村上春樹『女のいない男たち』論の補足(加害と悪について)


(*)以下の文章は、すでに「現代ビジネス」に公開した二つの文章
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/92526(『ドライブ・マイ・カー』について)
 https://gendai.ismedia.jp/articles/-/93699(『女のいない男たち』について)
 の続きです。
 正確に言えば、上の二つの文章の流れから若干逸脱してしまったために、削除した部分です。
 なお、映画『ドライブ・マイ・カー』論、小説『女のいない男たち』論の続きとして、チェーホフの戯曲『ワーニャ叔父さん』についてもすでにエッセイを書き終えていますが、それは別の場所で、別の形で公開される予定です。

(承前)

 私たちはいかに正しく傷つくことができるか。こうした問いかけは、自分の中の傷やトラウマをケアして個人として回復していく、というだけの話では終わらない。

 それは次の問いとも関連する――自分の存在がコミュニティや市民社会の中にいかに「正しく」包摂されうるのか。つまり、愛するものの死や喪失の衝撃によって、共同体や社会の通常の日常から逸脱してしまった自分の存在を、再びそこに統合していく、包摂されていく、というプロセスが重要になってくるのである。

 臨床家で理論家の信田さよ子によれば、家庭内という親密圏における暴力をめぐる問題を、臨床心理や援助の現場の専門家たちが(その人の心理や内面の問題としてのみならず)加害者/被害者という司法的(フォレンジック)な枠組みによって判断するようになったのは、日本では一九九五年以降のことであるという(『家族と国家は共謀する――サバイバルからレジスタンスへ』)。

 当事者たちのアクションを中心に、DVや虐待の被害にかんする支援や救済の必要性が広く求められるようになり、その延長上で、暴力については加害者たちへの何らかのアプローチもまた必要である、ということが認識されてきた。たとえばアメリカでは、一九七〇年代に芽吹いたDV被害者女性救済のためのフェミニズムの運動などもありつつ、一九八〇年代にDV加害者更生プログラムが形成されていった。

 ひとまず忘れるべきではないのは、具体的な暴力においては、加害者と被害者の間にある非対称性を絶対に消せない、という点だろう。「加害者」をはっきりと名指し、「加害者」としての自覚と責任を促さなければ、暴力加害そのものがなかったことにされ、被害者の被害や傷がなかったことにされてしまう。

 しかしそのことを強く確認したうえで、信田は、臨床的な実践知に基づき、暴力に付きまとう「割り切れなさ、境界の曖昧さ」(『加害者は変われるか』16頁)にこだわるべきだ、とも強調している。これはなぜだろうか。

 それはもちろん、加害者の暴力行為を免責したり、相対化したりするためではないだろう。逆である。信田は、加害者とは、第一義的に、被害者に「責任」を取るべき存在である、という点に念を押している。しかし同時に、たとえばDV加害者について「DVという彼らの暴力行為は否定されるべきだが、彼らの人格や存在そのものを否定することが目的ではない」(『加害者は変われるか』166頁)とも述べるのだ。

 なぜなら、加害者という人間の中にもあるはずの重層的な被害感情や傷などに着目しなければ――あるいは一つの暴力の被害者が別の暴力の加害者になったり、「被害者権力」に捉われる場合がある、などの困難な矛盾に向き合わなければ――、暴力の再生産を最小化すること、暴力を食い止めることが一層難しくなってしまうからだ。

 信田は次のように書いている。「市民社会の法による正義の判断へと軸足が移ることで、たとえば被害者の絶対的正義の主張、加害者を悪とする二極対立が発生する危険性も無視できない」。「加害・被害の硬直化した二極対立を避けるためには、動的でポリティカルな視点をもち、被害者性の強調が特には一種の権力を帯びることに十分自覚的であることが必要だ」(『国家と家族は共謀する』、49-50頁)。

 このように折り重なっていく暴力加害をめぐる厄介な諸矛盾や「割り切れなさ」を見据えながら、実際にこれまで、加害者に対する各種の更生プログラムやダイバージョンシステムなどの実践が積み重ねられてきたのである。

 ところで、司法や臨床や教育などの複合的な実践によって、加害者を少しでもまっとうな人間に、つまりは「脱暴力」的な人間に変えていくこと――それはある意味で、加害者の存在をも、ソーシャルなものの領域に包摂していく、という意味でもあるだろう。

 つまり、適切なプログラムやアプローチを通して、加害者たちもまたリベラルな「市民」として復帰し、コミュニティや社会に統合されうる、と。そうした前提をどこかに確保しておくことであるだろう。

 たとえ加害者たちの実情を知ればそれがどんなに困難で、うんざりさせられ、ほとんど絶望的に不可能に見えるとしても、である――少なくともそのことが結果として、加害者たちのみならず、被害者たちにとっての救いになる場合「も」あり、あるいはコミュニティへの信頼を「修復」を意味する場合「も」ある限りは。

 ここには、とてつもなく複雑で繊細な手続きが要求されるし、おそらくは永遠の試行錯誤が必要とされる。加害者を変えるためのプログラムの実践――それは安易に加害者に向けた「臨床」や「治療」や「更生」とすら言えないような実践的な何かである――の中には、加害者の中にある被害者意識(傷)を手当てするというステップが必要な場合があり、それを通して加害者は自らの加害性をやっと自覚し得る(かもしれない)……。

 信田はこうした困難なジレンマについて次のように述べる。「被害者性を自覚し同時に他者によってそれを承認されることで、初めて自らの加害者性を構築されること。ここにいたるプロセスは、一種の宗教的回心にも近い苦痛を伴い人生観の深い転換である。しかし彼ら全員にこの目標を達成できるだろうか」(『加害者は変われるか』、192頁)。

 そのうえで、加害者に対するアプローチの先進国であるカナダのDV加害者更生プログラム/性犯罪者処遇プログラムの実践的な理念について、次のように述べた。

 《刑務所でのプログラム実施者は、どれほど凶悪な犯罪者であろうと、彼らが「変化しうる」可能性を信じること、彼らを一人の人間として尊重してかかわることが求められる。この基本的姿勢はいささかオプティミスティックに映るかもしれないが、一九八〇年代より試行錯誤しながら性犯罪者処遇プログラムに取り組んできた先進国カナダにおける、これが一つの到達点なのである。》(『加害者は変われるか?――DVと虐待をみつめながら』、211頁)

 村上春樹作品の「男」たちは、不特定多数の女性と性的関係を結び、モテるように見えるが、じつは、突然消えた女、女の嘘に対して、根深いミソジニーを抱えている。そうした鬱屈と暴力的な感情をどうすることもできない。その内実に踏み込んでいけば、春樹的な「男」たちの心の中にあるのは、ほとんどインセル的(非モテ的)と言ってもいいほど、女性憎悪をこじらせて鬱屈した、荒涼たる風景である……そのようなことを述べてきた。

 つまり、男性の中に根深くある傷や被害者意識。ある意味ではインセルや弱者男性に近いようにも見える鬱屈した感情。それを当の相手(他者)と直接に話し合えずに、代理的な誰かに対する攻撃性や、セルフネグレクト的なタナトスに転化してしまうということ。そしてその先にあるかもしれない赦しと和解の摸索――。

 そのような男性たちの姿を描くことによって、村上春樹という作家の作品もまた、信田のいう「加害者男性は変われるか?」という現代的な課題を何らかの形で引き受けようとしてきたのではないか(ただし信田は「村上春樹的世界に違和感を覚える」と『国家と家族は共謀する』(二三一頁)で述べているが……)。

 もちろん、そうした男性学的/メンズリブ的/加害者論的な問いの行き着く先が、「女は必ず嘘を付く」というミソジニー的で疑似科学的な「真理」にとどまってしまうのであれば、村上春樹の中には致命的な死角がある、ということになるだろう。その点については別の場でまた論じたい。

 以上を確認した上で、次の点を強調しておきたい。村上春樹の『女のいない男たち』が自覚し、あるいは対峙しようとしているもの――というか、自覚と対峙の否認と失敗において間接的に露呈させているもの――は、おそらく、上記のような意味でのリベラル/ソーシャルな領域にすらも包摂も統合もされえないような暴力(邪悪さ)の次元ではないだろうか、と。

 それは逆にいえば、犯罪者や加害者たちの存在をもふくみこむような形で、万人の中にリベラルな市民性を回復し、社会的に包摂しようとするアプローチによっては――加害者もまたソーシャルでリベラルな「人間」に再統合されうるのである限り――、加害と被害が相互反転し、循環して、「悪」の問題が消えてしまう、ということを意味する。

 もちろんここで言う「悪」とは、もはや法や司法によって、あるいは臨床的なケアやプログラムによって解消されるべきものではないのだろう。それよりもはるかに、文学や芸術、宗教などの領域によって何とか迫っていく以外ないものなのかもしれない。しかし、人間とは複雑で複合的な存在であり、人間の世界が法律や制度の問題と同時に、宗教や芸術の領域の問題をも含むものである以上、それもまた実践的な問いの一つである、とまでは言えるだろう。

 いずれにしても、作家としての村上春樹は、内なる女性嫌悪という「悪」――加害と被害の相互反転性の中に回収されないような過剰なもの――を自分の中に発見し、失語と沈黙に陥りながらも、それに対峙しようとしてきたのであり、そのような「悪」の自覚の先に何らかの和解や赦し、あるいは「つぐない」の可能性を試行錯誤してきた作家である、とまでは言えるのではないか。

 加害に対しては人間的な責任が必要だが、悪に対してはそれを超えた超人間的な何か――赦しや償いと呼ばれる「奇跡的」(アレント)な何か――があらねばならないのだろう。

 では、村上春樹のテクストにとどまらず、こうした意味での加害/被害の循環に回収されえない根源的な「悪」を抱え込んで鬱屈した男性たちは、この社会の中でいかに生きていくことができるのか。生き延びることをゆるされるのか。

 それはおそらく、加害性の危険性を抱えつつも加害者(加害を犯した者)にならずに何とか生きていく、というだけの話ではないだろう。やってしまった人間、「悪」を抱えて生きていくとはどういうことか。被害者たちがサバイバーという言葉を作り出したように、加害者たちがある意味では「加害者として自己実現」してその後の人生を生きていくとはどういうことか。そうした生活倫理的な問いをも意味することになるだろう。

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