徳の低い生について

 二年ほど前(二〇二二年一月)に糖尿病の悪化でダウンし、生活改善のための療養・治療生活を送ってきた。色々と浮き沈みはあったものの、その後はそれなりに安定した生活・仕事もできるようになっていたように思う。マイペースで物書きの仕事も続けてこれていた。むしろ身体的には健康になったかも、と楽観さえしていた(ちなみに、次の著作は『糖尿病の哲学(仮題)』という本になる予定である)。

 ところが、今年の九月一〇日、家族と外出中に、脱水症状で倒れて、救急車で運ばれるということがあった。点滴を受け、諸々の検査のあと、その日の内に帰宅できたが(ちなみに一万五千円ほどの出費)、その後、心身の調子が慢性的によくない。二ヶ月半以上が経過するが、回復しない。むしろ悪化している。弱っている。

 現在の心身の調子の悪さは色々と複合しているようで(おそらく)、自分でも自分の心身を的確に把握できているか心もとないのだが、症状を分類すると次のようになる。

 (1)電車に乗るとパニック障害・発作(おそらく)が出るようになった。不安や恐怖、動悸や息苦しさが襲ってくる。特に混雑した電車、20分以上乗車しなければならない電車などで症状が出る。車の運転は問題ないのだが、首都高(出口やSAがなく渋滞している場合など)ではパニック発作のような症状が出た。つまり、逃げ場のない場所がパニックになるトリガーらしい。

 (2)頭痛とめまいがする。たとえばウォーキング中に、めまいがひどくなり立ち止まらねばならなかったりする。元々頭痛持ちではあるが、今までのそれとはかなり様子が違う。めまいの経験はこれまでなかった。また、食事でカウンター席に座ることができなくなった。座っているとひどいめまいがし始め、椅子から落ちそうになる。また気持ちが悪くなって食事が続けられなくなる。

 (3)脱水と思われる症状を繰り返す。少し陽射しが強めの中を歩くだけで具合が悪くなったりする。5000歩くらい歩くと体調不良になる場合が多い。家の中でもたまに脱水的症状が出る。ちなみに脱水と糖尿病による低血糖はよく似ているので、最初は低血糖も疑ったが、検査しても特に数値に異常などは見られない。また投薬・食事内容からしても低血糖は考えにくい。そのため脱水症状と判断した。

 脱水で救急車で運ばれた時に、頭のCT検査、血液検査、心電図などは受けた。特に異常はなかった。その後も、毎月末に通っている糖尿病内科でも事情を話して、検査をしてもらったが、やはり異常はなかった(糖尿病の数値も安定している)。

 総合的に考えるに、おそらく、糖尿病、抑鬱症、更年期障害、自律神経失調症……等々、様々な要因が複合しているものと思われる。いずれにせよ、とにかく心身の調子が悪く、すぐに動けなくなる上に、ちょっとしたことがダウンのトリガーになる。近隣の駅まで歩くことも恐る恐る様子見だったり、外食が怖くてできなくなったりしている。もう少し若い頃には、鬱状態が深刻でも、基本的に睡眠が逃げ場になり、また眠ることによってある程度の調子の回復が見込めた。今はそれができない。飲酒もできない。逃げ場がない。糖尿病身体になってからは、毎日コツコツ歩くことが心身の支えになっていたので、それすら今は満足にできないのが本当につらい。

 メンタル面の問題でもあるだろう。まだ受診できていないのだが、心療内科に行くことも考えている(糖尿病の内科の先生にも「一度行ってみたらどうか」と言われた――ちなみに、以前一度、鬱が重くなり心療内科に通って薬を飲んでみたが、希死念慮が強くなり、怖くなって薬を飲むのをやめてしまった。それ以来、薬に対する恐怖と心療内科に対する忌避感がある)。めまいについては、耳鼻科的な問題の可能性もあるらしいので、心療内科で改善しなかったらそちらに行ってみたらどうか、ともアドバイスをもらった。

 とにかく、無理をせず、心身の休息を大事にし、セルフケアしつつ、忍耐の日々を過ごすしかなさそうである。不安定なフリーの物書きの身ゆえ、経済的問題などが依然としてあるのだが……。

 この数ヶ月、すっかり心身の調子を持ち崩して、最近はウクライナのことも、パレスチナのことも、入管のことも、トランスパーソンのことも全く見ないふりをしている(かろうじてサブカルの話などはできるのだが…)。これはかねがね感じていたのだが、わたしはいわゆる意識や志が低いというよりも、わたしの存在そのものが「低徳」という感じがする。罪悪感や羞恥心というのとも少し違う。倫理や正義を語るその手前の、人としての徳が低く、仁が欠落している。そう言ってみたほうがしっくりとくる。疲弊し、枯渇し、消尽しているわたし自身をまずは受容したい。セルフケアやセルフラブだけでは何かが足りない気もするが、ではどうすればいいのかも今はわからない。

 たとえば弱者男性論をめぐって、近年の自分のスタンスは、「闇落ちせずに済む人は闇落ちしないでいてほしい」というものだった。「週刊SPA!」の《新型弱者男性の肖像》という特集の取材では、次のようなことを述べた。「多くの弱者男性は苦しみに耐え、 穏やかに誰も傷つけずに過ごしています。そうした非暴力的な弱さがもっと評価されてほしい」。思えばこれは自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。

 社会正義や反差別を語る文脈の中では、言うまでもなく、「どっちもどっち論」「中立気どり」は批判されてきた。そしてたとえば自虐や冷笑やユーモアなどの姿勢も批判されてきた。それは結局抵抗しないことであり、現状を追認することである、と。それらが「芸」になってしまえばおしまいである、と。

 実際にそういう側面があったし、今も現にあることを否定しない。しかし、心身が疲弊し、消尽してしまって社会的政治的諸問題に積極的にコミットできずとも(様々な社会的政治的問題について傍観して沈黙して他者を見殺しにしているとしても)、なるべく誰も傷つけず、自分も傷つけないような、そういうささやかな実践をコツコツ続けていくということ――そうした姿勢が全く無意味である、とまでは言わないでいいだろうか。何とか「しがみついている」姿勢を肯定的に語ることは許されないだろうか。こんな状態でも陽気に、朗らかに生きるように努力すること、そのことの意味を考えても構わないだろうか。自虐したり、冷笑したり、小さなユーモアを見出しながら、どうにか生き延びていくこと……。

 わからない。わからないが、今はそうするよりほかにない。存在そのものが消尽してしまった生、不仁の生、低徳者の生のことを身をもって考えていきたい。

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