諸行無常とラッセルのパラドックス

ここんとこずっとnoteに投稿してなかったのは、投稿すると「〇〇週連続投稿! すごーい!」とかいう神経を逆なでする文言が出るからぶち切れて一週間以上待ったんだよ。サボってたわけじゃないよ。というかあの文言考えた奴ちょっと校舎裏に来い。

それはともかく、今回は仏教にいちゃもんをつけるべく、諸行無情とかいうクッソ情けない誤字をされることが多い「諸行無常」なる仏理法則について殴って行くんだぜ。上の文章にクソダジャレが多いのは最近はまってる漫画の影響なんだぜ。リンク貼っとく。

https://seiga.nicovideo.jp/comic/41035

個人的には武道の擬態に感動した。

それはさておき、昔から冗談で「諸行無常の「諸」って概念、ラッセルのパラドックスに抵触しない?」ということを言っていたのだが……という書き出しから始めようとして、ふと思った。ラッセルのパラドックス自体、常識じゃないから説明した方がよくね? という。なので最初はそこから入りまーす。

ラッセルのパラドックスは、バートランド・ラッセルっていうイギリスの論理学者が発見した、その時点の数学で構築されていた集合論を破壊する致命的パラドックスです。ウィキペディア見ればわかるけどそれも面倒だろうから書くと、

X={x|x∉x}

と定義した集合について、

X∈X

という論理式が正しいか間違っているかを判定できない、というのが概要。ただこれを言うと意味論の話に聞こえるが、このパラドックスは厳密には文法の問題なのでちょっと説明が難しい。(論理学では「意味論」(正しいとか間違っているとか)と「文法」(証明できるかできないか)は厳密に分けないといけない)

まず、このパラドックスのなにが問題かということを記述するために、上の論理式をAと呼ぼう。Aを仮定すると、XはXに属するための条件を満たさないので、Aの否定が示せる。したがってA⇒¬Aである。一方でAの否定、すなわち¬Aを仮定すると、XはXに属するための条件を満たすので、Aが示せる。したがって¬A⇒Aである。よってAと¬Aのどちらが成り立っていると仮定しても両方が証明されることになり、矛盾が生ずる。これがラッセルのパラドックスだった。

見ての通り、この論理は排中律、つまり「『Aまたは¬A』は正しい」という性質を前提に置いているので、排中律を否定するタイプの論理学だとこのパラドックス「だけ」は回避できる。が、そちらはあまり主流ではないので、ラッセルのパラドックス以後の公理的集合論の話をすると、この後集合論の研究者は二つの流派に分かれることになる。片方は集合と呼ばれるものに制限をいろいろ付け加えてXみたいな集合の「存在」を禁止する方法。これはツェルメロとフランケルがやったので頭文字とってZF公理系と呼ばれる。もうひとつは、「集合」とそれまで呼ばれていたものを「集合」と「クラス」のふたつに分類し、新しい「集合」にはそれまで考えられていた演算を全部使っていいけど、「クラス」には制限をかけるもの。この場合上のXは「クラス」に分類されるので、論理式Aを論理内で扱うことが許されない。これはゲーデルとベルナイスとノイマンがやったのでやはり頭文字を取ってGBN公理系と呼ばれている。現在はこのふたつの公理系で扱える範囲は変わらないことがわかっているので、どっちを使うかは好みの問題になっている。

と、ここまでがラッセルのパラドックスの説明で、諸行無常に移ると、これは「諸行」なるものの中に「常」であるものはない、と言っている。「諸行」は森羅万象のすべて、「常」というのはずっと成り立っていることなので、「諸行」はどんどん変わっていって、変わらないものはないという仏教の教えなわけだ。

うっわー、見るからにラッセルのパラドックスと類似の構造……と、これを知ってすぐ思ったのが僕。森羅万象の中に「諸行無常」って法則が入ってたら、この法則自体が「常」でなくなるから、絶対正しくなくなるじゃんこれ。とまあ、そんな話をしようと思っていたのだが、この記事を書くに当たってwikipediaを調べてみたところ、こっそり下のところに、「諸行」なるものの制約条件として「因縁によって生じるもの」とかいうのが書いてあった。先に言え!

んでまあ、少し工夫して考えてみた。おそらく「諸行無常」なる法則は因縁によって生じるものではなさそうだから、ターゲットを「諸行無常という教えの布教」に絞る。教えは、伝え続ける努力を怠ればすぐに廃れる。したがって仏教徒は教えを布教し続けなければならない。だが「布教し続けなければならない」とすればそれは「常」なのではないか?

少し考えると、これは二択問題である。「教えが普及した状態」が「常」でなければ、「教えを広めなければいけない状態」が「常」となる、というスイッチ構造をしている。どちらのスイッチが入っていても「常」になる「諸行」の要素がありそうなので、「諸行無常」は破綻する。

と、ここまで考えて、そもそも人間が絶滅してれば教えを広める必要はねーな、と思い至った。つまりこの法則、実は「人類はそのうち全滅する」って言ってね? とまあ、仏について理解をひとつ深めたすたりむであった。おわり。

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