音楽文「てのひらに感じる BUMP OF CHICKEN 『話がしたいよ/シリウス/Spica』によせて」



透明なケースを包んでいるフィルムを、細心の注意を払ってそっと剥がした。表面に貼り付けられているシールも取っておきたいから、破いたりしないように気を付けて。

表も裏も背面のラベルも、一通り眺めたところで、ようやくケースを開ける。歌詞カードを引き出して、文字となって現れた歌詞を目で追う。最後に、慎重にディスクを取り出す。

ディスクの中身を聴く前に、心は満たされていた。

2年9ヶ月ぶりにBUMP OF CHICKENのCDを手にした。
11月14日にリリースされた「話がしたいよ/シリウス/Spica」だ。

生きていくのって大変だ、と最近思う。
BUMPは「歩くのは大変だ」と歌ったけれど、本当にその通りだ。大きな何かが無くたって、毎日必死に歩くのはそれなりに大変だ。

忙しい毎日に追われてぐったりしていたある日、チャマの黄色いアイコンの通知で、スマホの画面が埋め尽くされていた。

「僕達のニューシングルをリリースします」

CDが出る。その報せは疲弊してささくれだった心には特効薬だった。

発売日を指折り数えて待つ時間さえ、心弾むようだった。待てるのが嬉しい。指先を操って、いつでもどこでも好きな曲を手に入れられる時代だけれど、新しい曲が物体として手元にやってくる喜びは、やっぱり格別だった。

新曲を初めて聴く時は必ずイヤホンをすると決めている。歌声、ギター、ベース、ドラム、息を吸う音さえも、そのひとつたりとも聴き漏らすことのないように。

可能なら電気も消すし、何も目に入らないようにする。音と自分の二人きりの空間で、体ぜんぶでその曲を受け止める。

私なりの、はじめましての儀式だ。

幾度となく聴いて、新しい曲を体に染み込ませていく、その過程は何度味わっても幸せだと思う。

去年の夏の終わりに始まり、年を跨いで桜の開花を待つまでの半年間を駆け抜けたツアー、PATHFINDER。

ファイナルにあたる埼玉公演2日目、2月11日はBUMP OF CHICKEN結成22周年の節目の日だった。

その日、曲がこの世に生まれ落ちる瞬間を目にした。

アンコールが終わり、メンバーは一人また一人とステージから捌けていった。ツアーが終わる、その寂しさが満ちていた。ただ一人、ステージに残っていた藤くんは「みんなまだ時間大丈夫?ちょっと聞いてくる」と言って走り去った。再びステージに戻ってきた彼は、ギターを手に取った。

「メンバーにもまだ聴いてもらってないんだけど」と前置きして、弾き語りで演奏された曲は、【Spica】という名前をもらったことが後に分かった。

ツアーの中で藤くんは「やっと曲が書けた」と報告をしたことがあった。いつか君たちに聴いてもらえるかなぁ、僕らの曲を聴いてほしい、そんな言葉を早口で喋っていた。

「曲は聴いてもらうために生まれてくる、自分の中にあるだけでは使命を果たしたとは言えない」というような話をしたこともあった。

共に音楽を作るメンバーさえ、まだ聴いていない曲。それを聴かせてもらえる。本当の意味で曲が生まれる瞬間を目にすることができる。信じられないような幸運だと思った。

泣いたらいいのか、笑ったらいいのか、ぐちゃぐちゃのままで、紡がれる音に耳を澄ました。

あんなに必死に聴いたことはなかった。うまく歌えるかな、と言っていた。まだ自分の中にしかない曲を携えて、傍らにメンバーもいないたった一人で、数万の人の前に立つ。いったいどのくらいの勇気が必要なのだろうか。

その言葉を聞いてしまったら、受け取る側として、一言、一音たりとも、聴き漏らす訳にはいかなかった。
そうして過ごした数分間ののち、気がついたら、呼吸もままならないくらいに泣きじゃくっていた。

「手をとった時 その繋ぎ目が 僕の世界の真ん中になった あぁ だから生きてきたのかって 思えるほどの事だった」【Spica】

あまりのことにほとんど歌詞を覚えられなかったが、この部分だけは刻み込まれるように残った。

手をとる、誰かと繋がる瞬間に、自分の世界の中心を見出だす。
「この世界の」ではなく、あくまで「僕の世界の」真ん中。

手をとる相手のことは分からない。けれど、その繋がりはきっと、確固たる軸となって、自分の世界を支えてくれるのだろうと思った。

手をとる。
そのために生きてきた。そのくらい大きなことだった。その繋がりこそが帰る場所になる。

ツアーという特別な時間が終わる最後の時間に、誰かと、何かと繋がることを歌った曲を投げかける。

寂しさが加速させられてとんでもないな、と思った。とてつもない出来事だった。

あの日から9ヶ月経って、ようやくその曲の全てを聴くことができた。

「終わりのない闇に飲まれたって 信じてくれるから立っていられる」
「どんなドアも せーので開ける」
「汚れても 醜く見えても 卑怯でも 強く抱きしめるよ」

あの日聴いた曲の続きには、そういう言葉が並んでいた。

「愛してる」とか「大好き」とか、そんなことは簡単には言えないバンドだと思っている。
彼らの曲からは、そんな率直な言葉が無くても、確かに伝わってくるものがあった。傍にいる、そのままでいい、覚えているよ。

傍らにそっと座るような近しさを感じさせながらも、BUMPの曲はどこか、寂しさと隣り合わせだ。

始まれば終わりが来ること。
移り変わっていく季節のこと。
触れた手はいつか離れてしまうこと。
留めようもなく今は流れて、過去になっていくこと。
忘れていくこと。
どんな命も、いつかは終わりの時を迎えること。
同じ時間を過ごしても共有できないことが、絶対にあること。

22年前、【ガラスのブルース】で「僕はいつか 空にきらめく 星になる その日まで 精一杯 唄を歌う」と歌ってからずっと、彼らはそんな普遍のことを歌い継いできた。

終わりや別れを歌いながらも、彼らの曲が温かみをもっているのは、終わりや別れがあるからこそ、出会ったことや今この瞬間が愛しく輝くのだということを、同時に伝えてきたからに他ならない。

そのことは新しい楽曲にもよく表れていて、彼らが歌っていることの根本は、22年という歳月を経ても、あまり変わっていないのだと、私は思っている。

「街が立てる生活の音に 一人にされた」
「だめだよ、と いいよ、とを 往復する信号機 止まったり動いたり 同じようにしていても他人同士 元気でいるかな」【話がしたいよ】

街と人の営みを描きながら、孤独をこんなにも痛烈に、美しく描いた歌があっただろうか。

ここにいない「君」に向かって「話がしたい」と叫びながら、曲はこう続く。

「どうやったって戻れないのは一緒だよ じゃあこういう事を思っているのも一緒がいい」
「肌を撫でた今の風が 底の抜けた空が あの日と似ているのに」
「抗いようもなく忘れながら生きているよ ねぇ一体どんな言葉に僕ら出会っていたんだろう 鼻で愛想笑い 綺麗事 夏の終わる匂い まだ覚えているよ 話がしたいよ」

忘れていくのだ。

幸せも悲しみも、喜びも怒りも、一緒に見た空のことも、いつかは全部。時は戻らないから、前に進むしかない。何よりも確かで、さみしい。

でも、「じゃあこういう事を思っているのも一緒がいい」。

いつか忘れていくとしても、まだ覚えている。伝え合いたい、そんなことを歌った曲。すごく「BUMP OF CHICKENだ」と思った。

【話がしたいよ】【Spica】とゆったりと進む2曲に挟まれて、真ん中にいるシリウスはいわゆる「速い曲」と言われるような曲調だった。

「記憶は後ろから削れていく 拾ったものも砂になって落ちる」
「これは誰のストーリー どうやって始まった世界 ここまで生き延びた 命で答えて その心で選んで その声で叫んで 名前さえ忘れても 何度でも呼んで」
【シリウス】

楽器の音と藤くんの声がクリアに聴こえる瞬間が好きだなぁ、と思いながら、歌詞を辿って、やっぱりBUMPだなぁと納得するのは【シリウス】も同じだった。

【話がしたいよ】も【シリウス】も、配信されてすぐに買っていたけれど、本当に「いらっしゃい」と思えたのはCDがやって来た時だったような気がする。

宝物のような存在が、また3曲増えたと思った。

この曲たちは、どんな風にライブで輝くのだろう。
この先、私はどんな時に、この曲たちを思い出すのだろう。
私のこれからの人生に、どんな風に根を張っていくのだろう。

彼らの曲を心の拠り所にして過ごした年数も、そろそろ両手の指では足りなくなるくらい、長く、長くなってきた。

何万、もしかしたら何億と聴いたかもしれない曲たち。

そのひとつひとつの曲が呼び起こす景色や記憶がある。
曲の歌詞やメロディが、それを夢中で聴いた日々と、一緒に過ごした人たちの顔と、自分の思いと、ライブの思い出と、密接に結び付いて、ふと甦ってくることがある。

一人でいても、曲を聴いた瞬間に、世界と、昨日と、もしかしたらまだ知らない明日とも、つながるような気がした。

そんなの、やっぱりBUMPだけだなぁと思いながら、私は今日も彼らの曲を聴いている。

今、ものすごく、BUMP OF CHICKENに会いたい。


2018年11月28日掲載



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