2009-2014-2024

ホームシック衛星2024のツアー初回公演に2日間参戦してきた。

終演後、同い年の友人たちと「BUMP OF CHICKENの音楽にいつ出会って」「何の曲で出会って」「どんな風に聴いてきて」「初めてライブに参戦したのはいつか」みたいな話をひたすらしていた。出会った時期は違っていても、みんな10代の頃の自分がどんな風にBUMPの音楽と向き合ってきたかということを熱っぽく語って、聞く側は全力で頷いていた。そういう話をしたくなる気持ちにさせられるライブだった、と思う。

2024年はBUMP OF CHICKENにとって結成28周年の記念の年だけれど、私にとっても節目が重なる年だった。

1994年、3月生まれの私は、もうすぐ30歳になる。
BUMPの音楽に出会ったのが2009年。出会ってから15年が経つということは、人生の中でBUMPを知らずに生きてきた期間を、出会ってからの期間が追い抜く年になったということでもあった。
そして、私がBUMPのライブに初めて行ったのが2014年だったので、あれから今年で10年が経過することになる。

出会って15年、ライブに行き始めて10年。自分がどうやってBUMPに出会い、どんな思いでライブに行く決心をしたのだろう、ということを、記憶がこれ以上薄れてゆく前に記してみることにした。賞を狙うためや大勢に読んでもらうための文章でもなく、ただただ自分の記憶を掘り起こすための記録だということは前置きしておきたい。

私と同世代の人の多くは、「orbital period」が発売する前後にBUMP OF CHICKENに出会っているはずだ。中学生か、高校生になった辺り。2008年のホームシック衛星には行けなかった、そもそも出会っていなかったという人がほとんどだとしても、聴き始めの時期に1番身近な存在だったアルバムが「orbital period」だと思う。だから余計にホームシック衛星2024の「念願」感は強い。

「orbital period」から「COSMONAUT」までの間の、新しいアルバムが出なかった約2年半ほどのこの期間(present from youは出ていたけど)に、私はBUMP OF CHICKENに出会った。

出会いのきっかけは今からちょうど15年前、中学3年生のこの時期に読んでいた「一瞬の風になれ」という本だった。本屋大賞受賞の帯を巻いて本屋に並んでいたその本を、私はその年に貰ったお年玉で買った。分厚い3冊のソフトカバーの単行本を、1月から3月でたぶん3回か4回は読んだ。「読み終わりたくない」と思って読んだ初めての本で、高校入試の日にも持って行って、面接で呼ばれるのを待っている間にも読んでいた。その本の主人公が、BUMPの音楽を聴いている場面が本の中に何度か出てくるのだった。

1巻の「ミニコンポでBUMP OF CHICKENのアルバムをがんがんかけて聞く新二」じゃなくて、3巻の「南関東大会の日の朝に"大好きで勇気が出て試合前によく聴く曲"であるBUMP OF CHICKENのダイヤモンドをアラームを止めずに1曲分流す新二」の方で、「BUMP OF CHICKENのダイヤモンドってどんな歌なんだろう」と思ったのが、今思えば全部の始まりだった。

曲自体と出会うのは、高校に入学する時に買ってもらった携帯電話に、曲の音源を入れられるようになってから。
「一瞬の風になれ」で、新二が見たものを見てみたくて高校で陸上部に入った。チームメイトになった子が違○ダウンロードサイトを教えてくれて(やめなさい)、1番先にダウンロードしたのが、木星のCDジャケットの中に入っていた「ダイヤモンド」だった。

著作権という概念に対する知識も意識もガバガバだった、愚かな高校生になりたての私たちは、なるべくお金をかけずにたくさんの音楽を聞きたかった。1枚2000円以上するCDを買うのも、CDをまとめて借りて1000円のレンタルショップも、月のお小遣いが1000円とか2000円とかの高校生には手が出しにくい代物だった。YouTubeも今ほど発達していなくて、CDを聴くにはプレーヤーが必要で、借りた音源を手元に残すためにウォークマンやiPodが必須だった時代、音楽を聞くのはお金がかかる趣味だったと思う。(だからサブスクは偉い。)

そのサイトが通報されまくる(あまりにも当然の結果すぎる)ことを理由に閉鎖になるまで、私は違○ダウンロードで新しい音楽に出会っていた。(本当にごめんなさい)
テレビからは流れてこない、最新の曲じゃない、少し前にリリースされた、少し難しいことを歌う曲に出会うのが楽しくて仕方なかった頃だ。

「jupiter」の中の「ダイヤモンド」と、曲名だけは知っていたのにBUMP OF CHICKENの曲だとは知らなかった「天体観測」を手に入れたあと、次に手を出したのが、黒い背景に白く輝く羽を広げた何かのジャケットに入っている曲たちだった。「涙のふるさと」か「プラネタリウム」が先で、その次が「カルマ」だったと思う。
1曲ずつ選んでのダウンロードだから、アルバムを最初のトラックから全部聞くみたいなやり方を知らなくて、題名と耳ざわりの良いイントロ、馴染みやすい歌詞に引き寄せられて、聴く曲を選んでいた。

高校に入って初めて失恋した時には「プラネタリウム」を聴いた。(そのメンタルはなかなかにヤバい)
2000年代の「待ち受け画像」の文化に乗っかって、「ダイヤモンド」の歌詞とほっぺたにくるくると落書きされた藤原基央の写真という、いわゆる「歌詞画像」を待ち受け画像にしていた時期もあった。ライブでも照らすな照らすなという人にしていい仕打ち(あえて仕打ちと呼ぶ)ではなかったと今なら思うけれど、この歌詞画像で、今まで知らなかった曲を知ることも結構多かった。「カルマ」と「sailing day」、曲を聴いたこともなかったのに「BOCのテーマ」と書かれたメンバー4人のイラスト入りのもの。
ボーカルが「藤くん」と呼ばれていることは理解したけど、その他3人は名前も顔も知らなかったし、この曲を作っている人がどんな人たちなのかを調べようとも思わなかった。ただただ、曲と出会うだけの日々だった。
当時流行りだった自分の「ホームページ」のプロフィールページには「好きな音楽:BUMP OF CHICKEN」といつのまにか書くようになっていた。陰キャの極みを自認していたけど、今思えばそれなりに平成のJK生活をきちんと送っていたような気がしなくもない。

高校1年生の、冬が近づくある日、「R.I.P」という曲が世に出た。それはかなり久しぶりの新曲だったので、「BUMP OF CHICKENって新曲出すんだ?」と思ったのを未だに覚えている。

高校2年生になった春、今度は「HAPPY」という曲がリリースされた。この上なく明るいタイトルなのに、曲の中の歌詞はどこか暗かった。高校生になって行けるようになったカラオケで、唯一最初から最後まで歌い通せたBUMPの曲はHAPPYだけだった。ミュージックビデオを眺めながら歌えるのが良かった。

この頃からようやく、レンタルショップなんかで借りてきたアルバムをウォークマンで録音して聴く、という聴き方ができるようになる。(件の違○ダウンロードサイトが閉鎖した時期でもある。)

枚数をまとめて借りないとレンタル料は安くならないので、友達と500円ずつ出し合って借りたいCDを5枚ずつ選んだりしていた。我が家にはパソコンが無かったので、借りたCDとウォークマンを持って友達の家に行って録音してもらうという方法で、私はようやく多くのBUMPの曲に出会うようになる。彼女の家には年の離れたお兄ちゃんが買ったBUMPのアルバムが何枚かあり、「FLAME VEIN」は「+1」じゃない方の「FLAME VEIN」だった。この音源をずっと聴くことになるため私は2014年まで「バトルクライ」の存在を知らないまま過ごすことになる。

「ノーヒットノーラン」が口ずさみやすかったこと。「プレゼント」という曲が、まるで自分の心の中をそっくり覗かれたようだったこと。「fire sign」の「星を廻せ 世界を掴め」という歌詞にどうしようもなく惹かれたこと。そんな風にいろんな曲を聴いていく中で出会った「リトルブレイバー」の歌詞は、勇気を出したい時、自分の夢のことを思い描く時に取り出すお守りのような存在になった。部活の大会に行くためのバスの中、チームメイトが寝静まった後の部屋。自分だけの部屋を持っていなかった私は、6畳の部屋で弟と背中合わせで勉強机に向かって、課題を解きながらイヤホンをして音楽に浸っていた。

BUMP OF CHICKENの音楽が、自分にとってあまりにも大きな意味をもつものになったのは、高校2年生の秋の、学校からの帰り道の出来事だった。
友達とはうまくいかない、誰にも必要とされていない、自分の思いを誰もわかってくれない。毎日がなんとなく鬱々としていて、生きていることは全く楽しくなかったし、世界なんかさっさと滅びてしまえくらいのことは考えていた。そんな気持ちに押し潰されそうになっていた頃だった。
家に向かう途中、夕焼けが藍色に変わっていくのを眺めながら、私は一人で自転車をこいでいて、片耳にだけイヤホンを差していた。その時にシャッフル再生で流れた曲が「Title of mine」だった。どうしようもなく孤独を感じているくせに、誰かと繋がっていたい。そんな気持ちを歌った曲が、この世の中に存在していたこと、声の主が「人に触れていたいと願う人が好きだ」と歌ってくれたこと。こんな気持ちでいるのは自分だけじゃないと思えたこと、それでいいと言ってもらえた気がしたこと。その時初めて聴いたわけではなかったはずなのに、聴く時の心情によってこんなにも突き刺さる。「曲に心を救ってもらう」という体験を、生まれて初めてした瞬間だった。名前だけ知っていた「藤くん」という、この曲を作った人に、手を差し伸べてもらったような気がした。

その頃になって初めて、正規の金額を出して携帯電話に音源をダウンロードした。1曲だいたい420円、たまに315円。月に1度、携帯電話料金を払ってくれている母に「買っていい?」と尋ねるようになった。「宇宙飛行士への手紙」という、薄くピンクに光る稲妻が走るジャケットの曲だった。

BUMPの曲に出会ってから1年半と少し、初めて新しいアルバムが出た。宇宙服の頭の部分がころんと映ったかわいいジャケットのアルバムには「COSMONAUT」という名前がついていた。こすもなうと、と読んでいた。発音が間違ってることに気付きもせず、やっぱり高くて買えないからレンタルショップで借りてこようかなぁ、でも新譜だからまだレンタル料が高いなぁ、と躊躇っているうちに、2011年3月11日がやってきた。

高校のグラウンドで部活中に14時46分を迎えた私の手元に残ったのは、着ていたジャージ、履いていた運動靴、ポケットに入れていた携帯電話ただ1つ。誇張でも何でもなく、それ以外のものは全て失くした。それまで大事にしてきたもの、生まれてから今まで生きてきたことの証は、住んでいた家と一緒に全て跡形もなく流れ去った。家族は全員無事だったけれど、部活に行く前に一緒にトイレ掃除をしたクラスメイトには、「また明日」を言うことが2度となかった。
少し前までこんな世界はさっさと滅べばいいとまで思っていたのに、そう思っていた自分は生き残って、たぶん日々をしっかり前向きに生きていた誰かが世界から欠けて居なくなった。失くしたものを数えて、帰る場所を失って、途方に暮れて、夜になると毎日ただ涙が出た。
2月に受けた模試で、第1志望の大学に初めてA判定が出ていた。このまま頑張ればきっと大丈夫、と思っていたのに、自分の手元には参考書どころか鉛筆の1本もなかった。
泣いて、絶望して、先のことを考えて焦って、どうしようもなくなっていた避難所で過ごす夜。消灯前に、下足箱の隙間に座り込んで、最小のボリュームで音楽を流すことを思い付いた。毎日使っていた青色のウォークマンにはたくさんの曲が入っていたけれど、手元に残った携帯電話に、BUMPの曲は10曲ちょっとしかなかったと思う。それでも、携帯電話から流れる、世界がこんなことになる前に聴いていた大好きな曲たちは、何も変わらずにただそこに在って、少しだけ私の心を慰めてくれた。

週に1回、水の出る家にお風呂を借りに行くような状態で過ごしていた私たちに、内陸の温泉施設が無料でバスを出し、入浴と食事の準備をしてくれた。まともに電波が入らなくなっていた沿岸部から内陸部に移動すると、2週間ぶりにアンテナが3本立った。ウォークマンの中にしか入っていなかった「リトルブレイバー」を、帰りのバスの中でダウンロードした。

そこから始まる高校3年生の1年間は、2ヶ月の休校を取り戻すべく、夏休みも冬休みも極限まで減って、高校生らしいイベントは全て無くなって、ただひたすら勉強をしていた。紫と黒のボーダーのパーカーの下に緑色の無地のTシャツという有り得ない色の組み合わせを着て、最初は私服で学校に通った。誰かの支援で揃えてもらった制服を着られるようになったのは7月だった。誰かの支援で購入して先生たちが運び入れたのだという新品の机に座って、誰かからの支援で届いた教科書や参考書、辞書を使って授業を受けた。隣町の廃校の校舎を間借りして過ごす学校生活が、それでも尊いものに感じられたのは、一度全てを失くしたからだった。大事なものは失くさないと気付けない、ということを知るためにはあまりにも支払った代償が大きかった。
自転車で20分だった通学時間はスクールバスで40分になった。朝はバスを降りるまでずっと音楽を聴いていた。高校が再開する前にメガネを買いに行こう(裸眼の視力が0.3くらいだったのに、2ヶ月近くメガネ無しで暮らしていた)、と連れていってもらった内陸のショッピングモールで、私が服よりも欲しがったのは携帯電話用のイヤホンだったし、伯父がお盆にくれた1万円で、真っ先に買ったのは失くしてしまったウォークマンだった。
レンタルショップが消滅した町にはCDを買える場所ももちろん無く、「COSMONAUT」は相変わらず聴けなかったけれど、「66号線」だけは携帯電話にダウンロードして聴いていた。

「宇宙飛行士への手紙」よりも後に生まれたBUMPの曲は、そういう日々の中で出会って聴いたものだった。

2011年は私の人生の中に消えることなく引かれてしまった線で、その線よりも前に出会った「宇宙飛行士への手紙」以前のBUMPの曲は、もう取り戻すことのできない、記憶の中にしか残っていない景色の中で聴いた曲たちだった。中学校への通学路だった川沿いの堤防、高校に通うために越えていく踏み切りと線路沿いに咲くタンポポの群れ、夕焼けとセットになっている、背中から海風を感じる帰り道と両脇に広がる田んぼの景色。

もう薄れて消えてゆく記憶に、BUMPの曲は確かに結び付いていて、少しずつ鮮明さを失って消える景色を思い出す手がかりになっていた。

2月にA判定を出していた第1志望の大学に、推薦入試で合格した。新しい生活は楽しみだったけれど、瓦礫がまだ山のように積み上がっている故郷に、8畳の仮設住宅に暮らす家族を置いて、自分だけが何事もなかったかのような顔をしている街へ行くことへの後ろめたさみたいなものは常に感じていた。築40年、6畳3万円の家賃のアパートは、思い描いていた女子大生の一人暮らし像とは遠くかけ離れていて、学生アパートだらけのその街の中でもかなり下位レベルだったけれど、母が「1人で6畳に住めるんだから」と言ったのが辛くて文句なんか言えなかった。

そんな状況で大学に出してもらったものだから、真面目に勉強して、絶対にきちんとした所に就職して、自立しなければならないというプレッシャーを感じていた。サークルにも入ったし、友達を作って遊びもしたし、食べるものに事欠くような事態に陥らないように仕送りもしてもらっていたけれど、贅沢して遊ぶとかは、してはいけないものだと思っていた。

自己紹介をするだけで「被災地の子」になってしまう私は、講義の中で突然コメントを読み上げられたり、なんだか過剰な期待をされることもあったりした。気負うことなく地元の話ができる人たちが羨ましかったし、小さい頃の写真をアイコンに変えて楽しんでいる様子を見るだけで切なくなった。私には小さい頃の写真というものが存在しなくなっていたから。帰省する度に瓦礫が減り、壊れたまま放置されていた建物が無くなり、土を盛り上げられて知らない場所に変わっていく故郷を見るのが辛かった。置いていったのは自分のはずなのに、離れているうちに置いていかれる気がした。地震が怖くて、夜に揺れが来る度にスマホだけを持って部屋を飛び出して外で泣いていた。

バイトを始めたり、電車がうまく乗り継げるようになったり、安くてかわいい服のブランドを覚えたり、自炊がうまくなったり、楽しいことや出来ることが少しずつ増えていっても、心の中にはそれを後ろめたく感じる、めちゃめちゃな部分があって、それと向き合うだけで精一杯だった。

音楽は今まで通りに聴いていた。一人暮らしになった分、誰かと話をする代わりに音楽をかけていたと言っていいくらい聴く頻度は上がった。「firefly」が主題歌になったドラマは最初から最後まで見たし、サークルの先輩の家にBUMPのベストアルバムがあるのを見て、BUMPいいですよねなんて会話をしたりもしていたけど、BUMPが数年振りにツアーをしていることなんて知りもしなかったし、それが自分も行っていいものなのだとは、やっぱり考えもしなかった。それどころじゃなかった。

変化のきっかけは2013年10月28日に、突然やってきた。ツイッターでフォローしていたアカウントが「BUMPの武道館行ってきた。めちゃめちゃに良かった…」というツイートをしたのだった。普段は好きな漫画のイラストを投稿している絵師さんだった。「この人BUMP好きなんだ?っていうかBUMPってライブやるんだ?」という気持ちになった私は、どういう経路だったかも覚えていないけれど、11月9日に、それまで見かけることもなかった、音楽ナタリーのBUMPの武道館ライブのレポートにたどり着いたのだった。

武道館でのライブで演奏されていた曲の多くは、高校生の頃から聴いていた大好きな曲ばかりだった。メンバーがライブ中に何を話し、どんな風にお客さんに接していたか、事細かに記されていて、「俺はほら、ゆるふわあったかキャラだからそういうのないよ」という言葉がやたら頭に残った。来年、新しいアルバムが出ることも、そのレポートで知った。

いいなぁ、と思ったのだ。BUMPのライブに行ってみたい。次のツアーがあるならチケットを取ってみたい。今までライブなんて行ったこともなかったし、自分がそれに行っていいものだとは思っていなかったけれど、自分の人生初めてのライブに選ぶなら絶対にBUMP OF CHICKENがいいと思った。当時はバンド公式のSNSが存在していない状況で、何をどういう手段で情報収集したかも覚えていない。それでも、2014年1月に始まった、WILLPOLIS2014の最速先行に応募して、1月末には初日の幕張公演のチケットを手にしていた。

ライブに行くことが決まったのに、相変わらず新しいアルバムは買うつもりがなくて予約していなかった。予約してまでCDを買うという概念がやっぱり私の中にはなかった。2014年3月初め、20歳になった日の朝に「ray」のミュージックビデオが公開されるまでは。

「誕生日プレゼント!?」と、自分に都合のいいことを思いながら「ray」のミュージックビデオを再生し終わったあと、即座にAmazonのサイトに飛んでいた。初回限定盤、DVD付き、特典のステッカー付き。発売日直前になっていたそれをカートに放り込んだ。この曲が入ったCDを自分だけのものにしたい、と初めて思った。届いたCDを聴いて、DVDを見て、ライブへの思いを膨らませた。

2014年4月5日、幕張メッセで、開演後に「WILL」が流れた瞬間の気持ちの昂り、藤くんがギターを掲げた時の会場の空気、「Stage of the ground」の1音目が流れて「BUMP OF CHICKENって本当に存在してるんだ」と思ったこと。この日「生きていて良かった」と思えたことは、それまでの一生の中で1番の幸せを感じた瞬間の記憶と結び付いて自分の中に残っている。

そこからの10年は生活の中の1番がBUMPだったと言って良かった。20歳の時に、好きなものに直に触れる喜びを味わって、それを最上の幸せと決めて行動してきたことに後悔は全くなかった。自分よりも早くBUMPに出会えた人、早くライブに行き始めた人のことを羨ましく思うことも勿論あったけれど、「orbital period」と「COSMONAUT」の間のあのタイミングで出会い、「RAY」がリリースされたタイミングでのライブに行かなければ、今こんなに好きでいることもなかったかもしれないから、それで良いのだと思えた。15年前に「一瞬の風になれ」を読んでいなかったら、あの絵師さんと同じ漫画を好きになっていなければ、BUMP OF CHICKENと私の人生が繋がることはたぶんなかったのだと思うと、選んできたもの好きになってきたもの全てを誇りに思うことができた。

2009年から2014年までの5年間、そこでしてきたいくつもの選択の結果、2024年の今も私はBUMP OF CHICKENを好きでいる。

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