虹を待って

「会いたかったよ」
ギターを抱えたバンドマンは、マイクスタンドの前でそう呟いた。エンターテイメントを生業としている人々にとって、もはやお決まりの挨拶のようなものだと認識していた言葉が、その日はあまりにも重く胸に響いた。一度の延期を経て、波と波の間を縫うようにして行われたそのライブで、彼らは二年八ヶ月ぶりに観客の前に立ったのだった。

会場内でマスクは外せない。ステージに自分の思いを伝える手段は拍手だけ。世界がこんな風になる前に、観客が歌っていた部分は「空席のままにしておく」と言われ、誰の声も乗らない空白ができた。声を出せない観客を気遣う気持ちが嬉しい一方で、歌の中にできてしまった空白に響く楽器の音は、少し切なかった。

生きていくために欠かせない最低限のこと以外は「必要ではないもの」になってしまった。音楽イベントもその筆頭で、度重なる中止要請に応えて延期を繰り返すうちに、今度は会場となるべきライブハウスが倒れ始めた。命や健康、安全は何よりも優先されるべきものだ。それを守るために、切り捨てなければならないものもある。理屈では分かる。

会いたいと思う人に会いに行くこと。見たいものを見に行くこと。欲しいものを手に取って選んで買うこと。何でもない会話を楽しみながら食事をすること。それら全てが 「不要不急」と呼ばれるようになって初めて、自分の生活を豊かに彩っていたものが何だったのかに気づいた。必要でないとされるものに、自分の心は守られていたのだと思い知った。仕方ない、と切り捨てるたびに、心はすり減っていった。

ライブの次の日、二年八ヶ月ぶりに会う友人の家を訪ねた。「同じ音楽を好きな同い年」という共通項で繋がった縁は、八年以上もの間、私と彼女を結んでいる。二年八ヶ月前は、同じライブに二日間参加した。そのあいだ、彼女の家にもう一人の友人と一緒に泊まって、三人並んで同じ布団で眠った。目が覚めてから、深夜三時から放送しているバンドのラジオ番組を聞いて、布団の中で笑い転げたのも覚えている。その日を最後に、ライブが無かった二年八ヶ月、一度も会えていなかった。

初めて降りる駅から、地図アプリを頼りに、雨が降る街を歩いた。散々迷って逆方向に歩いて、ようやく彼女の家にたどり着く。インターホンを押した私を、マスク越しでも分かる笑顔で迎えてくれた彼女の腕の中には、この世に産み落とされてまだ数日の、小さな小さな命が、すっぽりと収まっていた。新生児と、出産を終えたばかりの友人。会いに行きたい気持ちはあれど、このご時世に果たして会いに行って良いものかと思っていた私に、彼女は「こっちは大丈夫だから、帰る前に時間があるならおいでよ」と連絡をくれたのだった。

「左腕はこうして、右手でお尻を支えて」
母になった彼女にテキパキと指導されながら、小さく、軽く、温かい命の重みを自分の腕の中に受け取った時、不意に涙が溢れて止まらなくなってしまった。自分でも予想外の涙だった。ようやく会うことができたという喜び。彼女が出産を無事に乗り越えたことに対する安堵。会えないうちに流れてしまった時間に対する寂しさ。溢れた涙の理由は、考えても未だに整理がつかない。

「いつかこの子も連れて、家族でライブに行きたいんだよね。また同じライブで、ライブじゃなくてもいいし、絶対会おうね」
時折ふにゃふにゃとむずかる子どもをあやしながら、彼女はそんな未来のことを口にした。住む場所や生活の状況が違っていても、同じ音楽を好きな私たちは、いつだってそれを目印に再会を約束することができた。今はすやすやと眠るばかりの小さな子が、輪に加わる日も楽しみだった。会いたい人に会いに行くことすら躊躇われる日々は、まだしばらく続くだろう。それでも、自分の心を守ってくれるものたちが「必要ではないもの」と呼ばれなくなる日が来ることを、諦めたくないと思う。

彼女と交わした約束が叶う頃には、歌の中にできてしまった空白も、たくさんの観客の声で埋めることができていると、信じたい。



【あとがきのようなもの】

夏に、ある媒体に応募したエッセイが賞をいただきました。その関係でエッセイの依頼が1つ入りまして、この文章はそちらに寄稿したものを少し手直ししたものです。この体験を通して、いかに自分が職業的物書きに向かないかということを思い知りました。「この期限までに何でもいいから、この字数で書いてね」ができる人は天才。私は結局、自分が書きたいと思ったことしか書けない。それを再確認することになった2022年夏でした。


「虹を待って」
これしか書けない、と思って書き、書き上げてみたら題名はこれしか思い付きませんでした。込めた思いは3つ。

何のバンドの話か分かっている人には思い浮かぶ曲名があるはずで。発表されてからこちら、ライブではすっかり定番曲になり、観客が声を合わせて歌うのもすっかりお馴染みになっていたのに、2年8ヶ月ぶりに行われたライブでは、セットリストから消え失せていた、BUMP OF CHICKENの「虹を待つ人」。観客が声を出せない状態で行われるライブでは組み込めなかったのかなという想像をしている曲です。また一緒に歌える日が来たら、という願いを題名に込めてみました。絶対に泣く自信がある。

そして目に見えない小さなものに振り回されている日々を雨に例えました。雨が上がって空に虹が出るように、何の心配もなく、好きなことをして、会いたい人に会える日が来ればいいと願っています。

文章の中に登場してもらった友達に会いに行った日は、雨が降っていました。その日は、その小さな子が産まれてから初めての雨の日だったそうです。名前の由来を聞いて、その子の人生初の雨の日に立ち会えた体験から、このタイトルが浮かびました。夏の始まりの方だったあの日から季節は巡りに巡って春も近くなり、小さな子はぷくぷく元気に育っているようです。近々会いに行けそうなので、抱っこ拒否されなければいいなと思いながら、再会を楽しみにしています。

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