ある被害

自分の暴力について加害と被害が重層する場所から当事者的に内省していくこと。ずいぶん前から、そういうものを書かねば、と考えていました。二〇一六年刊行の『非モテの品格――男にとって弱さとは何か』の「あとがき」にも書いたのですが、本当はあの本には性暴力論が入るはずでした。しかし、書けませんでした。それから六年近くが経ち、続編の『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か』という本も刊行しましたが、そこでもやはり性暴力については書けませんでした。

とはいえそろそろ、さすがに向き合うべきかと思っています。そのための助走の助走ということもあって、かつてクローズドな場に書いた文章(2021年4月28日)を転載しておきます。
 
★★

前に少し書いたことがあるし別に隠してもいないのだけれど、まだ童貞の若い頃にバイト先の年上の女性に飲み会のあとホテルに連れ込まれてオーラルセックスをされたことがあり、けれども長い間それが性暴力なんだと自覚することすらできなかった。

当時、周りの何人かの男性の友人にお悩み相談のような形でそっと話してみたこともあったけど「よかったじゃん」「気持ちよかった?」という感じでスルーされてもやもやしたし、それも含めて自分の人格形成にその出来事がなにがしかの影響を与えてきたと感じているけど(女性に対する身体的な恐怖など――ただしそこには学生時代の女性集団からの嫌がらせや、職場時代の女性上司からのパワハラまがいの対応なども関係しているので、様々な要素が複雑に絡み合っているわけなのだが)、あれから25年も過ぎたが、今も、あのささやかな性被害のことを正面からはちゃんと考えられていない。

ぼくの場合は若い頃のたった一回きりの経験だし、それを継続的な虐待やDVとはもちろん同一視できない。そして構造的には男性による女性の圧倒的な性支配と権力勾配があり、この世の暴力の加害者のほとんどは男性である、という大前提もある。けれどもその上で、女性からの男性に対する様々な被害(母親からの虐待や、女性集団からのイジメや、恋人による歪んだ支配など)について、男性たちが当事者目線でもう少し考えたり、言葉にしていくことが重要ではないか、とは思ってきた。今も思っている。

男も弱音を吐いたり逃げたりしたっていいんだ、という言説もかなり増えてきたし、男性の性被害やDV被害の経験もだんだんメディアで取り上げられるようになってきたけど(男性を呪縛する「男性の性被害神話」の強さもあって、少年や男性たちの性被害は「最後の暗黒大陸」「ラストタブー」等とも言われてきた)、その多くは相変わらず「男による男への加害」だったり、「加害者の女性にはそうせざるをえない社会的な事情があった」というような話になってしまって、ぼくが心の奥で悩んできたような「女性の暴力」そのものが正面から対象化されることは滅多にないように思われる。

しかし男性学やメンズリブの発展のためには、この種の問題への直面もまた避けられないのではないか。女性に対する恐怖を、ヘイトなきフィアーにとどめながら。心理的なミソジニーには陥らずに。

もちろんまずは男性たちの性支配や特権や加害が批判されるべきであり、それを温存する社会構造が改善され変革されるべきなのだが、その上で、自分が経験した「女性の暴力」をなかったことにしたり、ごく少数の例外的なものとして見ないふりをしたり、女性集団が非暴力のユートピアであるような幻想をふりまいたりしてしまうことは(近年は「シスターフッド」という言葉に含まれる家族主義にも一定の留保が付されるようになってきたが)、やっぱり、男性の被害経験を言語化して可視化していくためには、問題があると思ってきた。今もいる。

ただし、現在のようにあまりにも男女が不平等で不公正であり、にもかかわらず「マジョリティこそマイノリティ」「多数派男性こそが権利を剥奪されている」などという被害者意識やミソジニーが蔓延している状況の中では、公的な場でどこまでこれらの問題を議論しうるのか、議論していいのか、やはり疑問も残る。それはある。ある種の自助団体/ピアカウンセリング/当事者研究的な場がまずは大切なのかもしれない。自分の傷を手当てしていくことをちゃんとしてこなかったのかもしれない。

ついでに言うと、上の話とは全く別に、ぼくには明らかな女性に対する加害の経験があり、少なくとも一般論ではなくぼく個人の問題としては、被害と加害を同時に、複合的に、重層的に考え続けていかねばならない(修復的正義・司法やデリダの赦し論を参照しつつ、それらとは異なるものとしての、「つぐない」論についての原稿を書いていたこともあるが、それもなかなか書き進まずに未完成のまま中断し、凍結されている)。

そういったややこしくてしんどい問題を試行錯誤しながら言葉にしていくのはちょっともう不可能かもしれない、と長らく思っていたけれど、近年の性差別や性暴力をめぐる認識や実践の成熟を見ていると、やはりそれは何らかの形で語りうるんだし、それ自体が差別や暴力を維持強化しないような形で、丁寧に繊細に、語られた方がいいのではないか、と思うようになった。

たとえばこれも揶揄や批難の意図はないのだが、家庭内や恋人同士において、女性が不機嫌になったり怒鳴ったり叩いたり、ということがあると思うけど、今のところそれは(あまり)「暴力」「DV」ということにはなってないと思う――つねに「男の無神経のせい」とか「身体的理由のせい」にされるけれど、「すべて」がそれで本当に片付くのだろうか。そういうところにいちいちもやもやしてしまう。それらも社会的な規範が変われば問題化されうる、のか。たとえば自分たちの子どもが成人するころには。どうなのだろう。わからない。

これは(しつこいようだが)女性差別や性暴力を相対化するために言っているわけではない。現状、男性による暴力や差別や特権の方がはるかに深刻で、それらをどうにかすることが急務であることには深く賛成する。が、社会的な「規範」がより繊細になっていくという人類史の発展と進歩の趨勢を考えると、論理的には「これもいずれ問題化されるんだろう」とは思う。そうなってほしいと思う。もっとずっと未来のことかもしれないが。

その辺りのねじれた問題に「おかしい」と感じて、フェミニズムに反発したり、ミソジニーをこじらせたりしている人もまた、いわゆる「弱者男性」論の界隈に限らず、結構いると思う。そういうパートナー関係、あるいは家庭内の力学でこじらせてしまっていると思しき男性たちがぼくのとぼしい人間関係の範囲内でも結構いる。だからやっぱりその辺りのことはもう少し丁寧に、繊細に、語られていってもいいのでは、と思う。

五年ほど前にいちど覚悟を決めて性暴力論を書いてみようとしたことがあったが(それは2016年に刊行した『非モテの品格 男にとって弱さとは何か』の一部分になるはずだったが、本の中には入りきらず、結局完成もしなかった)、未刊で中断し、そのまま塩漬けになっていて、その後もまだ全然ちゃんと言葉にできないのだけれど(この文章を書きながら結構冷や汗をかいて手足がふるえてきたのでびっくりした)、男性の性被害についての文献なども増えてきているので、このあたりの問題について考えて、少しずつ、言葉を紡いでいこうと思う。

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