『現代ミステリとは何か 二〇一〇年代の作家たち』(限界研)刊行に寄せて――井上真偽論助走


 *以下は、限界研編『現代ミステリとは何か 二〇一〇年代の作家たち』(南雲堂)の拙稿「唯物論的な奇蹟としての推理――井上真偽論」の助走となる部分である。本来は、以下の二つの章のあと、第三章として井上真偽論の本論を配置する、という予定だった。しかし、助走部分がむだに長くなり過ぎた上に、筆者が本格ミステリ小説のアマチュアだったために、議論を十分に論理的に整理し、展開することができなかった。そもそも規定枚数に圧縮することができなかった。『現代ミステリとは何か』が無事に完成した今、ひとつの記念として、削除部分を公開することにした。下記を読んで、もしも関心を持った方がいれば、ぜひ『現代ミステリとは何か』を購入してください。よろしくどうぞ!
 *注1。ネタバレあります。クイーン『シャム双子』。麻耶『翼ある闇』『夏と冬の奏鳴曲』『鴉』、綾辻『十角館の殺人』『人形館の殺人』。
 *注2。校正などを経ていないので、誤字その他多数あり。見つけ次第、随時修正していきます。

 【1章】 ニューアカデミズム/後期クイーン的問題/ポストモダン
 【2章】 麻耶雄嵩と神的探偵
 【3章】 唯物論的な奇蹟としての推理――井上真偽論


 【1章】 ニューアカデミズム/後期クイーン的問題/ポストモダン

 新本格運動における後期クイーン的問題とは何だったのか。新本格運動の中心人物の一人である法月綸太郎は、阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件があった年に発表した「初期クイーン論」(一九九五年)で、探偵小説の文脈におけるエラリー・クイーン的なパラドックスと、日本的ポストモダン思想の「ゲーデル的問題」(批評家の柄谷行人が「形式化の諸問題」等で論じたもの)とを重ね合わせようとした。法月によれば、そこには次のような前提があった――日本の新本格というムーブメントは、一九八〇年代のニューアカデミズム/ポストモダン以降の知的潮流に棹さすものである。
 数学者のクルト・ゲーデルが一九三一年に発表した「不完全性定理」によれば、ある一つの命題の真偽は、その命題が属する形式体系の内部では決定不能である。これを探偵小説に応用すると、次のようになる。テクストの内部で与えられる情報のみでは、探偵がどんなに厳密な推理を行っても、無矛盾的な真理へと到達することはできない。とすれば、探偵は、論理的にはそもそも事件を解決しえない……。
 後期クイーン的問題は、一般に「偽の証拠」「メタ犯人」「操り」の三つを特徴とする。いかに手がかりや情報を完全な形で集めたとしても、オブジェクトレベルにある情報集合の範囲内では、最終審級にあるメタ的な真理を特定しえない。こうした論理的な決定不能性は、探偵の捜査と推理を攪乱する偽の手がかりという特異点に凝縮される。偽の証拠の背後には、それを探偵に対する戦略的な罠として仕掛けるメタ犯人が存在するかもしれない。メタ犯人によって探偵は操作され、招き寄せられ、騙されて、かえって完全犯罪のために利用されてしまうのだ(探偵作家の推理小説を愛読し熟読した犯人がいかにもその探偵作家が好みそうなシチュエーションを準備する、等)。
 ここには次のような論理的なジレンマが生じる。偽の証拠の背後にメタ犯人がいることを突き止めても、そのメタ犯人の背後にはさらにメタメタ犯人がいるかもしれず、論理の必然性に従ってそこには「メタレベルの無限階梯化」が生じてしまう。そうであれば、探偵小説の基本構造の底が抜けてしまいかねない。
 (なお厳密にいえば、法月自身はこの時点では「後期クイーン的問題」という言葉は使っておらず、この言葉の原型となったのは笠井潔が法月に応答した論考「後期クイーン的問題」(『探偵小説論Ⅱ』第八章、単行本一九九八年)ではないか、という点を諸岡卓真『現代ミステリの研究――「後期クイーン的問題」をめぐって』(二〇一〇年)が論じている。笠井によれば、法月の論考は、基本的にクイーン作品と柄谷思想の解読という次元に限定されてしまっているが、それはもっと一般化され、二〇世紀の探偵小説が突き当たった普遍的な難問へと拡張されるべきではないか、とされる。)
 ところで飯城勇三は『エラリー・クイーン論』(二〇一〇年)で、法月や笠井に次のような異論を突き付けている。彼らが主張するアポリアは疑似問題ではないか、と言うのだ。『ギリシア棺の秘密』以降のクイーン作品は、それまでの非対人ゲームから、探偵と犯人の間の二者的な対人ゲームへと変質した。他者を相手にする実践的なゲームだから、そこには「とりあえずの解決」しかなく、最終的な解決はそもそもありえない。クイーンはミステリの可能性を対人ゲーム的な領域へと解き放っただけだ。すなわち探偵と犯人のゲーム、作者と読者のゲーム、そしてリーとダネイのゲーム的関係を通した高めあい……。
 こうした飯城的な解釈は、いわば、後期クイーン問題に対する柄谷行人『探究Ⅱ』=ウィトゲンシュタイン『哲学探究』的な解決ともパラレルかもしれない。言語の問題を論理的=数学的に基礎づけようとするから決定不能性が生じるのだが、言語とはそもそも、実践的に使用される言語ゲームであり、言語行為なのではないか(後述するように新本格の代表とされる綾辻行人が得意とする叙述トリックは、作者と読者の間の騙しのゲーム=アトラクションであると言える)。
 しかしさらに、三つ目の不可能性がある。それはつまり、二者関係のゲーム的な次元ではなく、不特定多数の項目のネットワークの中から――いわば偶然的なアクシデントとして――生じる決定不能の次元である。多くの論者たちがこの文脈で参照しているのは、クイーンの『シャム双子の秘密』である。『シャム双子の秘密』の事件には、『ギリシア棺の秘密』や『エジプト十字架の秘密』(あるいは『十日間の不思議』)とは異なり、事件を裏や背後から操作するメタ犯人がいない。大ざっぱにいえば、複数の関係者たちの思惑がたまたま、偶然的に交錯して――不可視のネットワークを構成して――アクシデンタルに謎が形成されてしまう。探偵であるクイーンもまた、犯人の言葉を勝手に誤解して、ほとんど謎の捏造に加担するような形で、犯罪の謎を複雑化してしまうのである。
 ここでもやはり、探偵は無力化される。しかしメタ犯人の意図によって操作されるのではなく、複数的な関係性の重なり合いや偶然性、アクシデントによって無力化されるのだ。コミュニケーション=ネットワークから生じるこうした事故的な無力さを、探偵的主体は原理的に決して消去しえないだろう。事実、『シャム双子の秘密』では、事件の真理すらも、最終的に、ほんのたまたまの偶然のように――山火事を消し去る雨のように――探偵のもとにやってくるだろう。
 さて、後期クイーン的問題を、ここではひとまず以下の三つの水準に区別しておきたい。

 (1)論理的=数学的な決定不能性……『ギリシア棺』『十日間の不思議』など
 (2)ゲーム的=遊戯的な決定不能性……『エジプト十字架』『ダブル・ダブル』など
 (3)ネットワーク的(アクシデント的)な決定不能性……『シャム双子』『九尾の猫』など

 日本の多くの新本格作家たちは、後期クイーン的問題に真正面から「対峙」するというよりも(法月や柄谷がそうだったように、それは多くの場合、苦悩・絶句・沈黙へと陥るから)、操作的に「対処」するべきだ、と考えたように思われる。
 「対峙」ではなく「対処」とは、次のような意味である。ラッセル的なロジカルタイプ化(「読者への挑戦状」)が自壊に至って、後期クイーン的な決定不能性(メビウスの輪/クラインの壺)が露呈したのであれば、そこに別の形のメタ的な超越性を再導入して、新たなロジカルタイピングを試みればよい――これはたとえば、以下のような三つの対処法である。

 (A)探偵の神化
 (B)探偵の超能力者化・キャラクター化
 (C)中間経路の偶然化/遊戯的脱構築

 (A)の典型は麻耶雄嵩である。諸岡『現代ミステリの研究』が言うように、麻耶作品の神のごとき探偵(或いは文字通りの神たち)は、後期クイーン的ジレンマを無効化するために召喚された、という側面がある。(B)の超能力探偵たちにもまた新たなロジカルタイプ化の役割があった。彼らは全知全能の神とは言えないが、神通力に近い超能力によってメタ的に真理を知りうるなら、人間的苦悩を適切に回避しうるからだ。諸岡が挙げるのは、たとえば京極夏彦『姑獲鳥の夏』、西澤保彦『完全無欠』、殊能将之『黒い仏』、山田正紀『神曲法廷』などである。あるいは清涼院流水や西尾維新などだろう。(なお、こうした探偵の超能力者化は、同時に、探偵をマンガ・アニメ的なキャラクターと化すことをも準備し、狭義のミステリ市場を越えたキャラクタービジネスやメディアミックスへの道を開いてもいった。)
 これに対し、法月綸太郎的な探偵は、神的探偵にも超能力探偵にも行かず、世俗的な社会の中の人間的探偵であり続けようとした。しかしそれにも限界が来て、『ふたたび赤い悪夢』(一九九二年)のあと、探偵法月は長い失語と苦闘の時期を強いられていく。
 重要なのは、『ふたたび赤い悪夢』から一〇年以上の時間を経て刊行された長編作品『生首に聞いてみろ』(二〇〇四年)において、法月は、上記の(3)的な後期クイーン的ジレンマを逆用するようにして、次のような道を選んだ、ということである。メッセージの伝達過程における複数的なアクシデントが、事後的に謎を生み出すのだ、と(C)。つまり、謎→解明を直結させるのではなく、謎→伝達過程→解明という「中段のサスペンス」を重視すること。
 たとえば法月は「一九三二年の傑作群をめぐって」(一九九九年)で、東浩紀の『存在論的、郵便的』を援用しながら、『Yの悲劇』がゲーデル的脱構築(否定神学)に対応するとすれば、『災厄の町』は郵便的脱構築(ネットワーク)に対応する、と言っている。実際に、決定不能性が(メタ犯人の操作や神義論的な問題ではなく)中間経路のアクシデンタルな偶然性から生じるとすれば、そこには人間の過度な責任や、メタのメタのメタ……という無限後退の罠が発生することもないだろう。探偵は現実に対して確かに無知無能であらざるをえないが、べつに過剰な無限責任を背負って苦しむ必要もない。現実認識の無限の複雑さを認識し、そこから慰めを得ること。これが(C)の遊戯的ネットワーク化によるジレンマの回避である。そこには否定神学的思考に対するクイーンの「抵抗」がある。「なぜならそこには、探偵小説をシステムの全体性という呪縛から解放し、微視的なコミュニケーションの一回性に向かって新たに開いていく回路の可能性が密かに示されているからである」(237頁)。
 とはいえ、ニューアカ~後期クイーン的問題には、依然として、ゲーム的遊戯性にもネットワーク的≒郵便的不確定性にも還元し尽くせない何らかの剰余(X)があったのではないか、と思われる。
 それはおそらく、次のようなポストモダン的な欲望の過剰さの次元に関わる。
 まず重要なのは、日本的ポストモダン/新本格探偵小説を象徴するゲーデル的問題/後期クイーン的問題は、当然まずは論理学や数学の次元の問題であるのだが(ラッセル、ウィトゲンシュタインらが頻繁に参照されたように)、しかし日本にゲーデル的問題を導入し、拡散した柄谷行人や浅田彰のニューアカ/ポストモダン思想にとって、それは資本主義社会のはらむ原理的な問題であり、貨幣という奇怪なモノ(空虚な無)を欲動し続ける人間たちの形而上学的問題でもあった、という端的な事実だろう。そこではつまり、論理+資本+宗教の次元が絡み合い、重層的に縺れ合っていた。そもそもクイーンの『十日間の不思議』や『九尾の猫』が究極のメタ犯人としての「神」との実存的/神学的な闘争だったことを思い起こしておこう。
 ここには以下のような欲望論的な主題があった。自分たちの生が記号的・匿名的な空虚/虚無に感じられるからこそ、生の絶対的な根拠を求めざるをえない。しかし生の意味や根拠を求めれば求めるほどに、ますます存在の基底が底抜けになり、さらに物語や観念や貨幣などの超越性をフェティッシュ的に欲望していく……運動としてのニューアカ/新本格には、そうしたダイナミックな欲望の運動性があり、内在と超越のメビウス的≒クライン的な絡み合いがあったのである。メタメタの無間地獄の果てに、問いが存在論的な底を食い破り、実存的な倫理/宗教の次元へと突き抜けざるをえない、そうしたラディカルな切迫的衝動である。マルクスの思想とマルクス主義が異なるように、クイーンの思想と操作的なネタと化した後期クイーン的問題は異なるのだろう。
 先述したように、法月によれば、一九九〇年代の新本格が引き受けた後期クイーン的問題は、一九八〇年代の日本的ポストモダン/ニューアカの知の流れに棹差すものだった。新本格運動がそれらの運動の流れの継承だったのか、頽落だったのか、超克だったのか、そのことは総体として検証されねばならないにせよ(柄谷は日本的ポストモダンの両義性を指摘し、笠井潔も浅田彰や蓮実重彦的なものの頽落を批判した)、「ニューアカ/ポストモダンとしての新本格」は、日本的な高度資本主義の中の大量商品化され記号化された「大量生」(笠井)の問題系に関わっていたのである。そして特殊な青春小説/教養小説(の不可能性)としての新本格、という側面にも関わっていた。
 評論家の佐々木敦は、「八〇年代」を象徴するニューアカはそれまでの日本的な思想の流れに「切断」をもたらした、と論じている(『ニッポンの思想』二〇〇九年)。
 ニューアカの代表的なテクストとしては、京都大学の助手だった浅田彰が二六歳で刊行した『構造と力』(一九八三年九月)、東京大学の博士課程を中退してチベットに修行に行った中沢新一が(『構造と力』の二ヵ月後に)三三歳で刊行した『チベットのモーツァルト』(一九八三年十一月)があり、また浅田の『逃走論』(一九八四年)、『ヘルメスの音楽』(一九八五年)、あるいは柄谷行人がニューアカブームの渦中でニューアカ(ポストモダン)を内在的に批判した『批評とポストモダン』(一九八五年)等が挙げられる。浅田と中沢の思想書の異例のヒットを皮切りに、彼ら二人が思想界の新しい若きスターとなり、それ以前から各々の領域で活動していた様々な学者や評論家などにも注目が集まるようになり、アカデミズムや出版界の枠内を超えて、メディアやマーケットを巻き込んだ社会現象となった。
 佐々木によれば、ニューアカブームの背景には以下の三点があったという。(1)日本経済が七〇年代以降の安定成長期からバブル景気へと向かう途上にあり、消費社会化、情報社会化、輸入文化・広告文化の発展、マスメディアのラブカルチャー化、等の流れにあったこと、(2)連合赤軍事件以降の若者たちが政治的ラディカリズムとは別の方向へエネルギーを向けていたこと、(3)雑誌「現代思想」等によって海外の思想が盛んに紹介され、文献翻訳なども進みつつあったこと。
 大ざっぱにいえば、ニューアカの前提として、一九六〇年代の新左翼運動/全共闘運動があり、それらの「政治の季節」の政治的倫理主義の(連合赤軍事件/東アジア反日武装戦線以降の)封印、あるいは切り捨てとして、一九七〇年代の消費者主義があり、これが思想的には記号論/構造主義ブームと対応し、それらの潮流がやがて一九八〇年代の記号化+商品化のシステムを作り出し、「知の商品化」という現象を生み出した。
 とはいえ、ここで考えてみたいのは、表層的な情報の戯れとしてのポストモダンではなく、「可能性の中心」(柄谷)としてのニューアカ/ポストモダニズムである。
 たとえば中沢新一の『チベットのモーツァルト』は、チベット密教をベースとして、ポストモダニズム思想や世界中の文学・芸術・宗教を軽やかに論じてみせたが、その中心にあるのは「超越者なき神秘主義」(89頁)の感覚だった。「地上楽園や天国のヴィジョンは「他界」や「あの世」や「死後の世界」をめぐるたんなる表象などではない。それらのヴィジョンを、身体と意識の多層領域をつらぬいていく横断線としてとらえなおしてみなければならない」(94頁)。スピノザとドゥルーズを論じつつ、密教(タントラ仏教)の特徴は「唯物論の極限」であり「不道徳」であり「無神論」である、とも述べている(215~216頁)。
 あるいは浅田彰は『逃走論』で、マルクス→アルチュセール→ドゥルーズ&ガタリ→柄谷行人という線を貫きつつ、資本主義の徹底による資本主義批判(資本主義の複数化)をはっきりと主張した。「(ドゥルーズ&ガタリは)真の意味で資本主義社会のダイナミズムにふさわしい理論を作り、しかもそのダイナミズムをさらに多様化・多形化していく戦略としてスキゾフレニーというものを持ちこんでいる」(48頁)。「これを打ち破り、絶対的脱コード化を一種のユートピア――ただし現実的な運動であってイデアルなモデルではないのですけれども――として進行させねばならないということになってくる。その絶対的脱コード化の運動こそがスキゾ・プロセスなのです」(93頁)。「一言で言うと、スキゾ・プロセスというのはウルトラ・キャピタリズムなんですね。水路づけを撤廃したところにあらわれる多数多様な流れというわけですから」(94頁)。
 中沢新一による、超越者なき神秘主義によるカルト宗教批判。浅田彰による、ウルトラ資本主義による資本主義の内在的突破。これらは抽象的に言ってしまえば、「差異化」の戦略、ということになるだろう。現時点からみれば、そこに込められていた自由の手触りを実感するのは難しい。しかし、彼らが当時の文脈でこの「差異化」の戦略に賭けようとした欲望は、現在の私たちがそうたやすく理解も消費もできるものではないのだろう。現実の物事のすべてが相対化/記号化/商品化していく中で、それでも、反資本主義的な商品交換の自由を開こうとする衝動。あるいは、カルト的なものが繁茂する中で、反宗教的な神秘性とも言うべきものを欲望しようとすること。ニューアカ/ポストモダニズムの中には、そうした過剰さとしての「差異化」の欲望があったのである。
 この世界の全ての物事がたんなる情報や記号の反復/シミュラクルとなり、真偽や善悪の基準が決定不能化していく中で、なおも何らかの超越性(構築性、フェアネス、正義など)を回復しようとするための欲望=運動。新本格運動が一九九〇年代の文脈において本格推理小説というジャンルの中で継承あるいは展開しようとしたのは、ポストモダニズムのこうした欲望論的な運動性ではなかったか。反カルト的な問題系はたとえば法月、麻耶、後年の殊能将之などに強く見られ、資本主義的なものの問題系はたとえばバブル的な狂騒の残滓としてのリゾート開発とテーマパーク的なものの主題として綾辻や有栖川有栖らの作品に見られ、後年の北山猛邦の「城」シリーズ、あるいはここでも殊能作品へと結びついていく。
 もちろんここには思想的な危うさもまたあった。佐々木は、浅田と中沢のキーコンセプトとしての「差異化」が、「結果として「八〇年代」当時のニッポンの爛熟しつつあった消費社会を肯定する論理になってしまった、少なくともそう受け取られていった」こと、それがニューアカのブームとしての「勝利」の要因でもあるが、思想としては「最大の「不幸」」でもあったと述べている(92~93頁)。「「資本主義」を乗り越えるための理論が、「資本主義」を肯定する「思想」になってしまった」(94頁)と。しかし、その危うさの中に別の可能性もまた胚胎されていたはずなのだ。
 このような認識の上に立って、次章以降では、新本格運動の精神の一つの展開として、麻耶雄嵩から井上真偽へ、という流れを見ていきたい。

   【2章】 麻耶雄嵩と神的探偵

 新本格運動の鬼子であり、極北的な存在とも言える麻耶雄嵩は、ニューアカ/後期クイーン的な諸問題にどのように対処していったのか。
 たとえば麻耶の第一作『翼ある闇』(一九九一年)は、偽の手がかり、メタ犯人などの後期クイーン的問題を全面的に扱った作品である。この作品は二部構成をとる。一部に登場するのは名探偵木更津。二部の冒頭に登場するのは名探偵メルカトル鮎。一部の最終段階で木更津はいったん犯人に敗北し、山籠もりの修業に入る。二部では当初メルカトル鮎がメインの探偵役となるかに思われるが、二部途中で木更津が帰還し、メルカトル鮎は犯人の手であっさりと殺害される。
 『翼ある闇』では、四つの多重解決的な推理が行われる。(1)木更津の第一の推理、(2)メルカトル鮎の推理、(3)帰還した木更津の第二の推理、(4)ワトソン役「私」による推理。以上の四つである。このような多重推理の提示は、後期クイーン的問題から導かれる必然的な構成でもある。しかしそれではなぜ、麻耶の『翼ある闇』が一九八〇年代後半にはじまる新本格ムーブメントの臨界点となりえたのか。それは一つにはまず、新本格運動を成立させるコミュニティに対する苛烈な愚弄と脱構築ゆえだろう。
 帰還した木更津による(3)の推理では、首切りによる人体移動をめぐる荒唐無稽な推理が行われるが、それとともに、クイーンの国名シリーズを本歌取りした見立て殺人に関する推理が披歴される。国名シリーズに見立てた連続殺人事件。そんな馬鹿な、と誰もが思うだろう。大量殺人の現実的な動機にしては、さすがにお遊びに過ぎるからだ。ただしここには、殺人パズルに興じる「本格ファンコミュニティ」に対するメタ的な皮肉と嘲笑があるとも言えるだろう。そして『翼ある闇』では、それすらも、メタ犯人が探偵好みに偽造した偽りの解決にすぎないのである。
 そもそも『翼ある闇』では、二人の名探偵が登場し、あっさりと犯人に敗北する。メルカトル鮎は犯人に惨殺される。そして木更津は偽の証拠によって第一の推理に失敗し、いったん山籠もりに入り、途中で帰還するのだが、二度目の推理にも失敗する。のみならず、木更津は自分が事件を真に解決した、と最後まで思い込んだままでいるのだ。惨敗から立ち直った名探偵がなおもボンクラのまま道化のように負け続ける、というのは型破りの展開と言える。「名探偵」なるものに対する何重もの愚弄がある。
 それだけではない。『翼ある闇』では、多重解決推理の果てに、事件の何もかもが、偽史/歴史修正の闇の奥へと霧散して溶け込んでしまうのだ――すなわち『翼ある闇』のそうした言わば否定弁証法(アドルノ)的な展開は、探偵小説や新本格というジャンル自体を茶番に帰すような、空虚なノンセンスを読者の前に顕現させるものだった。そこでは、中井英夫の『虚無への供物』のような社会告発(読者告発)のような真面目さは成り立たず、純粋な虚無としての悪意が勝利するのである。当時の読者たちはそこに、馬鹿にされたような怒りを感じ、地上の人間たちに対する神のごとき嘲笑を感じつつも、不気味な虚無への畏怖を抱きはしなかったろうか。
 諸岡卓真『現代本格ミステリの研究』の検証によれば、『翼ある闇』の第四の解決(最終真理)は、厳密に読んでいくと、そもそも読者が知りえない情報をもとに組み立てられており、この作品は古典的な意味での探偵小説としてフェアであるとは言い難い。そこから諸岡は、『翼ある闇』のテクスト内で読者に与えられた情報のみを用いて、作者の麻耶が示した第四の解決とは別の解決の可能性を再構築してみせた。かつてピエール・バイヤール『アクロイドを殺したのはだれか』がクリスティの『アクロイド殺し』に対してそれを試みたように、である。とすれば、作者が示した最終審級の第四の真理すらも、じつは特権的なファクトではなく、ナンセンスな虚構の一つであり、歴史改変的な陰謀論のようなものにすぎないのかもしれない。
 あるいは『翼ある闇』がかりに第三の推理の段階(クイーンの見立て+首切りによる人体入れ替わりの奇蹟)で終わっていれば、荒唐無稽でバカバカしくも極北的な傑作、という印象を残していたのかもしれない。しかし第四の解決が最終的なメタ真理――としてのナンセンスな非真理(ラカン/ジジェク)――として与えられることで、『翼ある闇』という探偵的世界のすべては、無意味な悪意と嘲弄の「闇」の彼方へと、文字通り「翼」をもって飛び立ってしまう。そしてこの底抜けのバカバカしさと裏表一体となる、麻耶の「奇蹟」への拘泥は、次作『夏と冬の奏鳴曲』によって本格的に追及されるだろう。
 麻耶の出発点となった『翼ある闇』という異様な作品は、一九九〇年代のポストモダンな後期クイーン的問題の苦闘が、そのまま――論理+倫理の限界を突き詰めることによってではなく――、二〇一〇年代以降のポストトゥルース的な「なんでもあり」(非真理)の享楽性へと地滑りしていく、という遊戯的脱構築の危うさをすでに予告していた、とも言えるだろう。麻耶的世界においては、人間の生も死も、論理も倫理も正義もフェアネスも、人間を翻弄し嘲笑する神の気まぐれによって空虚化され、無意味化されてしまうのである。歴史改変的な遊戯性。究極のメタ犯人としての悪意ある神。その意味で、『翼ある闇』は、確かに新本格運動の不吉な極北だったと言える。
   *
 こうした麻耶の資質には、新本格運動の「はじまり」を告げた綾辻行人の過剰な享楽性とも共鳴するものだったように思われる。
 綾辻行人の『十角館の殺人』(一九八七年)の第一章には、よく知られた「エラリイ」によるミステリ論がある。「僕にとって推理小説【ミステリ】とは、あくまでも知的な遊びの一つなんだ。小説という形式を使った読者対名探偵の、あるいは読者対作者の、刺激的な論理の遊び【ゲーム】。それ以上でも以下でもない。/だから、一時期日本でもてはやされた〝社会派〟式のリアリズム云々は、もうまっぴらなわけさ」。大事なのは「遊びを知的に行う、その精神的なゆとりが持てるかどうか」だ。そしてミステリとは「ミステリ独自のある方法論によって成り立つ、知的遊戯のための一世界」であるとすれば、「僕らの生きる現代はきわめてその構築が難しい時代」であり、にもかかわらず、時代遅れの知的遊戯としてのミステリを擁護したい。そうしたジレンマにおいて「本格ミステリの最も【現代的な】テーマ」とは「嵐の山荘」だろう。
 作者である綾辻は、これはあくまでも作中人物の一人が語ったミステリ論であり、作者本人のミステリ論とイコールではない、と断っているが(「新装改訂版あとがき」)、プロローグにおける犯人の神学的告白とともに、これはやはり、新本格運動の出発点を告げる重要なマニフェストという社会的機能を果たしただろう(忘れられがちだが浅田彰の『構造と力』は「大学論」として書かれたのであり、大学サークル/飲み会的な空気の色濃い『十角館の殺人』と明らかに思想的空気を共有している)。そしてその後の綾辻作品を思えば、この「知的な遊び」の過剰さに注目しなければならない。そこには、テーマパークのようにジェノサイドを楽しみ、観客として消費する、というような享楽性がある。
 そもそも、探偵小説研究会の探偵小説マニアたちが、有名作家の名前を綽名にして、孤島の館で推理小説を書いていると、実際の殺人事件に巻き込まれてしまう、というメタフィクショナルな設定からして、『十角館の殺人』は過剰な遊戯性を感じさせる。あるいは、(作中のキャラクター同士ではなく)読者に対するゲーム的な仕掛けとしての「叙述トリック」の大胆な使用もふくめて、『十角館の殺人』を読むという読書行為は、ミステリ・テーマパークに引きずり込まれていくかのような経験を与えるものだと言える。実際に十角館が建設された角島には、もともとレジャーランドが作られる計画があったのだった。
 円堂都司昭は『「謎」の解像度――ウェブ時代の本格ミステリ』(二〇〇八年)所収の「シングル・ルームとテーマパーク」(初出「創元推理」19、一九九九年十一月)で、自宅の「個室」と観光地の「テーマパーク」がクラインの壺のように捩れて繋がっている、という一九八〇年代に出現したリアリティについて論じている。一九八九年に逮捕された宮崎勤の幼女誘拐殺人(個室に無数のビデオテープが積まれた宮崎の部屋は「おたく」の象徴とされた)や女子高生コンクリート積め殺人事件の殺伐さが、一九八三年に開園したディズニーランド的なテーマパークの虚構的でキャラクター的なエンタメ性と、めくれかえるように地続きになってしまう。綾辻行人の「館」シリーズは、そのようなメビウス的=クライン的なリアリティを背景にしているのだ、と。
 こうした「シングル・ルームとテーマパークの奇妙な共犯性」について、円堂は次のように書く。「八〇年代末の部屋をめぐる事件、その延長線上にあった九〇年代のオウム真理教事件について、識者たちはオタク的感性による現実と虚構の混同をしきりに論じた。だが、その図式に従うなら、犯罪者だけでなく国全体が含まれる。八〇年代日本の空間変容について部屋とともに見落とせないのは、八三年の東京ディズニーランド開業に象徴されるテーマパークの興隆と街のファンシー化である」(26頁)。
 個室(子ども部屋)にいながらにしてビデオ/ゲームのように現実に行われるジェノサイドを楽しむ、という感性。しかもそれを「肯定系で」表現するとは、どういうことか。ここには一九八〇年代的な想像力とリアリティの一つの臨界点がある。円堂は、笠井潔『哲学者の密室』(一九九二年)の「地獄のディズニーランド」という言葉に注目し、次のように述べてもいる。「訪問者を徹底的に情報管理しようとするテーマパークは大量生時代の遊び場である。地獄のディズニーランドのイメージは、大量生と大量死のポジネガ反転に起因する」。
 綾辻の代名詞(そして新本格の代名詞)とも言える叙述トリックとは、基本的には作中人物同士には無関係なものであり(作中に日記を登場させるなどの仕掛けをさらに取り込むことは可能だが)、読者に向けてのサービス精神にあふれた仕掛け=アトラクションであると言える。あるいは綾辻作品では、作中人物が記号的な名前を与えられていたり(『十角館の殺人』の名探偵を冠した綽名、そして『鬼面館の殺人』!)、名探偵の固有性がそもそも無意味化し解体されていく、という傾向がある(『十角館』ではそもそも事件は十分に解決されないし、『人形館』では名探偵の存在そのものが犯人の妄想にすぎず、事件を解決するどころかまともに登場しすらしない!)。
 ここに表現されているのは、円堂が指摘するように、子ども的特権性(自分は生まれながらに特別な存在だ、という万能感)と大衆的匿名性(自分は無名で無意味な、取り換え可能な存在でしかない、という不安)の危ういせめぎ合いの中に露呈する、一九八〇年代的なリアリティなのである。
 先ほど後期クイーン的問題を(1)論理的=数学的な決定不能性、(2)ゲーム的=遊戯的な決定不能性、(3)ネットワーク的(アクシデント的)な決定不能性、という三つの水準に区別したが、こうした「個室」と「テーマパーク」がメビウス的=クライン的に捩れていく、決定不能になっていくという構造性もまた、高度資本主義下の日本で生じた原理主義的運動としての新本格運動が露呈させた、四番目の後期クイーン的問題である、と考えられるのではないか。すなわち、(4)個室=テーマパーク的(極私的=公共的)な決定不能性。それは新本格探偵小説がメタ的な青春小説であり、青春を終わらせて成熟することの不可能性に対する苦悩を描いた小説だったこと、つまり、子どもと大人の決定不能性を描いた小説だったことにも関わるだろう。
 新本格運動の中心を担った綾辻行人のミステリ的世界には、法月綸太郎のような倫理的生真面目さ(神話なき近代における悲劇の回復としての犯罪)にとどまらないような、徹底的に記号的でゲーム的な享楽性がある。高度資本主義のもとの商品化=記号化(大量生)の象徴としての、テーマパーク=館=強制収容所では、固有名をもった個人の実存をかけた殺人ではなく、たんなる匿名的な遊戯としてのジェノサイドが享楽される。それはもう殺人事件ではなく虐殺事件であり、犯人は「稀代の殺人者」ですらなく「大量虐殺」者(『虚無への供物』)となる。(そして麻耶雄嵩は、そこにいわばグノーシス主義的な神学性――神なき不毛な時代において探偵を逆説的に悪神として再臨させること――を導入したようにも見える。)
 『虚無への供物』の「終章」のメッセージを反転させるならば、ニューアカ/ポストモダン的な状況においては、どんな殺人事件も、人間の「尊厳」を守るための「人間らしい悲劇」にはなりえない。実存的犯罪によって社会的事件を「告発」することは不可能だ。殺人事件を「安全地帯」から楽し気に消費する「物見高い御見物衆」どもを「告発」することも無意味である。全ての死は平等に「犬死」であり、人間はまさに「豚」と等価であり、あらゆる事件は「悲劇でも何でもない、愚昧と怠慢の記念碑」「無知と恥知らずの饗宴場」となるだろう。それがポストモダンな高度消費社会の匿名的記号と大量生の中を生きる人間(=探偵)の生存条件である。被害者と加害者と探偵と犯人と第三者、それらが決定不能に反転してしまうような世界。
 素朴にいえば、綾辻の作品は、他の新本格作家たちと比べても、人間たちを無意味に楽しく殺しすぎている、と感じられるだろう。もはや殺人が工場内の屠殺ほどの意味しか持たない。作中の殺戮に至る病は、読者への過剰なサービス精神と見分けがつかない。しかしこうした死体と戯れる子どもたちのような無邪気な享楽性もまた、全てが相対化されていく世界における、ある種の超越性の回復のための試行錯誤なのだろう。すなわち探偵的主体とは、おそらく、テーマパーク=館=収容所的な世界をその内部から批判し、新しい論理と倫理を探究する者たちのことだ。
 思えばニューアカ運動のポイントの一つは、知の商品化や脱構築に関する節操のなさ、イカガワシサ、ポップな遊戯性に(も)あった。その点では、法月が「ニューアカ→ポストモダン→新本格」の流れを、柄谷行人的な実存的倫理性に焦点を当てて歴史化したことには、功罪もあるのかもしれない。というのは、素朴に考えて、新本格ムーブメントの中心にいた綾辻行人は、クイーン/法月的な実存的論理的な苦悩とは基本的に無縁だからである。法月的探偵は大人へと成熟できずに苦悩し続けるとすれば、綾辻行人的な探偵は、成熟をそもそも拒絶し、子ども=ガキ(スキゾキッズ)として、殺人やトリックと享楽的に戯れ続ける(クイーン的な苦悩よりもクリスティ的な非人間性に近いだろう)。
 新本格運動の中の探偵たちは、ポストモダンな消費化/記号化/ゲーム化と遊び戯れつつ、その中でなおいかにして論理的+倫理的な「人間」でありうるか、あるいは「人間」を更新しうるのか、という一人二役の問いを生きざるをえなかった。超越的な規範性が失われた空虚なテーマパークの廃墟で遊び戯れつつ、新たな(カルト的な/疑似的な)神を渇仰してしまう、しかしそれと同時に、無意味で偶然的な虐殺的な死を強いる神に挑戦し、神殺しを試みて、何らかの人間性を回復しようともする、というような……。
 メビウス的/クライン的な欲望の無限性の中で、反資本主義的+反宗教なものを求めること。その先で、論理とフェアネスを回復すること。そうした複雑な欲望を込めた商品(書物としてのミステリ)を、高度資本主義的な市場の中へと――投壜通信的/誤配的に――流通させようとし続ける意志。そこでは、「人間」とはもはや近代的なヒューマニズムにおける人間性とは異なる何かであり、ある意味で「化け物」(『虚無への供物』)であるしかないのかもしれない。
 もちろんこれも単純な話ではない。たとえば中沢新一はその後、オウム真理教と麻原彰晃を宗教的に擁護し、それらに対する自らの加担を十分に総括してもいない。他方で浅田はオウムに思想的価値などない、と嘲笑し、同時代の様々な政治的運動からは冷笑的な距離を取ったにもかかわらず、柄谷行人や坂本龍一らと共にNAMという運動――ポスト冷戦後の大文字の理念の崩壊の中で、ジャンクなものを寄せ集めて政治的超越性を回復しようとしたアソシエーション運動――に(たとえ積極的でなくても)コミットした。そして浅田もやはり、総括や反省とは無縁のまま、ある種のシニシズムの中で年老いていった。とすれば、綾辻的遊戯的享楽性と、法月的な人間的倫理性を同時に見つめるようなニューアカ/新本格についての批評意識が必要だったのかもしれない。では、麻耶雄嵩はどうしたのか。
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 荒岸来穂は「多重解決というゲームの中で――ゲーム的多重解決ミステリ試論――」(「ボクラ・ネクラ」vol.1)の中で、多重推理解決ミステリを二つに区分している。(Ⅰ)アントニー・バークリイ『毒入りチョコレート事件』(一九二九年)的な多重解決。関係者たちが犯罪の真理を真剣に求めるがゆえに多重解釈が生じる、というもの。(Ⅱ)対人ゲーム的/ディベート的な多重解決。唯一の客観的な真理を求めるのではなく、他者とのディベート合戦によって多重解決が生じる、というもの。
 (Ⅱ)について言えば、ディベートで勝利した者、弁論に強い者、他者を論破した者が正しいとされるなら、合理的な論理と推理によって誰もが到達し得るような、古典的な意味での普遍的真理はべつに存在しなくても構わない、ということになる。そこでは、「様々な可能性がありえたが、この世界しかありえなかった」(小林秀雄)という意味での「現実」の代替不能性が消し去られるのであり、ある種の根深いニヒリズムを感じさせる。
 しかしここからさらに、新本格運動では、次のような水準が浮上していた。それは(Ⅲ)神学的/カルト的な多重解決、である。すなわち、ポストモダン(情報化/高度消費化)な環境の下での人間同士の対等な推理バトルやマウンティング合戦から、やがて、特権的主体の神化が生じるのである。麻耶作品に頻出する神的探偵はその先駆的形態だったが、一九九〇年代半ばから登場する清涼院流水や西尾維新の超能力探偵たち、キャラクター的探偵たちは、その情報社会的な展開と言えるだろう。
 (Ⅲ)がある意味で多重解決的であるというのは、無知で無力な人間たちには、神が提示する真理が本当なのか嘘なのか、正しいのか間違いなのか、判断しえないからである。実際に麻耶作品では、メルカトル鮎や『神様ゲーム』等、神的存在たちは生の退屈さの中にあり、退屈しのぎに真理を好き勝手に創造しさえする(全知であるのみならず全能)。騙す神、空虚な悪意そのものとしての神にとっては、事件のいずれの解釈=解決が真理であるのかどうかは、根本的にどうでもいいことだ。読者はそうした疑いの中に宙吊りにされる。『翼ある闇』から『夏と冬の奏鳴曲』への跳躍とは、こうした(Ⅱ)から(Ⅲ)への跳躍だったと言える。
 たとえば綾辻行人の『十角館の殺人』(一九八七年)は、犯人の内面告白からはじまるが、そこで犯人は、クリスティの『そして誰もいなくなった』を模倣しつつ、自分の犯行計画の全てを記した「宛先なしの、告白の手紙」を小さなガラス瓶に入れて、自分の「復讐」の「裁き」を最後は偶然に委ねるために、海へと放り投げたのだった。そこには「人は、神にはなれない」というはっきりした断念がある。これはいわば、人事を尽くして天命を待つ、人知を超えた領域の決定は偶然(=神)に委ねる、というある種の人間主義(実存主義)化された神学と言える。
 《どうあがいてみたところで、しょせん人は人、神にはなれない。
 神たらんと欲するのはたやすいが、実際にそうあることは、人が人である限り、いかなる天才にも不可能だと分っている。
 神ならぬ者に、ではいったい未来の現実を――それを構成する人間の心理を、行動を、あるいは偶然を――完全に計算し、予想し尽くすことができようか。
 (略)
 だから――分っているからこそ、最後の審判は人ならぬものに託したかった。
 壜がどこへ流れ着くか、その確率は問題ではない。ただ、海に――あらゆる生命を産み出したこの海に、最終的な己の良否を問うてみたいと思った。》
 新本格運動のはじまりを告げる『十角館の殺人』が、こうした神学的な問いから書きはじめられていたのは興味深い。
 これに対し、麻耶の『夏と冬の奏鳴曲』が試みたのは、簡潔にいえば、世俗的現実の外部に超越的な神を前提することなく、地上の人間たちの力や行為の集合だけによって、神の超越論性を表現してみせる、ということだった。それは絵画におけるキュビズム的主題を変奏するものと説明される。麻耶はこのとき、まさに神懸かりのような、驚くべき神学的ミステリを現実に書いてしまった。『翼ある闇』が極限の遊戯的ナンセンスによって後期クイーン的問題を底無しのナンセンスへと引き摺りこんだとすれば(多重解決Ⅱ)、『夏と冬の奏鳴曲』では、小説内世界の中に、実際に、人間の根源的無力さをひたすら嘲弄する「神」――そこでは真夏の雪、二度の地震、火山の噴火などのディザスターすらも殺人事件のトリック、あるいは演出のために利用される!――を降臨させてしまったのである(多重解決Ⅲ)。
 しかし結果的には、『夏と冬の奏鳴曲』は、まさに神懸かり的なその傑作性ゆえに、この本自体が究極の「操作する神」のようなアンチミステリになってしまった、とも言える。つまり「新本格の苦悩から遊戯的なカルト化へ」という隘路を告げる作品となってしまった。人々の自由意志を先回りし、子どもが虫けらを弄んで潰すように人生を翻弄し、さらには夏の雪、地震、その反復、最後の火山噴火、などの天災すらも操作する不在の神。そのようなものとして「和音」を作中の地上に降臨させること。人間に対してひたすらマウンティングを仕掛ける悪意ある神。そして、無力で無知な主人公(ワトソン役)と、神としての和音/探偵メルカトルという『夏と冬の奏鳴曲』の関係性は、その後の麻耶的世界の基本構図のプロトタイプになる。
 その後の麻耶は、三作目の『痾』(一九九五年)、四作目の『あいにくの雨で』(一九九六年)という苦しい混乱と破綻の時期を通過しつつ、五作目の『鴉』(一九九七年)によって、無敵の神的探偵+無力な語り手、という基本フォーマットを完成させるに至った。そこでは探偵の神のごとき力によって、推理の過程(論理と推論のフェアネス)はもはや不要になる。
 たとえば「宗教的共同体と不在の神」というはっきりとした主題を持つ『鴉』は、麻耶の作品群の中でも屈指の完成度を誇るものであり、『夏と冬の奏鳴曲』を明らかに反復=変奏するものである。『鴉』には大胆な大仕掛けがあるが、『夏と冬の奏鳴曲』の異様に屈折したキュビズム的な構造に比べれば、常識的でオーソドックスな読者の読解をゆるすものだろう。そして何よりも、『夏と冬の奏鳴曲』では、不在の神の悪意が最後に絶対的に勝利するが、『鴉』では、逆に、探偵による共同体の神殺しが成就し――神はたんなる空っぽの無だ、天皇的存在とはたんなる木偶人形でありゴミだ、という真理の発見――、その結果として探偵が神格化されるのである。つまり、『鴉』とは、探偵小説の形をとった神=天皇殺しの物語なのだ。
 麻耶作品においては、こうして、探偵が神的ポジションを占めるようになる。そして語り手の「僕」(ワトソン役)は、繰り返し決定的な無力さを経験させられ、最終的には救いのない死や無意味な生へと突き落とされていくだろう。語り手(僕)がオブジェクトレベルに配置され、探偵(神)がメタレベルに配置されて、両者は決して交わらない。ここに新たなロジカルタイピングが成立したのである(探偵の神的全能性+ワトソン的語り手の絶対的無能性)。二〇〇〇年代以降の麻耶雄嵩においては、こうした構造的パターンが延々と変奏され、繰り返されてきた。
 麻耶作品の多くは、後味が悪い。読み終えると、何か根本的に生きることが嫌になってくる。そういう種類の後味の悪さである。主人公の語り手は、無力なまま、事件の中心に関与できず、何も成し得ずに終っていく。あるいは死んでいく。ただしその語り手の無力さ、無意味さの中には受動性の快楽、現実や他者から突き放されるマゾヒズムの享楽があり、その快楽が裏返るようにして神的探偵の無敵さ、全能性へと備給されていく。麻耶的作品においては、じつは、語り手のポジションそれ自体が対象a(空虚な不在の中心)になっている。ある意味ではこれは叙述トリックに近いと言える(?)。
 人間の生死すら記号化された大量死/大量生の時代(テーマパーク的資本主義)の中で、殺人ゲームを楽しむ消費者であるはずの「探偵役」のポジションが反転し、語り手が無力な犠牲者の地位へと突き落とされる――という意味では、麻耶作品には、私たちが生きる高度資本主義≒消費社会に対するぎりぎりの批評性があるのかもしれない。
 このようにして、麻耶の中にもまた、法月や綾辻とは別の形で、ニューアカ的/ポストモダンなテーマが色濃くあったと言えるだろう。カルト的衝動と反宗教的な批評性のせめぎ合い。その果てに訪れるテクスト自体の神秘化……(ちなみに麻耶とは別の形で、カルト/宗教的コミュニティの問題をノンシャランなユーモアによって描こうとしたのが、先ほどから名前を挙げている殊能雅之であるように思える)。
 五作目の『鴉』の後になると、不在の神の悪意を超克し、探偵が神を乗っ取る、というオブセッションは少しずつ希薄になってきたように見える。相変らずの嫌な無力感にもかかわらず、麻耶作品はむしろ安定した娯楽的世界を構築しえている。たとえばそこには、人間の限界に探偵が苦悩して失語する(法月綸太郎)、不在の神に人間が翻弄されつつも神殺しに挑み続ける(山田正紀)というような切迫感はそれほど感じない。神を受肉した探偵によってワトソン役が無力さに突き落とされる、という展開もほとんど様式美のようにさえ見える。
 その転換点はやはり『夏と冬の奏鳴曲』にあった。重要なのは、『夏と冬の奏鳴曲』は、人間たちの多重的な関係による地上の奇蹟ではなく、悪意としての神意に翻弄される無力な人間たちの物語であり、ポストモダンとしての新本格をある種の神学へと昇華するための物語だった、ということである。ある意味では、クイーン信者としての法月綸太郎よりも、麻耶雄嵩の方が『十日間の不思議』のクイーン的な試みに近いことを実践したのかもしれない(法月作品では人間たちの運命の現代的な「悲劇」が描かれるが、神学論的な問いはむしろ希薄に思える)。
 これに対し――あらかじめ本稿の結論を記すならば――井上真偽の『その可能性は考えた』は、『十角館の殺人』のような人知を尽くしてあとは神の偶然に委ねるという実存的な神学ではなく、あるいは『夏と冬の奏鳴曲』のような神による悪意としての奇蹟でもなく、地上の人間たちの決断的な意志=善意が多元的に関係しあい、複合的に絡まりあって、たまたま、未来の誰かを生かしてしまう……そうした形での唯物論的な奇蹟を描いていた、と言えるだろう。人間たちの意志的でプラグマティックな善意が星座的な偶然を形成することによる、ある種の奇蹟を、である。次章ではそのことを具体的に見ていこう。

 【3章】 唯物論的な奇蹟としての推理――井上真偽論

 *続きは『現代ミステリとは何か』でお読みください。

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