平和とこぞって言うけれど

9/21の今日。
どうやら国際平和デーというらしいね。
なのでぼくなりの平和というモノをつづってみようかな。

まぁ結論から言ってしまうと

「それぞれの人などが自分自身の平和というモノを認識して、自覚として持っているのか?」

ということに尽きるのではないかなとぼくは考えています。

なんか違和感があるんですよね。
平和って誰かが決めるモノなのかとか、こうでなければ平和とは言えないだとか。それって十数年前に宗教勧誘に来た方々へ2時間くらい話したことがあった出来事に似ているなと。

その十数年前は、父親の介護とぼく自身の療養で実家で気ままに暮らしていて、決して裕福ではなかったけど、豊かではあったと思ってました。そんな中、宗教勧誘の方がいらっしゃいまして、ぼく自身は宗教活動にたいして偏見もなく話を聞く分には全然問題ないし、納得できたらやるんじゃないかなくらいではあったので、興味本位で幸福とは何かと説いてくる方の話を伺ってました。

そしたらですよ。

「信心してないから現在そういう大変な目に合われていて、現在苦しんでいる状態なんです。今後も災害があっても信心すればご加護があって助かります。諦めないでください。」

と、きたもんだ。

ぼくは一言も自分自身が大変だとか苦しいだとか言った覚えはないし、むしろ障害者になって父親の方が今まで一人でできていたコトができなくて、人に頼らざるを得なくなった方が大変でしょ?

だからぼくは今、父親に恩返しをしているだけだから全然苦しくもないし、むしろ喜んでやってる。災害が起きるにせよ祈ってる人だけを助けるなんて都合のいい人を救うとかそんなに神様とかって心が狭いんですの?

別にあなたの選択してやってることは自分で決めたところだから、ぼくは否定しているとかそういうことではなくて、むしろどうだっていい。

何より引っ掛かるのは、ぼくの幸不幸をなぜ会って間もないあなたが決めるの?おかしくない?

とかものすごーーーく端折ったけどそういうやりとりだったと思う。

世界平和とかSDGsだとか近年はいろいろ言われている気がするんだけど、ぼくの感じている違和感はその宗教勧誘に来た方とのやり取りに近い気がしてるんですよね。

他の人に自分の平和を押し付けていないか?

たぶんそれぞれの人に平和っていうのがあって、その平和をあまり侵害したり、干渉しすぎないようにするコトが全体的な平和につながるんじゃないかなと。某パンダがカンフーするヤツでも「内なる平和~」とか言っていた気がするし。

こう言うと「他人に無関心になれ」みたいな感じで受け取られたりもするとは思うんですけど、個々人で自分の世界を持っているので、自分以外の他の世界の存在を認識して認め合えたのであれば他者に寛容なだけであって、客観的にそれは無関心に見えてしまうのではないかと思うんですよね。

平和って自覚持ったら平和

そんなのもアリじゃないのかなぁってことで我家は平和であります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?