ピクサー試論(二〇一〇年頃執筆)

 ピクサー試論(二〇一〇年ごろ執筆)

 ピクサー・アニメーション・スタジオ(以下「ピクサー」)は、これまで、「夢みるオタク的技術者の集団による、革新的な起業の成功」という神話的な企業イメージ(物語)を、戦略的に打ち出してきた(エド・キャットマル『ピクサー流マネジメント術 天才集団はいかにしてヒットを生み出してきたか』、小西未来訳、ランダムハウス講談社、二〇〇九年(原著二〇〇八年)。デイヴィッド・A・プライス『メイキング・オブ・ピクサー 創造力をつくった人々』、櫻井祐子訳、早川書房、二〇〇九年(原著二〇〇八年)。ビル・カポダイ+リン・ジャクソン『ピクサー成功の魔法』、早野依子訳、PHP、二〇一〇年(原著二〇一〇年))。
 ピクサーは、もともと、ジョージ・ルーカスの映画制作会社・ルーカスフィルムのCG部門だった。『スター・ウオーズ/帝国の逆襲』製作中の一九七九年のこと、ルーカスは、3DCGの技術開発のために、専門家のエド・キャットマルを招聘し、同部門の副社長に据えた。また、のちにピクサーの看板クリエイターとなるジョン・ラセターが、CGアニメという当時は未知の領域に活路を求め、ピクサーに参加したのは、一九八四年のことである。しかし、ルーカスはその後、CGアニメーションの可能性そのものに懐疑的になり、彼らを見限ってしまう。
 一九八六年、アップル社の創始者スティーヴ・ジョブズが同部門を買収する。会社名をピクサーとし、事実上の舵取りをキャットマルに任せた。ただし、ジョブズの当初の目的は、ピクサーをハードウェア会社にすることだったという。
 そうしたルーカスやジョブズの思惑を尻目に、キャットマルやラセターは、世界初の長編CGアニメーション映画を制作することを目指していった。当時、CGによって長編映画を制作するための技術は、世界中、どこにも存在していなかった。慢性的な資金難もあって、ラセターたちは、主力商品を売るための宣伝として、『ルクソーjr』『レッド・ドリーム』『ティン・トイ』『ニック・ナック』等の短編映画を製作していく(『ピクサー・ショート・フィルム&ピクサー・ストーリー完全保存版』、ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社、二〇〇八年)。
 これらの短篇CGアニメによって、関係者から高い評価を得ることには成功するが、その後も経営としての低調は続き、ジョブズも何度も彼らを見捨てようとした。しかし、ピクサーは、一九九一年、何とか、ディズニーと三本の長編アニメーション映画の企画・制作・配給の契約を交わした。ディズニー側からの脚本への批判など、その後もトラブルはたえなかったようだが、ついに完成したのが、史上初のCG長編映画となる『トイ・ストーリー』(一九九五年)である。
 その後のピクサーは、毎年のように、意欲的なヒット作を世に送り出し、ピクサー映画の配給は、ディズニーへも莫大な利益をもたらすことになった。
 二〇〇六年、ピクサーはウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオに買収され、完全子会社となる。ジョブズはディズニーの個人筆頭株主になり、役員に就任。すでにディズニーとピクサーの力関係は逆転し、ディズニーの側がピクサーの人々を必要とするようになっていた。彼らは、零落したディズニー・アニメーション・スタジオの建て直しをロバート・アイガー最高経営責任者から依頼され、これに着手することになる。
 目を見張るような成功物語である。
 そして実際、ピクサーの長編アニメーション作品は、たとえば『バグズ・ライフ』や『モンスターズインク』が典型的であるように、「ソーシャルベンチャーの力によるイノベーションを通した社会革命の想像力」を物語の中心に置くものなのだ。
 たとえばピクサーがアメリカ型の「社会的企業」の物語によって自分たちの企業イメージを形成してきたとすれば、スタジオジブリは、「腕のいい職人たちの中小企業」という物語によって、自分たちの企業イメージを形成してきた。
 《「いい作品を作るために、会社を活用できるうちは活用しましょう」。これに尽きます。だから、そのために全力を尽くしたい。会社を大きくすることにはまったく興味がないんです。「好きな映画を作って、ちょぼちょぼに回収できて、息長くやれれば幸せ」と思っていたし、それはいまでも変わりません。理想は「腕のいい中小企業」です》(鈴木敏夫『仕事道楽 スタジオジブリの現場』、岩波新書、二〇〇八年、168p)。
 ここには、システム的な分業体制をとるピクサーと、基本的に作家主義的なスタンスを貫くジブリとの、システム的な違いがみられる。そのことが、それぞれが生み出すアニメ的想像力の方向性に、興味深い違いを生み出している。
   *
 ピクサー作品には、最初の長編作品『トイ・ストーリー』以来、いつも、弱いもの、役立たずなもの、ごみくずとされるものたちへ寄りそっていく、という想像力がある。使い古しのトイ、小さな虫けら、ネズミ、ちっぽけな魚、スクラップ同然の車、旧式のロボット、世間から忘れられた老人……。
  ラセターは、玩具好きで有名で、年代物の玩具コレクションを自宅に所蔵しているという。それもあって、子ども用のトイたちを主人公とする『トイ・ストーリー』がピクサーの出発点になった。のみならず、トイや虫けらたちは、ピクサーという企業体の長い不遇時代を象徴してもいただろう。しかし、それだけではない。
 もちろん彼らはアメリカ型の大量生産・大量消費・大量廃棄社会を否定しているとも思えない。そもそも玩具や車は、景気変動やコマーシャリズムに強く影響される商品であって、大量生産システムなしには世の中に流通することができない。しかし、繰り返すが、ピクサー的想像力には「そもそも映画は爛熟した消費社会の娯楽産業ではないか」という批判では片付かない何かがある。ピクサーは現在のグローバルな映画資本を象徴する一大企業と言えるし、趣味+社会貢献+経営的成功を同時に実現した「社会的企業(ソーシャルエンタープライズ)」としての成功物語のイメージを戦略的に身にまとっているようにもみえる。
 それでは、現代資本主義の最先端で生み出されるエンターテイメントに、どんなソーシャルな想像力が宿っていくのだろうか。
   *
 一九九〇年代から二〇〇〇年代半ばあたりのピクサーには、まだ、ある種の社会革命的な想像力があった。正確に言うと、「社会的企業のイノベーションの力による社会革命の想像力」である。
 それが最も色濃く表れたのが、第二作の『バグズ・ライフ』(一九九八年)だろう。
 『バグズ・ライフ』はアリとキリギリスの物語がモチーフ。アリたちは、強者であるバッタたちによって収穫物を搾取されることにすっかり慣れてしまっている。反抗する気力もなく、完全に奴隷根性が染み付いている。
  しかし、群れの中の変わり者フリックは、先祖伝来のアリ社会の秩序をはみ出し、次々と奇妙な発明=イノベーションを行う。そして「弱いのはどっちだ。アリたちは能無しじゃない。自立的な働き者だ。お前らがぼくらを支配しているんじゃなく、僕らをお前らが必要としているんだ」というアジテーションが着火点となって、奴隷=アリたちは一斉に武装蜂起し、資本家=キリギリスたちの圧制を斥ける。
 技術革新と信念によって、苦しい状況を最前線で切り開いていくフリックのトリックスター的な行動力。しかも、キリギリスと戦うためにフリックが仲間として連れて来るのは、「七人の侍」のような屈強な戦士たちではなく、失業中のしがないサーカス団なのだ――それはあたかも、周囲の冷たい眼と資金難の中で史上初のCG長編映画を制作するという子どもの遊戯に情熱を燃やしたピクサーという企業=共同体の姿そのものにみえる。
 次に、第四作『モンスターズ・インク』(二〇〇一年)をみてみよう。
 『モンスターズ・インク』では、人間の子どもを怖がらせるという怪物たちのミッションが、資本主義的労働の完全なアナロジーになっている。つまり、子どもたちの恐怖や悲鳴を搾り取り、それを怪物たちが自分らの社会を回すエネルギーに変えて供給する、という搾取の図式がそこにはある。
  大企業「モンスター株式会社」の中でトップの営業成績を残してきたサリーとマイクのコンビは、ひとりの人間の女の子・ブーとの出会いから、人間の子どもたちの恐怖と犠牲の上に成り立つ自分たちの労働や社会のサイクルを、根本的に疑いはじめる。そしてサリーたちは、最後には、子供たちの笑顔や笑い声をエネルギー資源として用いる、というwin-winな代替技術の開発に成功する。
 『バグズ・ライフ』の物語的な想像力が一人のトリックスターを触媒(アジテーター)とする大衆蜂起として炸裂したとすれば、『モンスターズ・インク』にあるのは、資本主義的な技術とイノベーションを加速することで搾取型資本主義を内側から乗り越える、という社会変革のヴィジョンである。CGという未知の映画技術の発明・開発を通して子どもたちに新しい喜びと笑いを与え、自分たちも金銭や資金を得ていく、というピクサー的な戦略の自己肯定が、おそらく、この『バグズ・ライフ』の物語には込められている。
   *
 しかし、『バグズ・ライフ』や『モンスターズ・インク』のような、社会革命的+ソーシャルベンチャー的な想像力に由来する物語は、二〇〇〇年代後半に入ると、しだいに成立しがたくなっていく。
 図式的に言えば、この頃のピクサー映画の想像力には、「資本主義の暴力を超える社会革命やユートピアを夢見る物語」から「資本主義の片隅に小さなコミュニティを創って、社会から排除された弱い仲間たちと共に生きる物語」へと、ゆるやかなスライドがみられる。
 たとえば第七作『カーズ』(二〇〇六年)。
 主人公のライトニング・マックイーンは、見世物レースやコマーシャリズムの華やかさの中で競争に勝ち抜いて、それによってかえって孤独を深めていくよりも、親密な仲間たちと郊外の相互扶助的なコミュニティで生きることの方に幸福がある――ということに気付いていく。これは、一九六〇年代の、社会運動の季節に挫折した若者たちが、各地へ散らばり、コミューンを形成したりヒッピーになったりしていった、という歴史とパラレルなのかもしれない。その意味ではまだ社会革命の物語の残滓があるとも言えるし、『カーズ』は過渡期の作品であるようにみえる。
 二〇〇〇年代後半以降の作品では、「家=故郷」に帰る、というモチーフがさらに全面化していく。
 ただし、そこにはねじれがある。家に帰ろうとするが、すでにそこに親密なホームはなく、むしろそのプロセスの中で、当初探していた共同性Aとは別の新しい共同性Bが自分たちの足元に(再帰的に)見出されていくのだ。このパターンが完全な形で描かれたのは第一〇作『カールじいさんの空飛ぶ家』(二〇〇九年)と第一一作『トイ・ストーリー3』(二〇一〇年)である。
 二〇〇三年の第五作『ファインディング・ニモ』のマリーンとニモの父子(彼らは父子家庭であり、父の子からの自立と子の父からの自立のプロセスが同時平行的に描かれる)には、帰るべき親密な家=故郷が確かなものとしてまだ存在していたし、『カーズ』でも郊外の田舎町の相互扶助的なコミュニティがリアルなものとして存在していた。
 これに対し、『カールじいさんの空飛ぶ家』では、七八歳のカールじいさんは、亡き妻エリーとの「伝説の滝パラダイスフォールへ行く」という子どもの頃の約束を果たすために、古びた家を大量の風船で宙に浮かせ、約束の地を目指して冒険するのだが、実際にその約束の場所へと辿り着いたとき、大切なのは夢だった目的地ではなく、むしろ、妻と二人で共に暮らした何気ない日々であり、これまでの生活の小さな積み重ねであることに気付いていく。
 それは同時に、まさに、約束の地に辿り付くまでの冒険をたまたま共有したボーイスカウトの少年ラッセルや犬語翻訳機をつけた犬ダグたちこそを、カールじいさんが新しい家族(共同性B)として再発見していく、ということをも意味した。
 また『トイ・ストーリー3』では、少年だったアンディは一七歳に成長し、もはや玩具を使って遊ぶ年齢ではなくなっている。ウッディたちは自分たちの居場所や存在根拠を見失うが、それでも主人のアンディと共に生きる道を何とか探ろうとする。
 大学進学のための引越しの日、アンディはウッディという最もお気に入りの玩具だけは引越し先に連れて行こうとする。しかしウッディは、悩んだ挙句、最後に、アンディという親密な所有者のもとに一人で残る道を断念して、別の新しい子ども(ボニーという四歳の少女)の家で、仲間のトイたちと一緒に生きていくという道を選択する。
 ウッディは葛藤の末、アンディという主人との特権的な関係(共同性A)ではなく、これまで苦楽を共にしてきた友人や仲間たち、弱い者たちとの関係(共同性B)を優先したのである。
 ちなみに、『バグズ・ライフ』の主人公フリックが、アリたちのコミュニティでも「役立たず」のレッテルを貼られていたように、『トイ・ストーリー』シリーズのウッディも、玩具たちのコミュニティ内で、とくべつに強いリーダーシップやカリスマ性があるわけではない。どちらかといえば、張り切り過ぎのダメ人間、という感じに近いのではないか。しかし、仲間を思う気持ちは誰よりも強く、仲間から裏切られようが冤罪で突き上げを食らおうが、ウッディの方から仲間を見捨てることは絶対にないのだ。
 本来の家や故郷から見捨てられてしまったものたちが、すでに存在しないその場所を探し求め続けているうちに、新しい絆が自然と形成されてゆき、それこそが彼らにとって新しい家や故郷になっていく――。
 ピクサーの物語にはごみくずの山へのノスタルジーがある(ウォーリーの廃墟。カールじいさんの家。古いトイたちが住む玩具箱。さびれた車たち)。キャラクターたち自身も役立たずのスクラップであり、いつ廃棄され捨てられてもおかしくない。そんなごみくずたちが、何とか創意工夫し、協力し、ブリコラージュ的に自分たちの居場所(弱いものたちのジャンクなコミュニティ)を作り出していく。ただし、それが成り立つのはつかの間かもしれず、明日にでもあっさりと、現実の容赦なさによって踏み潰されるかもしれないのだが。
 ここには、『バグズ・ライフ』や『モンスターズ・インク』にみられた「現状の社会を覆す新しいオルタナティヴなユートピア」という、強い闘争意識やwin-winな社会改革のヴィジョンは、すでに、成り立っていない。しかし、ゴミクズ(ルンペン)のように扱われてしまう小さく弱い者たちが、過酷な現実の隙間に、何とか支え合って生きる場所を確保していく、というエフェメラルなコミュニティがかろうじて成り立っている。
   *
 重要なのは、ピクサーの物語には、一歩間違えれば自分も廃棄処分だったかもしれない、という暴力の気配がいつでも幽霊のように染み付いていることだ。
 その感覚を全面化させたのは、やはり、『トイ・ストーリー3』だろう。
  最後まで生き延びたウッディたちの(見えない)背後には、捨てられ破棄された玩具たちの幽霊が無数にいるはずなのだ――実際、地元の託児施設サニーサイドは、最後に、廃棄処分された玩具たちのユートピアとなっていくのだが、それは(前半までそうだったように)子どもたちからの拷問と虐待が無限に続くディストピア=地獄と表裏一体でもあり、またどこか幽霊たちのコミュニティ=天国であるようにもみえる。
 つまり、ここでは、弱いものたちのジャンクな共同体Bが成り立つのは、すでに廃棄処分されてしまった玩具の幽霊たちの気配とまなざしに貫かれることにおいてであり、ある種の喪と哀悼の時間の中においてなのである。
  ふりかえってみれば、ピクサーの中では初期作品に属する『トイ・ストーリー』1・2でも、ウッディたちは、帰るべき場所がなくなるかもしれない、古びれば捨てられてしまうだけかもしれない、という強い存在不安をすでに色濃く抱えていた。子ども向けの映画にしては、子供と玩具のあいだの信頼(絆)がつねに不安定で流動的なものだった。
 『トイ・ストーリー』シリーズの際立った特徴として、上位の人間世界と下位の玩具の世界の完全な断絶がある。たとえばトイと人間たちの間には基本的にコミュニケーションの可能性が存在しない(トイたちの行動が人間達に影響を与えることはあるが、それはコミュニケーションではない)。人間とは、ほとんど神や自然環境のようなものだ。トイたちは人間の愛情が天上から恩寵のように降り注ぐのを待ち、祈ることしかできない。そこにはみもふたもない残酷さと無力さがあり、ピクサー作品にある種の神学的な感触をもたらしている。だからこそ、『モンスターズ・インク』のモンスター/人間、『レミー』のネズミ/人間の共存的な関係性の成立が、ユートピア的な感触をもたらすのだろう。
 ピクサー映画をみる、という経験は、おそらく、子どもたちが日常の身の回りをみるまなざしを変える。少なくともそうした可能性がある。それは「自分が持っている玩具も、もしかしたらウッディたちのように生きているのではないか」というアニミズムの感覚だけではない。子どもたちは、普段何気なく遊んでいる玩具や商品の背後に、捨てられ、廃棄されていく物たちの幽霊を重ね描きされ、「見させられてしまう」のだ。
 アニメーションの語源はラテン語のanima(魂、霊魂)にあり、非生命に生命を与えることを意味するものだった。しかし、ピクサー映画においては、むしろ、人間とキャラクター、生命と非生命の間の境界線が、何重にも攪乱されていく。
 そしてこの攪乱は、もともと、資本主義的な商品という奇妙な「幽霊」の特性でもある。資本主義の中の商品においては、ただの物(非生命)が、交換価値というフェティシズム的な価値(生命)を帯びるからだ。
 そのとき、子どもたちは、子どもとしての自分たちの暴力(加害)へとわずかに覚醒させられていく、商品交換の暴力へと覚醒させられていく(かもしれない)。そして、それらの暴力を超えて誰かを生かす(非生命の中に生命を宿す)こと、廃棄され殺されていくものたちと共に生きることの意味を、少しずつ感じ取っていく(かもしれない)。
 いや、もちろん、子どもたちだけではない。子どもたちを連れて映画館にやってきた大人たちは、ウッディらのいじましい姿に、労働者(労働力商品)としての自分たちの日常を重ねていくことになるだろう。ピクサー映画のジャンクなコミュニティはピクサー株式会社の似姿でもあり、会社のお荷物部門とされ、何度も見捨てられかけた自分たちの姿を投射したものなのだった。さらにそこには、かつて子どもだった自分自身のまなざしが、複数的なレイヤーとして折り畳まれていく。自分たちは、自分は、気付かぬうちに何かを捨て、そのことで結果的に何かから捨てられているのではないか。と。
 ピクサーは、二〇〇六年頃には、少なくとも映画製作のレベルでは子ども時代からの憧れだったディズニーアニメーションという「王」をすら凌駕するという、決定的な成功を勝ち取っていたのだった。そんな社会的成功の絶頂期において、なぜ、廃棄されるもの、幽霊たちとのコミュニティで生きるという想像力が全面化してきたのか。あらためて考えてみれば、これは、少し不思議なことである。
 子どもたちのような真っ直ぐなまなざしで、もっとよくこの世界をみてみよう。人間たちの生活の足元に、顕微鏡的にみれば、虫たちや幽霊たちの生活がある。弱いものやごみくずたちや生きられなかったものたちの生活がそこにはある。私たちはその事実を誰もが知っているはずなのだが、しかしその事実の層を普段から「みている」わけではない。
廃棄処分された玩具たちや幽霊たち、産まれることのできなかったものたちの気配に見つめられながら、自らのまなざしを多層化=多レイヤー化していくこと。
 その先で、弱いものや幽霊たち、生きられなかったものたちとの新しい絆(社会契約)を交し合いながら、未来へ向けて、もう一度、新しい社会変革(革命)を夢見るとは、どういうことなのだろうか。
 ピクサーのプロジェクトはいまだ現在進行形であり、今後もそのポテンシャルを追ってみる必要があるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?