宮崎駿の神と革命(ノート)――『君たちはどう生きるか』から『風の谷のナウシカ』へ


 ★以下は、学習院大学での講演@二〇二三年十一月二五日のために事前に準備したノートです(ディスカッションを受けて、後日の加筆修正あり)。いつか書かれるべき『ナウシカ論』のための助走用のノートでもあります。ご批判を受けながら時間をかけて書き進めていくつもりです。よろしくどうぞ。(現状約32,000字)

 こんにちは。本日はお招き頂き、ありがとうございます。在野で、独学で批評を書いて生業にしている杉田俊介と言います。

 まずは個人的な話からはじめます。私はこれまでに『宮崎駿論――神々と子どもたちの物語』(二〇一四年)、『ジャパニメーションの成熟と喪失――宮崎駿とその子どもたち』(二〇二一年)という本を刊行しました。『宮崎駿論』は幸いにも繁体字と簡体字に翻訳され、後者はまもなく繁体字版が刊行されます。後者の「あとがき」にも書いたのですが、わたしの宮崎駿論は三部作の構想になっています。もう一冊、『千と千尋の神隠し』を中心として、何かを書いてみたいと思っています。もちろん宮崎さんが今後どういう仕事をするかによって、予定も変わってくるでしょうが……。

 そしてそれらの劇場用長編作品を中心とした三部作とは別に、もう一つ、漫画の『ナウシカ』論だけに向き合って一冊の本を書いてみたい。そう考えていました。しかし、これまで中々その機会が訪れませんでした。たんに時間やチャンスがないというよりも、魂的に『ナウシカ』に対峙する準備が整わない、今はまだ機が熟していない、という感覚が一貫してありました。

 しかしこの十数年の世界の変化、社会状況の変化に応じて、SF的な設定をもつ『ナウシカ』の内容が、どんどん身近に、「リアリズム」に近づいてくる、という感触がありました。たとえば私たちは今、エコロジーや気候変動、疫病、テロリズム、戦争、人間とノンヒューマン(動物、植物、人工知能など)の関係などを抜きにしては、ものを考えられなくなっています。

 思えば 『ナウシカ』の最終七巻の発行日は一九九五年一月十五日です。阪神淡路大震災の直前であり、間もなく地下鉄サリン事件もありました。二〇一一年の東日本大震災と原発公害事故の後も『ナウシカ』は読み返されました。そして近年のコロナ禍、ウクライナの戦争、パレスチナの打ち続く虐殺などを通して、読み方も変わって来るはずです。人類史の災害と災厄と戦争の経験が折り重なるほどに、私たちの読み方も深まり、重層的になっていく。これはそんな作品ではないでしょうか。

 もう一つ、個人的な事情もあります。二〇二二年に『橋川文三とその浪曼』という本を刊行したことです。この本では、不十分ですが、日本近代史における政治と宗教、神々と革命の問題について――その捩れについて――自分なりに考えてみました。橋川文三は、丸山眞男や竹内好の複雑な意味での弟子だったと言える人です。

 橋川はかつて、二・二六事件に象徴される日本近代史の謎を解き明かすには、日本の民俗的な魂に根差したドストエフスキーのような天才が必要だ、と書いたことがあります。民俗の魂ではなく国家の魂しか持たない三島由紀夫や北一輝ではそれには足りないのだ、と(ただし橋川が言う日本民俗というものには、ナショナリズムとパトリオティズムの間の複雑な葛藤があり、またアジア的なものとの交通関係を含んでいたことは述べておきます)。

 そうした天才の仕事として、私はつねづね、漫画版『風の谷のナウシカ』のことを思ってきました。科学技術と生命、政治と宗教、自然とユートピアをめぐる作中の様々な対話関係の渦は、日本/アジアの民俗的魂に根差した『カラマーゾフの兄弟』を思わせます(たとえばナウシカは、人間の自然破壊や世界戦争の結果、人間自身が死ぬのは仕方ないが、何の罪も犯していない動物や樹々が死ぬのはどうしても納得がいかない、たとえ未来に世界が浄化されるとしても、とイワン・カラマーゾフのように考えます)。

 ……ちなみに、赤坂憲雄は『ナウシカ考』で、バフチンの『ドストエフスキーの詩学』を参照しつつ、漫画『ナウシカ』の世界は、至る所で小さな対話の場が生まれ、交差し、他所へ伝達され、複合化していくようなポリフォニックな世界である、と論じています(232頁、また「終章」)。作中で長大な対話が行われているというのみならず、『ナウシカ』という作品の構造それ自体が本質的にポリフォニックに構成されている、ということです。そしてそれは『ナウシカ』が様々な(曖昧かつ多種多様な)民俗的伝承/口承/年代記から成り立っている、という事実にも関わるはずです。

 小山昌宏は『宮崎駿マンガ論』で、『ナウシカ』の語り手(ナレーター)の位置は、俯瞰的でも傍観者的でも作中人物の一人でもなく、ある種の「語り部」のように機能している、と分析しています(62頁)。つまり『ナウシカ』の世界にはメタ的な視点が存在せず、「年代記」の語り手やナレーター、あるいは私たち読者たちもが、等しく、つねにすでに対話的な伝承や伝達の渦の中に巻き込まれている、ということです。

 宮崎駿は、日本民俗の魂に根差すような神と革命の問題をどのように考えていたか。フィクションの中でそれをどのように表現しようとしたか。そうした観点からあらためて、『ナウシカ』という作品に正面から対峙してみたい。そう感じるようになりました。

 とはいえ、現段階の、今の自分に語り得るのは、いずれ書かれるべき『ナウシカ』論の前提部分、といよりも、助走の前の準備運動のような事柄でしかありません。今後は必要な時間をかけて『ナウシカ』を読み直し、何が自分に書けるかを試したい、実験してみたい、と考えています。

 ……なお、あらかじめお断りしておきますと、漫画/アニメに対しては表現論、記号論、形式論、ジャンル論、メディア研究など、様々な方法的研究が進んでいると思いますが、私に可能なのでは、あくまでも宮崎駿の作品を「思想」として批評的に解読する、という非常に古典的な、朴訥なスタイルになります。その点はご承知おきください。
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 まず、映画『君たちはどう生きるか』のことについて――。

 かつて『風立ちぬ』を最初に観た時、率直にいえば私には、「これで引退作なのは困る」という困惑がありました。その後、『風立ちぬ』に対する考え方は少し変化しましたが、当初はそう感じました(『宮崎駿論』と『ジャパニメーションの成熟と喪失』における『風立ちぬ』論の違いをご参照下さい)。

 それに対し、今回の『君たちは』の場合、映画館で最初に観た時の印象は、とてもよかったです。君たちがどう生きるかは知らない。ただこの自分はこう生きた。これからもこのように生きる。そんな作品だ、と私は受け止めました。――自己出産。自分で自分を産み直すこと。そんな言葉も思い浮かびました(後述するように生れ更り、産み直しという主題は『ナウシカ』の中心的主題でもあります)。

 正確には、宮崎駿が虚構作りの仕事によって亡母を甦らせ、その母親が未生の宮崎駿を新たに産み直す、そしてまた……という永劫回帰的な循環がそこにはある。そうしたエゴイズム的な輪廻転生の究極を感じました。ただし、産まれてきた作品は、異形のヒルコ的な赤子であり、ほとんど水子のようでした(杉田「『君たちはどう生きるか』レビュー」、集英社イミダス、二〇二三年八月二五日、参照)。

 『君たちはどう生きるか』は、走馬灯的あるいは遺言的な作品というよりも、むしろ新たな「はじまり」の産声を告げる作品ではないか。小説家の大江健三郎は、友人のエドワード・サイードの「晩年様式」という概念を継承しつつ、老人の知恵ではなく愚行として晩年の小説群を書きぬくことを試みました。宮崎駿の晩年様式的作品たちもまた、たんなる成熟とか老成ではなく、時間の蝶番が根本的に外れてしまっている。そんな風に感じました。

 たとえば映画館で二度目に観た時、冒頭近くの、妊娠した義母のナツコが眞人の手をとって自分のお腹を触らせるというシーンに、私は禁忌的なエロティシズムと同時に、不気味な戦慄を覚えました。あのお腹の中にいたのは、じつは、眞人自身なのではないか。もちろん現実的にはありえないことです。映画の最後には一瞬、ナツコが産んだ子の姿も映されていました。しかしもしかしたら……と感じさせるような不気味な手触りが『君たちはどう生きるか』にはあったのです。

 民俗学者の柳田国男は、生まれ変わり(生れ更り)という死生観は「日本人の底にもっているもの」であり、民俗的な「無学の知恵」であり、書物ばかりの勉強ではかえって見失われてしまいかねないが、それが「日本人の信仰のいちばん主な点」だったのである、と書いています。子どもが生まれて一年もたたないうちに死んで、その翌年生まれ変わる。それをクルマゴ(車児)といったそうです。重要なのは柳田が、生まれ変わりを堕胎や間引きの是非ではなく、「生れても気に入らんからまた帰って、また出直す、そういうクルクルまわって生れて来る」ような社会とはいかなるものか、という社会的問題として考えようとしたことです。

 これに対し、宮崎駿は、母親や自らの生まれ変わりを、アジア的なものとして直観していたように思います。『君たちはどう生きるか』を観ながら想起したのは、次のことでした。宮崎駿の母親は、アニメ『風の谷のナウシカ』を制作中の一九八三年に亡くなっています。まだ母の死の喪失感が癒えてはいなかっただろう翌一九八四年、宮崎駿は、中国旅行の時に、死んだ母親が中国人女性の赤ん坊として輪廻転生しているのに出会った、という「或る童話的経験」(小林秀雄)を経験したと言います。

 以下は、大泉実成『宮崎駿の原点――母と子の物語』という本に出て来る言葉です。《中国のなんてことのない場所にいて、母親が小さな女の子を抱いて歩いてるのに出会ったんですよ。ところがその女の子の顔を見たとき、僕は〝あっ、おふくろだ〟と思ったんです。おふくろが、こんな所に生まれかわっている、よかったな、って。もちろん何の根拠もありませんよ。でもそのとき僕はそう確信したんです》。

 そうであるならば、輪廻転生や生まれ変わりという主題は、宮崎駿にとっては、日本人のみの固有信仰というよりも、もっと広くアジア的なもの、東洋的なものに関わるのかもしれません。そして思えば、生まれ変わりや産まれ直しは、宮崎駿にとって非常に重要な主題でした。『君たちはどう生きるか』から、あらためてそのようなことを感じました。
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 たとえば近年、ソーシャリズムとエコロジーを同時に問うような思想・理論にあらためて注目が集まっています。宮崎駿については(本人の諸々の発言を引いて)「マルクス主義を捨ててエコロジーに進んだ」という言い方がしばしばされますが、やはりそれほど単純なことだとは思えません。近年でいえば英文学者の河野真太郎の論考は、その辺りの複雑で重層的な関係性を論じています(『この自由な世界と私たちの帰る場所』)。素朴に考えてみても、宮崎駿の作品の中では繰り返し、女性たちを中心とした協同労働や、近代化を通過しつつそこに原始共産制的なものを回復するようなコミューン的なものが描かれています。

 宮崎作品では、人間の生産力や科学技術と生態系・自然環境の間の交渉やせめぎ合いが、ロマン主義や疎外論のそれとは違う形で問われています。宮崎駿は(つねに、とは言いませんが)階級や被差別などの社会問題と科学技術や自然破壊などの環境問題を同時に捉えようとし、またそれらを同時に揚棄しうる政治神学的なヴィジョンを試行錯誤し続けてきた。私はそう考えています。
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 思えば、スタジオジブリは日本アニメ史の中でもユニークな「理念」を持ったスタジオであり、ある種の社会運動体の側面を持っていました。東映動画の労働争議の流れを経て、ある種のユートピア的な共同労働の場を目指したとも言えます(その実態がどうなのかは別の検証が必要であるとしても……)。ジブリという運動体の「理念」とは、アニメ市場の慣習に対する批判的な距離を取りながら、腕のいい職人たちの手によって、娯楽性(商業性)と芸術性(作家性)を同時に満たしうるような理想的な「漫画映画」を制作し続ける、ということでした。

 たとえばプロデューサーの鈴木敏夫は、その辺りの歴史を踏まえつつ、ディズニー的なものにジブリをぶつけるに際して、「腕のいい中小企業」「下町の職人たちの協同体」というイメージ戦略をあえて国内外で展開しようとしました(……ちなみに、ピクサーは自分たちを「オタクやギークたちによるソーシャルベンチャー」として打ち出す、というイメージ戦略をとっていました。特に初期作品では、『バグズ・ライフ』や『モンスターズ・インク』など、ソーシャルベンチャーのイノベーションによって社会変革を行う、という想像力が物語の軸になっていました)。

 集団的芸術運動の歴史を振り返ると、柳宗悦らによる民藝運動、白樺派の武者小路実篤らによる「新しい村」の運動、ウィリアム・モリスらによるアーツアンドクラフツ運動などは、近代化や機械化、資本主義にたいするラディカルな批判精神を抱えながら(それらに対する微妙に捻れたスタンスを持ちながら)、美的+道徳的なコミュニティを高次元で回復しようとするものだったと言えます。社会運動体としてのジブリを、そうした歴史の中で位置づけなおしてみるのも、興味深いかもしれません。

 自分たちの労働現場そのものを、疎外された工場的な分業ではなく、有機的な協働労働へと高めていくこと。しかも女性や子どもや病者たちがそこに対等に参加しうるということ。作中においてもそうした協働労働のイメージ(近代化的疎外の先に共同性を高次元で回復するようなイメージ)がメタ構造的に表現されてきました(『ナウシカ』の風の谷、『ラピュタ』の鉱山、『魔女の宅急便』のキキ周辺のネットワーク、『紅の豚』の女性たち、『もののけ姫』のタタラ場、『千と千尋』の油屋など)。もちろんそれら自体が新自由主義/ポストフェミニズム的なものへの回収なのかもしれませんが(河野真太郎『戦う姫、働く少女』参照)、やはりそれだけだとは思えません。
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 政治的なもの・社会的なものと宗教的なもの・信仰的なものが重層的に交差していく場所――宮崎駿にとってその根源には、やはり<自然>があるように思われます。それはある種の自然宗教やアニミズム的なものと関わりますが、おそらくそれだけではありません。

 よく知られているように、宮崎駿のアニメーターとしての出発点には、日本的自然のイメージの狭さ、貧しさに対する違和感がありました。そしてそれをアジアの方へ解き放つ、という経験がありました。

 引用します。「違う目線で日本を眺める切り口が欲しかったんですよね。そうじゃないと、僕の遭遇してきた日本というのは本当に惨めなみすぼらしいものでしたから。だから、中尾佐助さんや、藤森栄一さんっていう民間の考古学者の方がいるんですけど、そういう人たちの目線に出会うことによって、なんとかして日本の自然みたいなものを取り込んで…(略)」。

 さらにまた、スタジオジブリの最大の特徴は、自然の描写の仕方にある、とのちに宮崎駿は述べています。「人間同士の関係だけが面白いんじゃなくて、世界全体、つまり風景そのもの、気候、時間、光線、植物、水、風、みんな美しいと思うから、できるだけそれを自分たちの作品のなかに取り込みたいと思って努力しているからだろうと思います」(「海外の記者が宮崎駿監督に問う、『もののけ姫』への四十四の質問」)。

 では、宮崎作品の中で描かれる自然とは、具体的にはどのようなものでしょうか。宮崎的自然は多元的で重層的なものとして構成されているため、それをすっきりと分かりやすく把握することはできません。

 以下では幾つかに腑分けしてみます。

 魂が還るべき清浄な自然、「日本的」自然【1】。

 今も多くの日本人の中に残っている宗教心がある、と宮崎駿はしばしば述べています。人間が足を踏み入れられない森の深い場所に、聖なる場所、清浄な場所がある。そこでは豊かな水が湧き出ていて、静けさが守られている。自分が死んだら、そういう清浄な場所へと還っていきたい。聖人の導きはいらない。天国や極楽も存在しない。ただ、誰もが等しく、死んだら同じ場所に還っていく……。

 こうした日本人の素朴な信仰は、体系的な教義や組織を持つ宗教と比べれば、とても宗教とは呼べない、純朴で質素な信仰心のようなものでしょう。日本人にとっては、庭先をきれいに掃き清めることや、温泉に入ってのんびり体を清めることが、そのまま、宗教的な行為や儀礼と等しいものとして感じられてきたのであり、むしろそうした日常的な行為こそが、もっとも単純で確かな信仰のあり方でした。

 こうした清らかな自然のイメージは、実際、宮崎アニメの様々な場所に出てきます。青く美しい結晶に覆われた地下空洞(『風の谷のナウシカ』)。澄んだ水の底に沈んだ古代都市(『天空の城ラピュタ』)。美しく平和的な森の木々(『となりのトトロ』)。神々しく輝くシシ神のお池(『もののけ姫』)。主人公とヒロインが出会う静かな森の奥の池(『風立ちぬ』)。こうした清らかな自然のイメージが、どんな経済的繁栄や高度な科学文明の中でも、日本人の魂の奥にひそかに残っていて、「心の正常さ」を支えてくれているのではないか。宮崎駿の中にはこうした自然感覚があります。

 エコロジカルでアニミズム的な自然【2】。

 宮崎駿自身はそう言われるのを嫌うかもしれませんが、宮崎作品の中には確かにエコロジー的な自然、あるいはアニミズム的な自然との交流、交歓が描かれています。それこそがジブリ作品の代名詞とすら思われているかもしれません。それはいわば、人間主義的な自然観(機械論的な自然観)とは異なるような、有機体的な自然観(生気論的な自然観)であるとも言えます。

 雑ざり合って変化し続けていく自然(=腐海的自然)【3】。

 しかし、それだけでもありません。宮崎作品の中では、異質なものが雑ざり合いながら、変化し続けていく、という自然のあり方が描かれています。例えば『風の谷のナウシカ』の冒頭の、腐海の描写を思い出してみましょう。そこでは、人間だけではなく、様々な生物や蟲たち、植物たちが、互いに敵対しつつ共存しながら、不思議な生態系を形作っています。腐海の自然は、普通の人間からすれば、決して美しくも平和的でもありません。しかしナウシカはそれを「きれい」と言うのです。花や木や森だけが美しいのではありません。鉄やセラミックや放射性物質とも雑ざり合いながら、変化し続けていく自然――そこに腐海の高次元の美しさがあり、崇高さがあると言うのです(ちなみに宮崎本人によれば、腐海のイメージを与えたのは、シュワージュ(腐った海)というクリミア半島、ウクライナ南部の付け根にある場所だという)。

 たとえば『天空の城ラピュタ』のラピュタ城でも、人間たちが滅びて700年もの時間が経過するうちに、ロボット、動物、植物、鉱物たちの間に、不思議な交流が生じていました。彼らは共に暮らし続け、共に変化し続けてきたのであり、ラピュタ城の中に「想像もつかない複雑な生態系」を産み出してきたのでした。あるいは、屋久島の雄大な自然を題材としながら、どこかテーマパークのような『もののけ姫』のシシ神の森。バブル後につぶれた地方のテーマパークといにしえからの八百万の神々の世界が地続きになった『千と千尋の神隠し』の世界。ガラクタの寄せ集めのような『ハウルの動く城』の城。これらもまた、さまざまな要素が雑ざり合いながら、たえず変化し続けていく自然のあり方を示しているように思えます。

 理不尽な自然、畏怖すべき災害的自然【4】

 宮崎駿はさらに、自然の恐ろしさ、人為ではどうにもならない災害的な理不尽さをも繰り返し描いてきました。それは「混ざり合う」という経験の中には解消しえないような破壊的理不尽さであると言えます。例えば、巨大な王蟲の群れが大地を埋め尽くしていくカタストロフィ(『風の谷のナウシカ』)。海辺の町を古代の海へと沈めてしまう大嵐と大波(『崖の上のポニョ』)。突然の台風と洪水によって水に沈んだ世界(『パンダコパンダ 雨ふりサーカスの巻』)。繰り返し不気味に襲ってくる地震と大津波(『未来少年コナン』)。暴走したデイダラボッチが黒いどろどろの塊になって、人間も森も物の怪も、すべてを無差別に呑みこんでいくシーン(『もののけ姫』)……。

 こうした自然の災害的な恐ろしさは、旧約聖書の『ヨブ記』の神の理不尽さに近いものかもしれません。火山列島日本に固有の神とは、火山の神、火の神(「出雲国風土記」のオオナモチ、記紀神話のスサノオや大国主)だった、という説もあります。そもそも自然とは、人間によって所有や管理のできるものではありません。自然は何の意味も理由も目的もなく、私たちの家財や農地、家族や恋人の命を奪っていきます。「環境を大切に」「自然に優しく」などのスローガンはたんなる人間の傲りにすぎません。

 霊界的自然、黄泉的自然【5】

 そして宮崎駿はある種の霊的世界、死者の世界、黄泉の国を美しく静止的な自然イメージとして(ただし【1】とはまた異なるものとして)描いてきました。そしてそれは次第にはっきりしてきたように思えます。『君たちはどう生きるか』を観た後、そうしたことも気になるようになってきました。たとえば……『君たちはどう生きるか』の「下」の世界は、死後の世界であり、産まれる前の水子たちが生まれ変わりを待機する場所でもありました。あるいは『千と千尋の神隠し』終盤の、「銀河鉄道の夜」を髣髴とさせる電車の旅路。『紅の豚』の死んだ飛行機乗りたちが舞い上がっていく青い空と雲の上。『風立ちぬ』の草原。『ポニョ』終盤の、死者たちと出会う水没した世界。『パンダコパンダ雨ふりサーカス』の水没した世界。
 そしてもしかしたらそれは、地球外からやってくる宇宙的なモノ(宇宙船としての塔?隕石?飛行石?)の外部性に関わっているのかもしれません(この辺りについては、今後考えてみたいところでもあります)。
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 さて、ひとまず強調しておきたいのは、次のことです。宮崎は、こうした重層的な自然を、日本列島の内側にとどまらず、広大なアジア大陸の拡がり(交通空間)の中でイメージしようとしてきた、ということです。

 すでに触れたように、宮崎駿は、若い頃に、栽培植物学者の中尾佐助(1916-1993)や民族学者の佐々木高明(1929-2013)が唱えた「照葉樹林文化説」から大きなインパクトを受けました。
照葉樹林文化説とは、照葉樹林が広がる日本西南部から台湾、華南、ブータン、ヒマラヤまでの地域には、共通の農耕や文化が成立していたのではないか、という学説のことです。特に中国雲南省を中心とする「東亜半月弧」に、照葉樹林文化の起源がある、と考えられました。この「東亜半月弧」から、農耕・モチ・納豆・焼畑・茶・絹・漆などに関する文化要素群が伝播し、西日本の縄文文化へも強く影響を与えてきたのだ、と。

 例えば、水さらしによるクズ・ワラビ・ドングリのあく抜きや、味噌・納豆・ナレズシなどの発酵食品は、日本古来の食文化であると考えられてきました。しかし、中尾らの学説では、それらの文化は、日本列島の内側に閉じたものではなく、広大なアジア文化圏としての豊かな広がりを持つものとして、あらためて、捉え返されていくことになります。

 もちろん、このエピソードは有名になりすぎたかもしれません。あるいは照葉樹林文化説についてはすでに学問的な多くの批判もあるでしょう。しかしひとまずここで重要視したいのは、宮崎駿がそこから何を受け取ったか、ということです。宮崎は、こうした自然観と出会うことによって、初めて、日本的自然をアニメーションの技術によって十全に表現しうる、と確信できたのでした。

 例えば宮崎は言います。ふっくらしたお米が好きな民族というものは、世界でもあまり数が多くはなく、日本、中国の雲南省、ネパールくらいだろう。そういう民族としての日本の民たちは「実はこの日本国ができる前から、日本民族というのが成立する前から、もっと古くからそういう文化圏の人間だった」のではないか(「トトロは懐かしさから作った作品じゃないんです」)。

 だから今も、雲南に行けば、おこわのような食べ物がある。ブータンの人々の顔は、日本人の顔とそっくりだ。そういうことを学んだ時に、宮崎は、すがすがしい解放感を味わったと言います。日本列島の中だけで通じるような、狭苦しい文化や歴史の考え方から解放されたように思えたからです。自分が日本という国の中で生きていることが、もっと壮大なものの流れ――国境を超えて、民族も超えていくような、世界そのものを吹き抜ける壮大な流れとじかにつながっている、と。

 こうした考え方は、日本人の民族的な象徴として「米」を祭り上げる、といういわゆる稲作イデオロギーとは異なるものです。この場合の文化圏とは、単なる表面的な情報や知識ではなく、食べることや祈ることと分かちがたいような、人々の暮らしのあり方に深く根差した次元のことです。

 もう少し細かく見ていくと、宮崎が好んでいるのは、お米そのものというよりも、餅や納豆などの「ねばねばしたもの」のようです。例えば米についてもその「ふっくら」したところに魅かれると言います。重要なのは、こうした「ねばねばしたもの」への興味が、そのまま、『風の谷のナウシカ』の腐海的な自然のイメージとも重なっていく、ということでしょう。

 児童文化研究者の村瀬学は、宮崎アニメの独創は、アニメーションの世界を、菌類や微生物の世界とじかに重ね合わせたことある、と述べています(『宮崎駿の「深み」へ』)。考えてみれば、腐海は、単なる死や毒の世界ではありません。蟲や木々や菌たちは、腐海の中でいきいきと生きています。腐海の中で新しい進化を遂げながら。そもそも、腐ることは、人間の眼からみれば、生き物が次第に朽ちて死んでいく過程を意味するでしょうが、微生物や細菌のレイヤーからみれば、豊かに活性化し、活動的になっていくことを意味し得ます。

 すなわち、米やモチや納豆など、食べ物が「ねばねばしたもの」に発酵したり、熟成したり、他の命と雑ざり合って、共に変化し続けていく過程――そうした腐海的な熟成=変化の過程の中に、宮崎駿はある種のアジア的な原理を発見していたのです。

 もともと、伝統的なアジア主義者たちは、国際的な緊張関係の中で、西欧文明によるアジア文明の侵略・支配に対する抵抗運動として、同朋的なアジアの精神に覚醒していったのでした。しかも、それは同時に、内向きなナショナリズムの自閉性を国際的な外へと開く、ということを意味していました。

 たとえば近代日本美術の立役者・岡倉天心は、「アジアは一つ」と宣言しましたが、それは、近代西洋的な価値観を超克するために、アジア的な寛容と平和の理念を打ち立てようとするものでした。それは何より、美(宗教)の原理のもとに、平和を構想することでした。もちろんそこに植民地主義や帝国主義の現実があったことは否定できません。 しかし竹内好が強調したように、そこにある危うい両義性を背負っていくことなしに、日本近現代以降のアジア的なものの問題を考えていくこともできないのです。

 とはいえもちろん、宮崎駿本人がアジア主義者を名乗っているわけではありません。そもそも一口に「アジア」と言っても、それは一枚岩ではありません(ちなみに岡倉天心の論もそもそもそのようなものであったことを、橋川文三は強調しています)。たとえば、宮崎駿の作品には(初期マンガ『砂漠の民』『シュナの旅』などを含め)中央アジア的なものの要素が強いことがしばしば指摘されます(エフタルも中央アジア古代史に登場するイラン系遊牧民だそうです)。宮崎的アジアは様々な要素のハイブリッドから成り立っており、<アジア>の質をもっと細かく腑分けしていく必要があります。

 そもそも現代の人文科学的な学問の認識においては、「西洋/東洋」という二元論はあまりに粗雑なものであり、抽象的なものであると言わざるを得ませんが、それでもグローバリゼーションの流れの中での「方法としてのアジア」(竹内好)という考え方は、依然として一定程度有効なのではないでしょうか。

 そのような幾つかの前提を踏まえたうえで、宮崎駿が、自らのアイデンティティの根拠をアジアの拡がり=交通空間へと開いた時、アニメーションによって日本的自然の姿を生き生きと描くことができる、という確信をつかんだということ。まずはそのことをあらためて確認したいと思います。

 たとえば『となりのトトロ』の東京のはずれの田舎の自然は、いかにも日本特殊的な自然にみえますが、それもまた実は、アジア的な自然との広域的な連続性の中で捉えられていたはずです――つまり、正確に言えば、宮崎的自然の中には、日本的なもの/アジア的なもの/世界史的なものの間に、つねに微妙な緊張関係があるということ。そのことを重要視したいと思っています。
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 とはいえ、ここにはやはり屈折があります。たとえば『風立ちぬ』における中国の描写の否認、回避という問題はやはり象徴的なものでしょう。零戦にとってのはじめての戦闘任務は、一九四〇年八月一九日の重慶爆撃であり、陸軍の九六式陸上攻撃機の護衛飛行でした(『ジブリアニメから学ぶ 宮崎駿の平和論』参照)。零戦的なものを主題とするにもかかわらず、宮崎駿は『風立ちぬ』の中で、爆撃される者たちの側、中国側の人々を描くことはできませんでした。

 宮崎駿は次のように言います。

 《それをつくるところは映画に入れました。でも、それが活躍するところはまったく描かなかったです。というのは、堀越さんのつくったその飛行機はすべて中国大陸で活躍している。(略)ですが、中国大陸の上で空中戦をやって戦果を上げた、などというような映画はぜったいにつくりたくないですからね。でも、あの人は戦闘機をつくりたいんじゃなくて、飛行機をつくりたかった人だ、ということは確信しています。結局あの時代、いちばん優秀な技術者は戦闘機にまわされましたから。》(『腰ぬけ愛国談義』63頁)

 ところで、『風立ちぬ』冒頭の少年時代の夢に出てくる草原、尊敬するイタリアの飛行機設計家カプローニとはじめて出会う草原は、完全なフィクションなのだそうですが、物語の終わりに出てくる草原には、具体的なモデルがあるそうです。それはノモンハンのホロンバイル草原です(『腰ぬけ愛国談義』183頁)。ホロンバイル草原は、昭和一四年(一九三九年)夏のノモンハン事変の際に、日本陸軍がソ連軍と戦った戦場です。

 『風立ちぬ』では中国の戦場の殺戮や死を直接的には描けなかったものの、最後にホロンバイルをモデルとする草原を描写したということ。ここには宮崎駿らしい複雑なねじれがあります。

 宮崎自身はノモンハンの現地へ直接行ったことはなく、映画内に出てくるのは「想像で描いたホロンバイル」でしかないものの、宮崎は、日本とアジアの陰惨な歴史を踏まえた上で、『風立ちぬ』では人が死ぬような戦闘の場面はあえて描かなかった、と言っていたのでした。それは堀越二郎氏への評価の揺れ動きとも関わるものでしょう。

 思えば、そもそも宮崎駿が影響を受けた照葉樹林文化説は、戦中に侵略戦争のイデオローグになった側面をもつ京都学派とも関係があります。後ほど述べるように、漫画版『風の谷のナウシカ』の覇道/王道をめぐる対立は、儒教/朱子学的なものの伝統に由来するのみならず、アジア主義的なものと深く関わります(孫文の有名な講演もまた、屈折に満ちたものでした)。少なくとも、ジブリ作品や宮崎駿にとってのアジア的なものをめぐる屈折は、日本近現代史上のアジア主義/京都学派/世界史の哲学/近代の超克/日本浪曼派などの問題系ともわかちがたく絡み合っているのではないか。

 しばしば言われるように、戦後日本のサブカルチャーは、戦争期の大日本帝国/大東亜共栄圏/満州国の「夢」を取り返そうとする、という欲望に憑りつかれています(福嶋亮大『復興文化論』)。映画評論家の渡邊大輔は、宮崎・高畑が若い頃に働いた東映動画には、満州(満映)という「ありえたはずの戦後日本/映画」の「夢」が流れ込んでおり、スタジオジブリの作品にも至るところに「満州の影」が見出される、と論じています(渡邉大輔「スタジオジブリから「満州」へ――日本アニメーションの歴史的想像力」)。『千と千尋の神隠し』の建築群は「満州国的」と言ってもよく、アジア的/多国籍的な猥雑さに満ちている、とも言えるかもしれません。

 たとえば甘粕正彦(陸軍軍人。大杉栄と伊藤野枝の虐殺事件(甘粕事件)を起こす)は、一九三九年から満映のトップを務めていましたが、ディズニーの『ファンタジア』(アニメによるワグナー!)の上映を観て、劇場アニメーション映画に強い関心を抱き、部下の赤川孝一(赤川次郎の父)に命じ、満映で長編アニメーション映画の自主製作に取り掛かろうとしています。満州国の崩壊によってそれは実現しませんでしたが、赤川は戦後に東映動画に入社し、黎明期の東映のアニメーション製作における中心的存在の一人になります。そして赤川が企画を立て完成させたのが『白蛇伝』でした。

 とすれば、宮崎作品に潜在する民俗的な自然宗教においては、日本的自然/アジア的自然/地球的自然(腐海)の間の葛藤とせめぎ合いがあるはずです。そしてそれは戦中の国策映画~満映~東映動画~スタジオジブリ……という歴史性とも繋がっているように思われます。

 東映動画の創設時の「夢」とは、ディズニー映画的な劇場用フルアニメーションを、アジア的な民話・神話を用いて作り出す、というアジア的オルタナティヴの夢でもありましたが、そうした側面をスタジオジブリがある形で継承して実現したのだ、とも言えるのかもしれません。 では、ジブリ作品において、アジア的なものの追求と否認が反復的に見られることをどのように受け止めればいいのでしょうか。
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 ……脱線しますが、ちなみに、高畑勲は、『おもひでぽろぽろ』の制作前に、しかたしん(児童文学作家、劇作家)の『国境』三部作の第一部を原作として、日本による中国への侵略戦争・加害責任の問題を扱うという企画を進めていました。残された企画書によれば、それは失踪した友人の行方を尋ねて、京城(現ソウル)から旧満州に旅立った一人の日本人少年の視点を通して、大日本帝国の植民地としての満州国の風景や現実をアニメとして再現する、というものだったそうです。しかし、一九八九年の天安門事件の余波をうけて、企画そのものが流れてしまいます。高畑はその代わりに、塩漬け中だった『おもひでぽろぽろ』の制作を再開します(「男鹿さんの描く自然」)。

 高畑勲はなぜ、満州や内モンゴルの歴史を描くプランから、日本の東北地方の有機農業を描く映画へとシフトしていったのか。この曲がり角には何があったのか。それは『火垂るの墓』が、太平洋戦争の敗戦のみを鬱病的・感傷的に描き、一五年戦争を歴史修正しているという側面があり(スーザン・ネイピアの批判)、そのことが戦後日本アニメの一つの呪縛ともなった、ということとも無関係ではないのかもしれません。
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 さて、色々と助走や脱線を続けてきましたが、ここからようやく、『風の谷のナウシカ』について考えていこうと思います。

 私はかつての『宮崎駿論』では、宮崎駿の自然・信仰・資本主義などの主題を論じました。そこでは、政治の問題についてはあまり具体的には論じられませんでした。また、政治と自然の関係性におけるアジア的なものの問題(アジア的専制や天皇制の問題を含む)も論じることができませんでした。

 漫画版の『ナウシカ』という作品にとって部族社会や王権の問題、そして「覇道と王道」という政治理念の対立が決定的に重要であり、宮崎駿がそれをアジア的なものの問題として展開しているにもかかわらず、です。そのために、前述した『橋川文三とその浪曼』や『安彦良和の戦争と平和』等の仕事を通して、自分の『宮崎駿論』の物足りなさを感じるようになりました。

 基本的なところを確認します。『ナウシカ』の舞台となるのは、一〇〇〇年前の「火の七日間」と呼ばれる世界戦争のあとの、ポストアポカリプス的な、人類があと一〇〇年ほどで絶滅すると予想されるようなたそがれの世界、没落的世界です。地球の生態系の頂点はすでに人類ではありません。

 ナウシカは、ある種の聖人であると同時に軍人であり、地下に実験室をもつ科学者でもあり、自然を観察するために世界をさ迷うフィールドワーカーでもあります。私はかつて『宮崎駿論』で、『ナウシカ』という物語は、その全体が、腐海という人為と自然が入り混じった自然史的なものの謎を解明するための新たな『資本論』のように思える、というようなことを書きました。

 もちろん『ナウシカ』には、近代的な産業資本主義以降の貨幣経済が描かれているわけではありません。とはいえ、人間の労働・技術と自然・環境との間の物質代謝的な関係を通して、疎外や自然破壊が生じていきます。『ナウシカ』はそのような仕組み自体を分析していきます。それらのミクロな関係を通して、主体と客体、科学技術と自然環境が相互浸透的に混じり合い、変容し合うような新たな生態系が生じています。

 近年はたとえば人新世や資本新世などの言葉がありますが、宮崎駿の<腐海>という概念は人為/自然、人間/非人間の境界線を脱構築し続けていく自然(自然史的自然)と言えます。そこではたとえばゴミや堆積物、鋼鉄やセラミック、あるいは核廃棄物すらも自然の一部であると見なされていくでしょう。

 それならば、そうした腐海的自然の変化と内的発展を通して、未来に浄化が訪れるのでしょうか。物語のある段階まではそうした「仮説」が示されます。それはあたかも、資本主義の拡大を通して、資本主義が内在的/発展段階的に浄化されて共産主義=ユートピアに至る、という「仮説」を思わせます。

 しかしながら、周知のように、そうした目的論的なユートピア主義こそが、『ナウシカ』の後半・終盤では、決定的な形で批判されていくのでした。しかし、だとすれば、そうした非目的論的な腐海的自然=資本新世の中で、そもそも、人間たちの<政治>とはいかなるものでありうるのでしょうか。

 『ナウシカ』にはエコロジー/キャピタリズム的なものへの問いと同時に、政治的統治の正統性をめぐる部族社会論/王権論的/国家論的な問いがあります。非主権的な国家形態、侵略や略奪を再生産しない非暴力的な統治形態とは、いったい、いかなるものであるべきか?

 それは「覇道と王道」という言葉にひとまず託されています。

 風の谷は辺境の小さな部族社会であり、ナウシカは「族長」の家系です。女性の族長はナウシカが初とされます。赤坂憲雄は、ピエール・クラストル『国家に抗する社会』等も参照しつつ、「王が統べる国家に成りあがる、わずか以前に属する部族社会というユートピア」こそが宮崎作品の原風景である、と論じています(『ナウシカ考』46頁)。

 とはいえ風の谷の実態は閉じた前近代的ユートピアではありえません。ナウシカはつねに民たちの側に寄り添おうとしますが、族長=指導者である限り、政治的外交や権力・武力に関する責任とも無関係ではいられません。実際に、風の谷は牧歌的でエコロジカルな自給自足の平和的コミュニティなどではなく、これは稲葉振一郎が『ナウシカ解読』で強調したように、トルメキアと封建的主従関係を結び、軍役と引き換えに自治権を認められた辺境の氏族国家であり、「戦争の当事者」でもあります。

 この世界の二大勢力はトルメキアと土鬼連合であり、両国がいわば人類絶滅へ向けた新たな世界最終戦争を戦っているような状況です。ヴ王(クシャナの父親)が率いるトルメキアは、いわば西洋型の帝国主義国家であり、覇道的な巨大帝国と言えます。

 他方の土鬼連合は、僧正たちが強い権威をもつ宗教国家の連合体です。51の土鬼の諸国を束ねる神聖皇帝は、いわばアジア的な呪術王と言えます。土鬼連合の聖地であるシュワの「墓所」には、旧世界のテクノロジーが隠されています。土鬼たちの国では、宗教的権力と科学技術が融合しつつ、僧会の権力が暴走しています(土鬼の中にはマニ族のようにそれに反対する勢力もあります)。それはいわばアジア的専制の成れの果てのようなものに見えます。

 そのほかに、トルメキアに滅ぼされる工房都市ペジテ、風の谷を含めた辺境諸国連合(古エフタルの名のもとに集う、王権国家以前の、部族社会の小集団たち)、蟲使いたち(呪われた武器商人の末裔で、十一の氏族がある。卑賤視されている)、「森の人」(蟲使いの「祖」にして「最も高貴な血の一族」とされる。火を捨て、人界を嫌い、腐海の奥深くに住んでいる。エコロジー的なコミューンを実践する人々)等が点在的に描かれています。

 さて(私はまだ勉強不足で一般的なことしかひとまず言えませんが)、王道/覇道とは、儒学/儒教的な概念であり、『大辞泉』によれば、王道とは「儒教で理想とした、有徳の君主が仁義に基づいて国を治める政道」であり、覇道とは「儒教の政治理念で、武力や権謀をもって支配・統治すること」 とされます。

 ざっくり言うと、『孟子』において、天下統一の二つの理念が覇道と王道に区別されました。王道とは、儒家が理想とする先王のように、徳をもって世を治めること。覇道とは、春秋時代の諸侯のように、武力や知力をもって世を治めること。動機としては、覇道は利の心、王道は仁の心。方法としては、覇道は武力、王道は徳化。

 『孟子』では王道が勧められますが、覇道にも一定の価値が認められています。『荀子』では覇道がさらに積極的に評価されていきます。そして法家の『韓非子』では覇道王道の区別自体が消滅して、覇王という概念が登場します。

 日本の場合は、ここにさらに複雑な捩れが加わります。それは儒学、朱子学、尊王攘夷、近代天皇制などが関わってくるためです。これもざっくりといえば、覇道的な戦国時代の勝利を通して天下をとった江戸幕府が、自分たちの正統性を強化するための御用学問として朱子学を導入し、自分たちの政治こそが王道に基づく、という主張をしました。ここにはすでに重大なねじれが生じています。

 のみならず、のちに水戸光圀が『大日本史』を通して、武家政権とは覇道にすぎず、真の王道は天皇の伝統的な徳に基づく徳治政治の方にある、と主張することになりました。よりによって徳川御三家筆頭であるはずの水戸藩からこうした考えが出てきたのです。武士や将軍ではなく、天皇こそ王道であると。そしてペリー来航の国難もあって、天皇の権威が高まり、尊王攘夷の流れになっていきます。そしてそれが明治政府の近代化そのものに関わっていったのでした。

 たとえば『もののけ姫』のエボシ御前には、天皇への反逆、いわば大逆的欲望が見られましたが、それ自体が奇妙に屈折したものでした(杉田『ジャパニメーションの成熟と喪失』参照)。そのことも上記のような何重もの捩れに関わるように思われます。

 とすれば、「覇道=西洋的、王道=アジア的」であり、後者が前者に優越する、という単純な二元論は成り立ちません。王道とはアジア主義者たちを鼓舞した言葉であり、王道楽土とは大東亜共栄圏のためのイデオロギーでした。『ナウシカ』でも、西洋的な覇道の残虐さを東洋的な王道政治によって浄化すべきだ、という単純な話にはなっていません(西欧型=トルメキアもアジア型=土鬼連合も共に批判されます)。

 もちろんさらに『ナウシカ』の世界には、キリスト教の終末論や千年王国主義の伝統に基づく聖人、救い主という宗教観も色濃くあります。あるいは土着的な呪術的なもの、シャーマニズム的なもの、アニミズム的なものもあります。こうした複雑な宗教混合や何重もの捩れを考えざるをえません。
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 ……また多少の脱線になります。たとえば漫画家でアニメーターの安彦良和は、アニメ監督時代に、『アリオン』で『ナウシカ』に敗北感を感じ、さらに『ヴイナス戦記』でもう一度『ナウシカ』に対抗意識をもって作ったけれど、木っ端みじんになった、と言っています(『安彦良和の戦争と平和』参照)。

 安彦作品には、日本近代史における(広い意味での)アジア主義の魂が脈々と流れています。満洲事変の首謀者である石原莞爾、黒龍会の大陸浪人的な右翼・内田良平、アジアの朋友たちと交わって世界共和国を夢見た宮崎滔天など、広義のアジア主義者たちが登場します。あるいは中国革命の父・孫文、李氏朝鮮時代の開明派であり甲申事変のあと日本に亡命した金玉均なども。

 アジア主義とは、近代化に伴う欧米列強の侵略支配に対抗し、アジア的な平和の道を模索した思想や行動の総称である、とひとまずは言えます。一方ではアジア諸国への侵略や植民地化を正当化するイデオロギー(大アジア主義、五族協和など)として強く批判されてきましたが、他方では当時の国際状況の中で、西欧列強の横暴に対抗して、覇道(武力によって制圧すること)ではなく王道(徳をもって治めること)によって超国家的な平和を実現するための思想・生きざまとして、リスペクトされてもきました。力が支配する国際政治のリアリズムを見すえつつ、民族や国境を超えた理想的なアジアの平和を実現しようとすること、そうした思想や行動がなぜ、過剰な暴力や支配へと帰結していくのか。それが近代日本史上のアジア主義のジレンマであると言えます。

 安彦作品はそうした歴史的な矛盾と挫折を引き受けながら、それでもなお、日中戦争/大東亜戦争/太平洋戦争の「戦後」という場所に立って、何らかのアジア的な平和の王道を探し求めてきました。ゆえに安彦良和は、それは(迷える子羊ならぬ)迷える狗(『王道の狗』)の道であらざるをえない、と見做してきました。覇道でもなく、王道でもなく、「王道の狗」という屈折したロマン主義的な「道」。これは『ナウシカ』が――様々な曖昧さを持ちつつも――最後まで「王道」を未来への希望として肯定的に語りえたこととは、かなり異なる姿勢に見えます。
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 さて、『ナウシカ』の二人の主人公は、ナウシカとクシャナです。

 クシャナの目的は明確に「政治的」なものです。自らが育てた第三軍の主力と合流し、トルメキア王都に戻り、軍事クーデターを起こし、兄弟や父親の権力を打倒し、自らの王権を打ち立てること。腐敗した覇道を健全な覇道によって改良すること。その点ではわかりやすい政治観・国家観を持っているとも言えます(当初のクシャナが創設しようとしていた政治的共同体が、たとえば『もののけ姫』のエボシが率いるタタラ場のような包摂的多様性や、『千と千尋』の油屋のような猥雑さをもった政治的共同体たりえたのかは不明です)。

 これに対し、ナウシカが目指す(政治神学的な?)共同性や世界像は、もっと複雑で、はるかにわかりにくいように思えます。そしてナウシカにとっては、覇道的トルメキアよりも、アジア的専制や呪術性をもった土鬼の神聖皇帝との対決が重要になります。

 ナウシカは一貫して、人間中心主義(ソーシャルなもの)と生命中心主義(エコロジカルなもの)の間で葛藤し続ける存在です(稲葉振一郎はそれを個体に関わる倫理と複数の立場を調整する政治の間の葛藤、引き裂かれとして論じました)。

 だからこそ、エコロジー的一元性に属する森の人のコミュニティに帰依することをも拒絶します――「でもあなたは生命の流れの中に身をおいておられます/私はひとつひとつの生命とかかわってしまう…」「私はこちらの世界の人達を愛しすぎているのです/人間の汚したたそがれの世界で私は生きていきます」(ここは後年の『君たちはどう生きるか』を思わせます)。

 そのようなナウシカが目指す政治体制とはどんなものか――おそらくそれは、ナウシカがしばしば口にする「友愛」に関わるように思われます。『ナウシカ』の世界における友愛の政治とは、フランス革命の「自由・平等・友愛」のそれとはおそらく異なるものでしょうが、民衆を鼓舞する一つの政治的なスローガンであり、理念としての政治体制を予感させる概念でもあります。

 では、友愛的な政治とは何か。この世界には、覇道でも王道でもないような友愛の政治という道があるのでしょうか。『ナウシカ』にはそのような問いが潜在的にあるように思われます。
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 ダブル主人公の一人であるクシャナが、後半、ナウシカに匹敵するほどの飛躍と成長を見せられなかったことは、いかにも残念であり勿体ない感じがします(稲葉『ナウシカ解読』は、後半のクシャナの「非力」さや「投げやりさ」を強く批判しています)。

 クシャナの怒りにおいては、私情をカッコに入れた政治的合理性というよりも(それもありますが)、自分を愛し庇護してくれた母の復讐という個人的怨恨が先走っていました(子守歌の共有)。物語の中盤、母上を陥れた兄の一人が蟲にやられて死んでしまった時点で、クシャナのクーデター欲望はやや不自然なほどに急速に萎んでしまいます。

 ユパが繰り返し、今後の世界にはクシャナが必要と訴えるにもかかわらず、クシャナは妙に死にたがっています。しかしクシャナがそこから踏み出して、真の意味での政治家として甦って、終盤のナウシカを補完するのみならず、対立しつつ緊張関係に入るほどの成長と甦りを見せていたら、どうだったのでしょうか。

 物語の最後に、トルメキアのヴ王は死んでクシャナに王位を譲ります。しかしクシャナは、私は王にはならぬ、すでに新しい王を持っている、と主張します。そして言います。だが帰ろう、王道を開くために……と。その後のクシャナは、トルメキア中興の祖と称えられたそうです。ここから分かることは、人類はその後簡単に滅亡することはなく、少なくともある程度までは存続した、ということです。

 しかし、その後のクシャナは本当に王道を開けたのでしょうか。クシャナは生涯、代王にとどまり、王位にはつかなかったとあります。それ以来、トルメキアは王を持たぬ国になった、と。クシャナにとっては、ナウシカ的存在こそが真の王であり、自分は政治的なその身代わりにすぎないとされたようです。

 しかし、王の座を空虚化しつつ代王として振る舞う、という政治体制は、明治政府以降の輔弼制度=「無責任の体系」をどこか思わせます。あるいはアジア的専制の変形としての近代/戦後天皇制のことを……。

 トルメキアの行く末のこの折衷的な曖昧さは、やや不気味に思われます。それは真の王道というよりも、天皇制的体制による西洋的覇道の夢を象徴するのでしょうか。少なくとも年代記の記述から推測するかぎり、クシャナはおそらく共和制を敷くことはできませんでした。そもそもクシャナが目指していたのは「上」による軍事クーデターであって、民衆による下からの叛乱・革命ではありませんでした。ヴ王はいわば勝手に死ぬのであり、クシャナは父殺しを果たすこともできませんでした。

 どうでしょうか。もしもクシャナがきっちりと王を殺し、王政を廃止して、共和制の「創設=始まり」を開くことができていたら――。
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 さて、ナウシカにとっての友愛の政治のことを考えてみましょう。

 今回、『ナウシカ』を読み直して、重要に思えたのは、ナウシカが頻繁に「みじめさ」という言葉を使っていることです。みじめな生。それは虚無、とも表現されます。虚無であることのみじめさ――この言葉はたとえば神聖皇弟、粘菌、ヒドラなどに用いられます。

 では、みじめな生とは何か。終盤の「主」との対話の中で、「いのち」には光と闇が共に必要とされます。「いのち」とは闇に瞬く光である、と。

 人間は誰もが闇や悪を抱えています。しかし虚無は闇よりさらに暗いもの、悪よりもさらに悪いものとされます。虚無の深淵、とも言われます。つまり、光/闇の二元的対立の中にすら入って来れず、零れ落ちていくもの。それがみじめさです。

 虚無のみじめさとは、ひとまずは、生の中に恐怖や憎悪や絶望しかなく、死の中に最後の救いや安息、安楽を求めざるを得ない、そのような状態のことと言えます。しかしそれだけでもありません。虚無とは、おそらく、存在/無のいずれでもないような様相です。

 つまり、この世界に確かに産まれてはきたのだが、「いのち」(光と闇、善と悪の両面をたたえたもの)とは言えず、真に生きているとは言えない、そのようなものたちの蠢きが虚無なのではないか。「いのち」未満の唯の<生>……「いのち」とは呼べない「いきもの」……。

 しかしナウシカは、そうした「いのち」とは言えないみじめな生――「いのち」未満の「いきもの」――ですら、生命としては「同じ」である、と繰り返し主張します。

 特にそこで取り上げられるのはヒドラです。「たとえどんなきっかけで生まれようと生命は同じです/おそらくヒドラでさえ……精神の偉大さは苦悩の深さによって決まるんです/粘菌の変異体にすら心があります/生命はどんなに小さくとも外なる宇宙と内なる宇宙を持つのです」。「その人達はなぜ気付かなかったのだろう、清浄と汚濁こそ生命だということに/苦しみやおろかさは清浄な世界でもなくならない/あわれなヒドラ、お前だっていきものなのに」。

 しかし考えてみれば、大きな意味でのヒドラとは、ナムリスが使役していたヒドラに限りません。庭の主や墓の主たち、あるいは、すでに目的論的な科学技術によって遺伝子レベルで改造された蟲たち、王蟲たち、そしてナウシカたち腐海の全人類もまた、ヒドラ的存在と言えるのではないでしょうか。

 物語が進むにつれ王国/帝国/国家などは総崩れし、地球上の人間たちが難民化したかのようですが、ジョルジョ・アガンベンが言うようにそれはほとんど地球全体の難民化=強制収容所化のようです。

 重要なのは、ナウシカですら、虚無のみじめさを内に秘めていた、ということです。実際にナウシカは、一度は全てを諦めて、粘菌の変異体の中で王蟲たちと共に死のうとしました。そしてナウシカは言います。「闇は私の中にもあります/だとしたらこの者【ミラルパのこと】はすでに私の一部です」。

 ミラルパはかつては民思いの名君であり、理想主義者だったものの、繰り返される絶望と民衆不信の中で恐怖と暴力の塊になっていったことが語られます。逆に言えば、反復される輪廻の中でナウシカにもそうなる可能性があったし、(物語の終わりの)今後もある、ということです。

 ミラルパの兄であるナムリスが五巻で登場します。ナムリスは弟を殺害して土鬼皇帝の権力を乗っ取ります。ナムリスはトリックスター的な破滅主義者であり、血をたぎらせる悦楽を優先し、そのためには帝国も、死も、神もどうでもいい、と言います。他にやることもないからトルメキアと戦争する、とも。

 ニヒリストであるが妙に人間的魅力があるという意味では、ナムリスとヴ王には共通点があるように感じられますが、すべてに過剰に不安がって怯えてしまうミラルパよりも、ナムリスの方がじつはむしろ(実際に度重なる手術によってヒドラ同然の死ねない肉体になっている、というのみならず)闇が深く、虚無的であり、みじめな存在なのかもしれません。

 たとえば終盤に登場する上人さま=髑髏の形をとった虚無の誘惑は、汚れと苦しみばかりの世の中では死によって全てを浄化するしかない、そうなればやっと生の苦を解脱し、死の安息を得られる、というものでした。そうした倒錯的観念の誘惑こそが虚無なのです。

 虚無のみじめさとは、生の苦痛や無感動の中で産まれてこなければよかったと後悔しつつ、しかし死ぬことへの恐怖や世界の虚しさをどうにもできないという状態であり、すなわち、<産まれたにもかかわらず生き始められない>という水子的/ヒルコ的な状態のことであり、<いのち未満の生>のみじめさなのでしょう。

 こうした<いのち未満の生>のみじめさは、たんなる観念的な倒錯とばかりは言えません。たとえばナウシカが最大の理不尽さを一貫して感じているのは、べつに何か悪いことをしたわけでもない蟲や樹々がなぜ、人間の愚かさに巻き込まれて無意味に無惨に死なねばならないのか、ということでした。それはイワン・カラマーゾフが虐待され虐殺される子どもたちについて問うたあの問い――たとえ遠い未来にこの世界の汚濁が浄化されるとしても、それらの存在の苦痛に何の意味があるのか、という贖いの不可能性をエコロジカルに変奏するものであると言えます。

 いいかえれば、ナウシカが中盤に陥る虚無の深淵は、観念的倒錯というよりも、<くもりなきまなこ>による世界の観察から得られた唯物論的で合理的な虚無である、ということです。おそらくクシャナもまた、クーデターに失敗し、母の復讐という原動力を失ったときに、虚無のみじめさに陥っていたのであり、ゆえに奇妙に「死にたがり」になってしまったのでしょう。

 それならば、誰もが国や共同体を失って難民化/ヒドラ化してしまったかのような、地球的=唯物論的なレベルでの虚無のみじめさに向き合いつつ、それでも民たちに「生きねば」という生存理由を与えてくれるような、そうした政治神学的な「道」(とその具体的体制)とは、どんなものなのでしょうか。

 それは必然的に、既存の政治や国家に対する批判であり、また既存の宗教やエコロジーの批判でもあらねばならないでしょう。

 ナウシカは墓所の「主」との対話の中で、王蟲のいたわりと友愛は虚無の深淵から生まれた、と言っていますが、これは重要な言葉ではないでしょうか。逆にいえば、虚無の深淵の中から、あるいはその中からこそ、何らかの友愛的な共同性が産み直されうる、ということです。

 崇高で神聖であるはずの王蟲ですらも人造生命体であり、ヒドラと同じである、ということを認識した上で、ナウシカはそう言っているのです。それにしても、虚無のみじめさの深淵からこそ産み直される友愛の共同性とは、どんなものか?
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 はっきりいえば、ナウシカの中には、あるいは宮崎駿の中にも、かなり根深い衆愚観や民衆嫌悪がある、と私は思います。『ナウシカ』の物語でもやはり基本的には、指導者=聖者=官僚的な視点からこの世界が眺められています。

 とはいえ、ナウシカやクシャナたちの特権性を批判的に切り崩すための努力がなされています。ナウシカが繰り返し、自分のことを聖人や女神として祭り上げたがる民たちを諫め、自分もただの一人の「人間」だと説得し続けるのは、そのためでしょう。そして私が特に重視したいのは、次の言葉です――ケチャ「だめだみんなとてもナウシカのようにはなれない」、ユパ「ナウシカにはなれずとも同じ道は行ける」。

 それでいえば、物語の終盤、風の谷にテパという名前の「新しい風の和子」が登場するシーンも大切かもしれません。大人たちはテパの存在を祝福しつつ、不安をも感じます。新しい風の和子が生まれたのはナウシカがもうこの谷に戻らないからでは、と。

 しかし、逆にいえば、風の谷の人々はべつにナウシカを絶対化してもいない、ということでしょう。リーダー(族長)的な女性が新しく誕生するのであれば、それでいいのだ、ということです。ここに見られるある種の合理的な割り切り方は、淋しさを伴いつつも、やはり重要な相対化であるように思われます。

 『ナウシカ』 の世界では、来世や天国を語るような宗教は信じられていません。人々を危険な迷妄や依存に吸引するものとして警戒されています。しかしこの世界には、超能力/念話的なものが存在し、守護霊のような霊魂の存在もあります。ある種の霊性=スピリチュアリティの実在は自明視されています。

 ちなみに、小山昌宏は、念話や脱魂や幽体離脱などとして表現されるナウシカの力はシャーマニズム的なもので、それが物語の展開の中で次第にアニミズム的なものとも融合していく、と論じています(『宮崎駿マンガ論』「六 シャーマニズムとアニミズム」)。
とりわけ蟲使いたちは、森の人やナウシカに対して救い主、聖人、指導者を期待しようとします。それこそが『ナウシカ』の世界では人間の根本の弱さであり、愚かさであるとされるものです。

 自らの意志を、自由を、他者に委ね、他者に縋ってしまうこと。こうした意味において、『ナウシカ』には一貫した宗教批判の意志があります(おそらく宮崎駿にとって信仰心/宗教は微妙に異なるものであり、アニミズム/エコロジー要素を含む自然的なものへの信仰心が特定の聖人や教義に対する宗教によって失われる、という感覚があるように思われます)。

 しかし、ナウシカたちには色濃い諦念があり、宗教的な欲望=動機自体の根絶は元より不可能性であるかのようです。つまり、誰かを聖人化して依存することそのものは、啓蒙され克服されるべきものというより、除去不可能な人間の愚かさと弱さに根差したもの、仕方のないもの、「悪ではあるがやりきれないもの」(中野重治)として捉えられている。ナウシカや森の人は、庶民のそうした傾向や欲望のどうしようもなさを理解しつつ、プラグマティックに、ある意味では政治的に利用していきます。

 ナムリスはナウシカと対峙した時、こう言っていました。お前は百年前のあいつ(弟)に似ている。若い頃、奴は本物の慈悲深い名君だった。土民の平安を心底願っていた。だがそれも最初の二十年までのことだった。いつまでも愚かなままの土民を、やがて憎むようになった、と。

 ここに示されているのは、宗教(的なもの)に染まりやすい弱く愚かな民たちが王に熱狂し、期待し、王がやがてそれに耐えられず圧政と暴走に走る、そのたびに民たちは新しい王を求める、という悪循環です。ナウシカ実際に、民を愛しつつも、民たちを全く理想化していません。民たちは本質的に他人を祭り上げ、依存しやすく、虚無に陥りやすい……。

 重要なのは、ナウシカの旅が、腐海の構造的な謎を解明するための旅であると同時に、民たちの虚無=ルサンチマンの構造を解くための旅でもあった、ということです。

 それはあのヒドラ的なみじめさに関わります。ただしナウシカは「私達はなんて沢山の事を学ばねばならないのだろう」と言っていました。「私達」と言ったのであり、「この人達」と他人事で言ったのではありません。「私達」の中にはナウシカという「この私」の愚かさも含まれているのです。

 一方では、人類は生産労働や科学技術によって進歩や改良を目指してかえって自然破壊や終わりのない戦争・内戦に陥っていきます。他方では、啓蒙的に学ぼうとしてむしろ神や救い主、聖者に依存するという愚かさに落ち込んでいきます。こうした政治的かつ宗教的な二重の悪循環が、人を虚無のみじめさへと無限に陥らせていくのです。

 ナウシカやクシャナの格闘と探究も、かつてのナムリスやミラルパのそれを無意識に強迫反復するものでしかないのかもしれない。とすれば、『ナウシカ』的な意味での<産まれ直し>とは、この虚無的な悪循環から自他を解き放つことであるはずです。とはいえもちろん、それを特別な個人(カリスマ的個人)が奇跡的に実現するだけでは、この世界を変革のためには決定的に足りないのです。

 砂澤雄一は『マンガ版『風の谷のナウシカ』における生成論的研究』で、『ナウシカ』では終盤に近づくにつれて〈くり返す〉という語が頻繁に使われることに着目しつつ、宮崎駿の中にはもとより人間は愚行から抜け出せない、仕方ないもの、度し難いものである、というニーチェ的なニヒリズムがあり、その上で『ナウシカ』の試みとは、ニヒリズムによってニヒリズムを超克するような試みだったのではないか、と論じています。

 つまり、受動的な悪循環のニヒリズムを永劫回帰的な能動的なニヒリズムへと転じるものとして、ナウシカの<くり返す>という体験はあります。私はこの<くり返す>を<産まれ直す>という言葉へと変奏し、展開したいと考えています。

 いま、予感的に言えるのは、たんなる個人的・実存的な宗教的回心ではなく、呪術的で観念的な輪廻転生でもなく、生物種の違いをも超えるような、ある種の政治神学的なレベルにおける<産まれ直し>があるのかもしれない、ということです。

 ナウシカは人間の母親(自分を愛さなかった母)ではなく、王蟲の体内から生まれ直しました。すべてが混じり合って積み重ねっていく、という腐海的/資本新世的な概念は重要なものですが、そこには、おそらく、ある種の危うさもまたあったように思われます。というのは、全てがシステムの全体性(一元性)に還元され、個体的な「死」や「いのち」の固有性が塗り潰されてしまうからです。それはナウシカが拘った個体の生の一回性を抹消することです。

 これに対し、物語中盤にナウシカにもたらされたのは、人間と非人間、異種間で他者に食われることによって新しく自己を産み直す、という特異的な経験でした。ナウシカは王蟲の体液(漿液)の中で胎児のように丸まります。王蟲に食べられた、という表現がそこでは使われます。

 超人的な存在であるナウシカにとってすらそれは過酷な経験でした。虚無の深淵を潜り抜けることだったからです。――すなわち、ナウシカが学んだのは、他者に食われながら雑ざりあって無限に変化し続けていくこと、それによって自己を新しく産み直すこと、それがこの星の生命進化に根差した友愛である、ということだったのではないか。

 いったんはほとんど虚無のみじめさに引き込まれたナウシカがそうして産まれ直すということ。王蟲ですらもまた崇高な存在ではなく、人類の生命技術で改造されたヒドラ的存在だったことを思い出しましょう。

 さらに重要なのは、ここでいう<産まれ直し>は聖人やカリスマのみならず、誰でもできることである、ということです。無名の民草であっても(たとえ能力や人格の違いによって同じ人間にはなれずとも)「同じ道」を行けるはずだ、ということです。そこにあらゆる人民たちが協働的に参加する政治的課題があるはずです。少なくともそうした予感があります。むしろ、多種多様な有象無象の人々が歩き続けた場所、惑い迷って紆余曲折した場所、交際し交差した場所に新たな「道」が出来ていくのです。

 たとえばナウシカは、腐海のほとりに移住してそこで生きましょう、と民たちに呼びかけていました。人類は腐海=生態系の「ほとり」に寸土を仮初めに間借りしているだけであり、「借りぐらし」しているだけなのかもしれない。主権国家や帝国的侵略とは別の政治神学的な共同体の可能性が、そのような「ほとり」にあるのでしょうか。わかりません。今はまだわかりません。

 それにしても、たとえみじめな虚無的な存在ですらも、各々に固有のあり方において「産まれ直せる」ような政治神学的な共同性とは――しかも日本/アジアの民俗的な土壌に根差したようなそれとは――どんなものなのでしょうか。
   *
 ……とはいえ もちろん、ナウシカの辿り着いた場所が完璧であり完全に正しいと言いたいのではありません。たとえばナウシカが最終的に選び取る「隠蔽」と「嘘」の問題をどう考えるか。ナウシカは、この世界の秘密(王蟲や腐海も人工的産物であり、この世界が浄化される時には「我々」は滅びなければならない)を民衆に伝えませんでした。民たちはその過酷な真理に耐えられないだろう、と考えたからです。

 それはプラグマティックな、政治技術的な合理性に基づく判断とも言えます。しかし、この隠蔽と嘘は、やはりナウシカの根本的に倫理自体をどこか裏切っています。おそらくナウシカは、物語の最後に至っても、宿痾としての衆愚観、民衆不信を克服し切れていない。そう考えられます。

 それは何より、ナウシカの根本的な自己欺瞞に関わります。ナウシカには、目的論的に操作された未来の生命(ポストヒューマン)の「卵」は抹消してもよい、出生前に消し去ってよい、という暴力を選び取りました(『宮崎駿論』参照)。それはナウシカが巨神兵オーマを目的のために「政治利用」したことにも関わります。

 しかし、人類や王蟲や蟲たちの命は肯定されるのに、なぜ「卵」や巨神兵たちの生は抹消され、誕生以前に中絶されねばならないのか。あの「卵」から生まれる未来の他者たちも、この世界の中で変化し、進化し、自らを新しく産み直していくかもしれないのに……。

 ナウシカはおそらく、本当の意味ではヒドラ的なもの(たとえば人工知能や人工生命)を肯定し切れていません。ここには致命的な線引きの暴力があり、ヒドラ的/ヒルコ的/水子的なものたち、<いのち未満のいきもの>たちの潜勢力を抹殺してしまう暴力があった。私はそう考えます。それはナウシカにとっての来たるべき政治神学的な共同性を裏切るものではないでしょうか。

 それならば、その先にはどんな光景がありえたのか、あるべきだったのか。

 やはり問いは、突き詰めていくならば、西欧か東洋か、覇道か王道か、という図式では割り切れないのでしょう。たとえそれらが宮崎駿にとって不可避の通過点であり、いったんは踏み込まざるを得ない政治的な問いだったとしても。ナウシカ(たち)が探究を通して発見した自然観、そして政治神学的な問いがそれらの粗雑な二元論にとどまるとはどうしても思えません。

 しかしながら、とはいえ、人間が人間である限り、愚かで無力で有限な生き物である限り、一足飛びで理想の場所に行きつくことも不可能です。現実的にナショナリズムや戦争の問題も何一つ片付いていません。矛盾し引き裂かれながら、間違い誤りながら、泥沼的な試行錯誤をくり返しながら、何度も何度も生き直していくしかありません。

 物語の終わりの先にかすかに予感されたもの……それは、すでにもはや覇道でも王道でもなく、天の道――いや星の道、いわば星道、のようなものではないでしょうか。森の人セルムは最後に、念話でナウシカに語りかけました。「生きましょう すべてをこの星にたくして ともに……」。ここで言われる星の道とは、本当は、誰にでも行ける道であるはずです。それぞれに固有の行き方によって。それはきっと、あのヒドラにさえもいける道なのでしょう。
ナウシカは未来の卵を抹消しました。巨神兵オーマを目的のために利用しました。その点でナウシカは、癒しえない悲しみを知りつつも我が子を愛さ(せ)なかった母の不気味なアパシーを反復してしまっています。

 しかし、その先があったのではないか。母親らしい自然な愛情なるものを回復するのではない。むしろ(母性ならぬ)母的なアパシーを徹底すべきだったのです。それは血縁的な我が子を愛さ(せ)ないことを通して、むしろ複数的な、混血的な、異種的な子どもたちを懐胎しうる、産み直しうるという分岐的な可能性です――水子を、ヒルコを、ヒドラを。

 ナウシカに限らず、私たちもまたそれによって自らの心身をもクィア化しクリップ化(かたわ化)し、変態し得るのだ、ということです。他者に食われることで自らを産み直すという星の道――それがナウシカと王蟲の特権的な関係だけのものだ、と考える理由はありません。

 ナウシカは、我が子オーマを操作して卵を焼き払うのではなく、比喩的に言えば、卵を食べるべきでした。食べて、孕んで、変態して、排泄して、産み直すべきでした。今はそう思います。生まれ変わりと自己出産を一つの主題とする『君たちはどう生きるか』にも、おそらくそうした惑星的なクィアの欲望がありました。
   *
 ナウシカは旧世界の科学技術によって人工的に作り出された「完全な人間」(ポストヒューマン)の「卵」を駆逐し、抹消し、存在論的に中絶することを選択しました。作中でそうした言葉は使われませんが、ここでいう「完全な人間」とはポストヒューマンであり、人工知能や人工生命のようなものをふくむ非人間たちのことです(宮崎駿はインターネット「以前」の人間であるが、つねに科学技術によるヒューマン「以降」の世界に対する両義的な想像力を持っています)。

 ナウシカは、いのち=生命の尊厳は苦悩の深さによって決まる、と言っていました。これは重要な言葉です。しかし逆に言えば、そこにナウシカの線引きの暴力がある、とも言えます。苦悩と尊厳の深み(ある種のスピリチュアリティ)を持たない生命――「いのち」未満の<唯の生>は抹消してもよい、とされるわけですから。宮崎駿は『ナウシカ』の連載の過程で、自分の中に元々あった世界破滅願望(終末論的なリセット願望)を根本的に解体させました。そして、終末論なき緩慢な絶滅状況の中で、人為と自然の決定不能な腐海=資本新世の中で、それでも生き延びていくこと、自分たちもまた無限に変化し続けながら生きていくという道を見出しました。

 しかし、ナウシカは内なるリセット願望(人間は穢れであり悪なのだから滅びた方がよい)を拒絶したものの、ある種の「選別」の暴力は残してしまったのです。それが寓意的な意味での「卵」の中絶であり、抹消です。巨神兵オーマを政治的に利用したこともそれに関わります。「卵」的な存在たちは、人格が未生である以上、「いのち」未満の<唯の生>である以上、それは殺害ですらなく、殺人ですらないのかもしれません――しかし、人格の殺人ではなくとも生に対する暴力ではあります。

 もちろんこの世の暴力のすべてが悪いと言いたいのではありません。生きること自体の中に暴力がつねに含まれます。ならばせめて暴力を最小化せよ、という倫理主義で足りるとも思いません。

 そのうえで、気になるのは、ナウシカの選択には、それまでのナウシカの葛藤や生き方に匹敵しないような、どこか曖昧な不徹底さがある、ということです。たとえば棋士の藤井聡太氏たちの世代は、「人類vsAI」という構図のもとでつぶし合い、殺し合うのではなく、人間がAIと競い合うことを通して生かし合う道を選びました。そこにもポストヒューマンとの友愛の道をあったと言えます。

 ナウシカの母親は(優しかったがナウシカのことを愛さなかった)とナウシカは述べていました。これを逆にいえば、重要なのは、たとえ親密な親の愛がなくとも、母親の愛情がなくとも、人は他者に優しくはできる、ということです。あるいは、他者を愛せなくとも他者と共存する道はあるはずです。人間的な愛=同情を欠いた非人間的な友愛。アパシーと共にあるような友愛。それが「星の友愛」(ニーチェ)なのではないか。

 繰り返しますが、これは誰のことも絶対に殺すな、という不可能な倫理の話ではありません。傷つけて殺すことと生かして産んで友愛的に共存することは矛盾しないばかりか、根本的に分離不能なことなのです。

 たとえば『千と千尋の神隠し』のカオナシは、精神的にも外見的にも、まさにヒドラ的存在と言えます。千尋は、物語の終盤、カオナシと共に暮らすことはできませんでした。しかし、カオナシが安住しうる居場所を共に探し出し提供することで、あの世界の中で、共に生きることはできたのです。アパシーを通した星の友愛、とはそうしたものです。あるいは『ラビュタ』のロボット兵たちもまたヒドラ的存在だったのでしょう。さらに、『君たちは』の、悪意と共に「友」と共に生きていくとは、そういうことだったのではないか。

 水子/ヒルコ/ヒドラのことを非在者と呼びましょう。「いのち」未満の<唯の生>。生きてはいるが、産まれたとは言えない曖昧な生。存在の非。そのような他者の存在に耐えられないときに、私たちは、非在者を「敵」か「友」か、「存在」か「無」かに切り分けてしまうのでしょう。非在者とはそのどちらともつかないもの、不気味なものではなくぞっとするもの、ありえないのに現にあってしまうものなのでしょう……非在者とは産まれたにもかかわらず生きていないという捩れた時間性の中に脱創造的に(存在でも潜在でもなく)非在するものなのです。

 更に最後に、直観的に付け加えましょう。

 わたしがかつて『宮崎駿論』で真理Dと呼んだものは、こうした星の友愛の道であると言えるかもしれません。『風の谷のナウシカ』の物語が孕んだ最大の絶対矛盾は、おそらく〈食べること=産むこと〉にありました。他者の命を食べることが産むことであるとは、どういうことか。「王蟲のいうたすけを求めている森が粘菌のことだったなんて/ 蟲や腐海にとっては突然変異体の粘菌すら仲間なんだ/蟲たちは攻撃していたんじゃないんだ/食べようとしていたんだわ/腐海の食草を食べるように苦しみを食べようとしたんだ/それが蟲と木々との愛情なんだ」。

 突然変異を起こした粘菌と蟲たちの間の友愛――これは、漫画版『ナウシカ』の物語全体ですら消化不良を起こしてしまう、絶対的な異物としてあり続けました。ナウシカは、粘菌と蟲たちの〈互いの肉を食べることによって愛し合う〉という友愛に衝撃を受けますが、その意味を十分に考え、自らの生き方として血や肉とすることまではできませんでした。互いの肉を食わせ合うこと。食わせ合うことによって、非人間的な感謝の光の中で、互いの存在を新しく産み合っていくこと。それはナウシカが見出した究極の友愛のヴィジョンであり、自己犠牲的な精神のさらに先にある何かでした。

 汝、他者に喰われることによって自らを産み直せ、自己出産せよ――それが星の友愛の呼びかけなのではないでしょうか。自らの特異的な欲望、クィアでクリップな欲望を産み直すということ、そこに星の友愛があり、惑星的な友と邂逅され直すのかもしれません。友よ、友はいない――敵よ、敵はいない。それならば、正しく喰われるとはどういうことか?この世界(資本主義)に喰われるということは疎外=外化を意味しますが、それは同時に自らをエイリアン化することでもあります。とすれば、正しく疎外され、エイリアン/水子/ヒドラとしての自らを出産し直す、という道もあるはずです。それはあるいは、出産することと排泄されることが決定不能になるような場所かもしれませんが……それはありふれた卑近な行為でありながら、ナウシカが十分に身体的に表現できなかったものなのです。
   *
 ……まだまだ未整理で、手探りでしかありませんが、今現在の私は、こうしたことを考えています。しかしまだまだ、『ナウシカ』という巨大な作品を批評するための、助走的な準備をはじめたばかりの段階です。作品と現実の間、日本とアジアの間、表現されたものと未生のもの(=水子的なもの)の間……それらを<くり返し>往復し往還しながら、必要な時間をかけて、自分なりの『ナウシカ』論を書き継いでいきたいと思います。これで終わります。

 稲葉振一郎『ナウシカ解読――ユートピアの臨界』(窓社、一九九六年)
 稲葉振一郎『ナウシカ解読【増補版】』(勁草書房、二〇一九年)
 小山昌宏『宮崎駿マンガ論――『風の谷のナウシカ』精読』(現代書館、二〇〇九年)
 砂澤雄一『マンガ版『風の谷のナウシカ』における生成論的研究:コミックス成立時における改稿からみた作品分析』(二〇一四年、博士論文)
 赤坂憲雄『ゴジラとナウシカ 海の彼方より訪れしものたち』(イースト・プレス、二〇一四年)
 赤坂憲雄『ナウシカ考――風の谷の黙示録』(岩波書店、二〇一九年)
 杉田俊介『宮崎駿論――神々と子どもたちの物語』(NHK出版、二〇一四年)
 杉田俊介『ジャパニメーションの成熟と喪失――宮崎駿とその子どもたち』(大月書店、二〇二一年)
 杉田俊介「『君たちはどう生きるか』レビュー」(集英社イミダス、二〇二三年八月二五日)
 河野真太郎「ブラック・マウンテンズから中国山地へ――レイモンド・ウィリアムズと宮崎駿の「エコロジー」思想」(『この自由な世界と私たちの帰る場所』、青土社、二〇二三年、所収)
 朝日新聞社『危機の時代に読み解く『風の谷のナウシカ』』(朝日新聞社、二〇二三年)

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