柄谷行人論 1章


 柄谷行人論 1章

 人間はどうしてこんなに無力で、こんなに無知なのか。柄谷行人の出発点には、おそらく、そうした問いがある。

 無知と無力とは、必要な情報や知識を持っていない、ということではない。十分な地位や仕事や金銭を所有していない、というのでもない。資本主義的な競争を生き延びるための能力が足りない、という意味でもない。この世界の中にこの私が存在していること、存在そのものから無限に強いられる無力と無知である。あたかも自然そのもののような無力と無知。柄谷の批評的な問いがはじまる場所には、いつも、そんな無力と無知があるように思えた。

 学生時代までの柄谷の足取りをたどってみても、どこか、つかみどころがない。一九四一年、兵庫県尼崎市南塚口に生まれた。中学生の頃は一九世紀のロシア小説を読み、高校ではサルトルやカミュなどのフランス文学をかじった。しかし文学よりもバスケットボールに熱中した。数学者になりたかった。ところが大学は、東京大学経済学部に進学している。ちょうど一九六〇年安保闘争の年のことだ。

 ブント(共産主義者同盟)に参加した。ブントの過激さ、破壊的な行動性が気にいったという(柄谷のマルクス批評は、宇野弘蔵の理論から決定的な影響を受けているが、ブントの理論的な支柱は宇野理論だった)。しかし、柄谷は間もなく、運動からも離れ、経済学をやる気もなくしていく。一九六五年に大学を卒業すると、一転して、東京大学大学院英文科修士課程に入学する(以上、「國文学」平成一年一〇月号の自筆年賦、曽根博義「作家案内」(講談社文芸文庫『意味という病』)等を参照)。

 とりとめがないようにも、柄谷らしい「移動に次ぐ移動」の繰り返しにも、若者らしいありふれた迷走にもみえる。柄谷は、現実に対する疎隔感を、五歳の頃から感じていたという(対談「他者とは何か」、「国文学」平成元年一〇月号)。本当かどうかはよくわからない。ただ、確かなのは、彼が自らの存在感覚(疎隔感)のハードコアを、青年期の終りころには言語化しつつあった、ということだ。柄谷は二五歳の時、東京大学新聞の懸賞論文(五月祭賞)で佳作をとる。それが「思想はいかに可能か」(「東京大学新聞社」、一九六六年五月)である。

  《すべて思想の名に値する思想は自己の相対化されるぎりぎりの地点の検証から始まっている。あるいは、思想家は自己を相対化してしまう現実の秩序と生活の地平に耐えねばならぬという恐ろしさを見極めようとする所からのみ生れる、といってもよい。》(「思想はいかに可能か」、『初期評論集』8p)

 いかにも柄谷らしい宣言である。柄谷は、現実的秩序と対決する思想は、つきつめれば、三種類の「普遍的なパターン」しかありえない、と言う。そして三島由紀夫/吉本隆明/江藤淳の思想のあり方を、明晰/自立/成熟というトライアングルとして整理する。しかし最後に、柄谷はそれら三つを、一挙に突き放す。私たちの手元に残るのは「自分は何者か」という単純素朴な問いであり、「内的な自己検証」である。「いかなる新思想、新批評も、かく自己に問いかけるとき、ぶざまなみすぼらしい骨格を露わにする他はないのである」(35頁)。

 この私の存在を無限に押し潰し、相対化してしまう「現実の秩序と生活の地平」の怖さ。それは自意識や批判や内省の力によって乗り越えられるものではない。主体的な行動も意志も決断も、何の役にも立たない。若き柄谷が自らの全身に突きつけたのは、この意味での「自己の相対化されるぎりぎりの地点の検証」だった。だから、「自分は何者か」という問いには、つねに「恐ろしさ」がつきまとう。「ぶざまなみすぼらしい」己の現実を、何度も何度も、全身で浴びねばならないからだ。「自分は無力だ」と率直に認めることすら、何の防御壁にもならない(柄谷は「無知の知」というソクラテス的なレトリックを唾棄した)。かといって、無気力な沈黙の中にとどまってしまえば、じわじわと現実や生活に押し潰されていく。

 いっけん、抽象的な問いに思える。だが、誰もが、自分の人生を真摯に振り返ってみれば、それぞれの形で、自然としての無力と無知を味わい、強いられた記憶があるのではないか。そしてそんな根源的な無力や無知からこそ、失語からこそ、わきあがってくる知性の力があるのではないか。こうしたぎりぎりの感覚は、柄谷がその後何を書き、何を考えたとしても、必ず立ち戻ってくることになる、絶対的なはじまりの場所となった。

   *

 ただし、この時点での柄谷は、人間に無知と無力を強い、無様な自己検証を強いるものの正体を、まだ、生々しい具体的なイメージとしては、つかめていなかった。抽象的な予感だけがあった。

 修士課程に入学した年に原真佐子(冥王まさ子)と結婚した柄谷は、一九六七年に同課程を修了。国学院大学の非常勤講師(英語担当)となり、また翌一九六八年には日本医科大学の専任講師となる。この間、柄谷は「群像」の新人文学賞に、何度か応募を試みていたようである。一九六七年の「表現論序説」は二次選考通過。六八年の「〈批評〉の死」は最終選考通過。着実に前進はしていたが、受賞には至っていない。この頃、東大卒の外国文学者たちによる季刊「世界文学」や、大学院で知り合った蟻二郎が関わっていた英文学アカデミズムを批判する雑誌「新批評」などに、英米文学に関する論文を掲載してもいる。

 そして柄谷は一九六九年、二八歳の時に、夏目漱石についての批評で群像新人賞を受賞する。それが「〈意識〉と〈自然〉――漱石試論」(「群像」一九六九年六月号)である。

 自然に対する畏怖の感覚。柄谷の「批評家」としての出発点には、疑いなくそれがあった。私たちに対して無力と無知を強い、失語を強い、自己検証を強いるもの。それを柄谷は生々しく「自然」と名指そうとしたのである。

 ちなみに、この雑誌掲載版の漱石論は、三年後には大幅に改稿されて、「意識と自然――漱石試論(Ⅰ)」と改題された上で、第一評論集『畏怖する人間』(冬樹社、一九七二年) に収録される。私たちが現在、普通に読むことができるのは、後者の改稿版「意識と自然」である。

 では、自然を畏怖する知性とは、何を意味するのか。柄谷にとって、自然とは何か。

 身近でありふれた問いである。たとえば二〇一一年三月、福島第一原発の未曾有の公害事件のあと、「正しく怖れよ」という言葉がはやった。放射性物質のリスクについて、正しい知識をもって、必要以上に神経質になるべきではない。非科学的な迷妄を避けよ。そんなニュアンスだった。しかし、疑問が残る。畏怖すべきものを「正しく」怖れることなど、本当にできるのか。「正しく怖れよ」という言葉を口にするとき、そこからはすでに、自然や科学技術に対する根本的な畏怖の念は、消えてしまっているのではないか。

 そもそも、「正しく怖れよ」という言葉の出典は、夏目漱石の弟子だった物理学者、寺田寅彦の随筆である。寺田は、その随筆の中で、浅間山の噴火の衝撃に触れて、「ものをこわがらな過ぎたり、こわがり過ぎたりするのはやさしいが、正当にこわがることはなかなかむつかしいことだと思われた」と言っている(「小爆発二件」昭和一〇年)。それは科学者の立場から、無知な市民たちに向けて「正しく怖れよ」と啓蒙しているのではない。むしろ、科学者としての己が自然に向き合うことの「むつかし」さを、畏怖と共に内省するようなニュアンスなのである。「正しく怖れよ」と他人を啓蒙しようとする人々が、寺田の言葉を「正しく読む」ことすら出来ないのは、どうしてなのか。

 地震・津波・火山などの自然災害とともに暮らしてきた日本人にとって、自然とは、人間の力によって十分に管理や統御ができるものではない。人間の理性や意志を容赦なく打ち砕くような、恐るべきものであり、たとえば旧約聖書の『ヨブ記』のような理不尽な神に近いものだったはずだ。火山列島日本に固有の神とは、火山の神、火の神(「出雲国風土記」のオオナモチ 、記紀神話のスサノオや大国主)だった、という説もある。自然は、何の意味も理由も目的もなく、私たちの家財や農地を取りあげ、家族や恋人の命を奪い去っていく。「環境を大切に」「自然に優しく」などといったスローガンは、たんなる人間の傲りにすぎない。

 柄谷にとってもまた、自然とは、そのような畏怖すべきものだった。柄谷は、漱石にとっての自然の意味に肉迫しながら、そのことを確認していく。

 明治人としての夏目漱石は、自然という言葉に、多義的な意味を込めていた。漱石は、世の人々が色々な言葉を使って言い表すだろうものを、ただ一つの言葉に封じ込めたのである。思想史家のラブジョイによれば、一七・一八世紀の思想や文学において、natureという言葉は、変幻自在、おそろしく多義的なもので、あらゆるものを指し示すことができる、切り札のような言葉だったという。ところが、一九世紀以降になると、自然はそうした多義性を失って、自然科学や自然主義が分析対象とするようなみすぼらしい地位に転落してしまった。漱石は一八六七年生まれの人間だが、イギリスの一八世紀の小説に親近感を覚えており、一七・一八世紀的な自然が持っていた多義性を、自然科学による切断を一度くぐった上で、高次元で取り返そうとしていた。

 柄谷は、漱石の全作品を熟読しながら、漱石の中で絡まり合っている自然の意味の重層性を、幾つかのレベルに切り分けていく(一章)。(1)人間的な理性によって抑圧されてしまった無意識としての自然(ルソー的な自然)。(2)生きるために互いの糧を奪い合い、自然淘汰するという意味での自然(ホッブズ的な自然)。(3)人間の原罪としてイメージされるような、観念的な自然(漱石の『夢十夜』や『倫敦塔』等の初期短編に繰り返し現れるイメージ)。(4)儒学の「天」のような、超越的な規範としての自然(『虞美人草』等)。(5)それらのいずれにも当てはまらないような、醜悪でグロテスクなものとしての自然。

 まさにカオスである。漱石にとっての自然とは、これらの要素が渾然と絡み合っていく、不気味な丸ごとの混沌であり、流動する力そのものだった。天衣無縫に、自然のままに生きられれば――日々の暮らしの疲れにまみれて、私たちはそんなふうに感じることがある。しかし、自然に生きるとは、決して美しく理想的なものではないし、地に足をつけて安心して暮らすことでもない。

 重要なのは、日本的な自然に向き合った漱石が強いられたカオスは、そのまま、漱石の言葉を熟読し批評していく柄谷自身の言葉(文体)へも、激しく跳ね返ってきている、ということだ。柄谷の批評を熟読すれば、誰でもわかることだが、柄谷の「意識と自然」の内容は、すっきりと明晰なようでいて、じつは、きわめて混乱したものを孕んでいる。問いが一つの場所にとどまらず、次々と移動し、反転してはズレていく。そういう感じである。おそらく、柄谷の漱石批評の核心を私たちが読みこむためには、それを読んでいる私たち読者の側もまた、漱石や柄谷の言葉を強いる自然的な混乱に身を委ねながら、彼らの言葉を読んでいく以外にない。

ここから先は

14,402字

¥ 500

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?