、その思いは消えてしまった。なんて儚い思いだったろう。内容はこのような感じでしょうか、多分。

石川啄木は学生時代に「啄木鳥」という詩を書いています。この詩を明星に送ったところ、与謝野鉄幹から「有明より可能性を感じる」と言われて嬉しくて啄木と名乗るようになったそうです。その詩がこれ。

  啄木鳥

いにしへ聖者が雅典(アデン)の森に撞(つ)きし、
光ぞ絶えせぬみ空の『愛の火』もて
鋳(い)にたる巨鐘(おほがね)、無窮(むきゆう)のその声をぞ
染めなす『緑』よ、げにこそ霊の住家。
聞け、今、巷に喘(あへ)げる塵(ちり)の疾風(はやち)
よせ来て、若やぐ生命(いのち)の森の精の
聖きよきを攻むやと、終日(ひねもす)、啄木鳥(きつつきどり)、
巡りて警告(いましめ)夏樹(なつき)の髄(ずゐ)にきざむ。

往(ゆ)きしは三千年(みちとせ)、永劫(えいごふ)猶(なほ)すすみて
つきざる『時』の箭や、無象の白羽の跡
追ひ行く不滅の教よ。――プラトオ、汝が
浄きを高きを天路の栄(は)えと云ひし
霊をぞ守りて、この森不断の糧(かて)、
奇くしかるつとめを小さき鳥のすなる。

こちらは四四四六調に調子を整え、構成はペトラルカ風です。前半の8行では古代ギリシャのプラトンのアカデメイアを描写し、そこで議論を交わす学生たちを啄木鳥にたとえている。後半の6行ではその思想が今も語り継がれていることを述べながら、詠んでいる作者自身が吾も啄木鳥の一人である、と述べている。そんな詩だと思います。

さて、この三者だと僕は泣菫>有明>啄木の順に好きですけど、あなたはどうですか? ちなみに森鴎外は「有明は泣菫にまさり、啄木は有明にまさる」と評したそうです。僕とは真逆。でも、なんか分かる気がします。鴎外は多分、ソネットが本来物語詩であることをちゃんと理解してたのではないでしょうか。啄木鳥というキーワードで時代の異なる前半と後半の場面をつないでいる啄木のソネットは、確かに物語として見ると一枚上手だと思います。

ちなみに、三者に共通しているのは、皆何らかの調子で詠んでいる、ということです。泣菫は八六調ですし、有明は四七六調、啄木は四四四六調です。この辺は、当時新体詩が全盛だったこともあるのかもしれませんね。

新体詩は、七五調に匹敵するような詩型を模索する運動だったといえるでしょう。そして、ソネットもまた、その選択肢のひとつだったわけです。新体詩ではないけれど、翻訳でも上田敏は「海潮音」でボードレールやロセッティなどのソネットを七五調で訳し、当時の詩人たちに大きな影響を与えたそうです。

ところが、世間での関心は徐々に詩型よりも詩の内容により重きを置くようになっていきます。いわゆる象徴詩というやつです。象徴というのが具体的に何のことなのか、僕にはよく分からないのですが。

そんな中、明治の終わり頃に世に出て一世を風靡したのが、北原白秋の「邪宗門」でした。この「邪宗門」にもいくつかソネットが収められているので、最後にそれを見てみましょう。

A 精舎

うち沈む広額(ひろびたひ)、夜のごとも凹める眼――
いや深く、いや重く、泣きしづむ霊(たまし)の精舎。
それか、実(げ)に声もなき秦皮(とねりこ)の森のひまより
熟視(みつ)むるは暗き池、谷そこの水のをののき。
いづこにか薄日さし、きしりこきり斑鳩なげく
寂寥(さみ)しらや、空の色なほ紅ににほひのこれど、
静かなる、はた孤独(ひとり)、山間の霧にうもれて
悔いと夜のなげかひを懇ごろに通夜し見まもる。

かかる間も、底ふかく青の魚盲(めし)あぎとひ、
口そそぐ夢の豹(へり)水の面(も)に血音(ちのと)たてつつ、
みな冷やき石の世と化りぞゆく、あな恐怖れより。

かくてなほ声もなき秦皮よ、秘そに火ともり、
精舎また水晶と凝ごる時愁ひやぶれて
響きいづ、響きいづ、最終(いやはて)の霊(たま)の梵鐘(ぼんしよう)。

これは五五五七調ですね。

前半の8行は、読み手が心に何か重いもの、暗いものを抱えている様子が描かれています。そうして、暗い池を見つめている。それはもしかしたら、死への欲望のようなものかもしれない。

そして、次の3行は池の中の描写になる。ということは、読み手は池の中に入ってしまったのでしょうか。あるいは黄泉の国を表しているのかもしれません。

最後の3行は、また冒頭の描写に戻ります。でもきっと、この最後の3行の風景に、読み手はいないのでしょうね。そこにはただ、暗い池だけがあり、鐘の音だけが聞こえる。

あるいは、これは水の底を想像することで死の恐ろしさを感じた、という詩なのかもしれない。死ぬとは、あの水の底の魚になるようなものだ、と3連目で語り手は想像している。

そうすると、最初は死を誘っているように聞こえた鐘の音が、むしろ死から救ってくれているように聞こえた。これは、そんな詩なのかもしれません。

どちらにしろ、構成的にはペトラルカ風の8-6でもシェイクスピア風の12-2でもなく、白秋独自の8-3-3の構成になっているのが面白いですね。

僕的には、この白秋のソネットが、いわゆる明治時代のソネットのひとつの総決算といえるのではないか、と思います。

ということで、次は大正時代と昭和の初期に続く。

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