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マタイの福音書6章1〜13節 主の祈り②「本当の願いを満たす祈り」守谷教会キリスト教会礼拝説教要約 2024.5.14

今回は、神を呼びかける時に使う「父」という語に注目します。

イエスは主の祈りを教える時、
偽善者や異邦人のようであってはならないと言われました。

偽善者とは、信仰を持っている人でもあります。

しかしその人は自分が本当は何を求めて祈っているのかがわかっていません。

偽善者の祈りや断食の結果、
彼らはすでに自分の報いを受けているとイエスは言われました。

それは彼らが心の奥底で本当に求めているものは人からの賞賛であり、
プライドが満たされることだからです。

だから宗教的で慈善的な行為を人前でわかりやすく行うなら、
それを見た周囲からの反応によって、
その心の願いは達成されていることになるとイエスは皮肉を持って指摘しています。

また、異邦人とはここでは信仰を持っていない人のことを指します。

往々にして、
彼らは自分の熱心さや捧げる犠牲、
あるいは痛みに耐えることによって、
求めているものを得ようとします。


神が「父」であるという概念は、出エジプト記で登場します。

神はモーセをファラオの元に遣わして、
イスラエルを「わたしの長子」と呼びました(出エ4:22-23)。

イスラエルが、古代中近東の神々から父と名乗る神を選んだのではなく、
神がイスラエルを選び、救いの計画のための特別な民族として任命しました。

私たちが本当に願い求めているのは、ここにいて良いと納得できる理由です。

天の父よ、と目をあげて祈る時、
私たちが誇るのは、私たちを選ぶために犠牲を払ってくださったイエスの十字架です。

イエスは
「あなたがたがわたしを選んだのではなく、
わたしがあなたがたを選び任命し、遣わす」と宣言されました。

父である神と、
兄であるイエスがすでになさっているプロジェクトに加わるよう、
私たちは弟・妹として招かれています。

主の祈りを祈る時、私たちは聖霊の助けによってそこに加えられるのです。

そこには朽ちることのない誇りが与えられます。

主の祈りが、定型文であることは私たちへの贈り物です。
私たちの気持ちが沈み込む時であっても、
また1週間の中で1度も祈ることもできずに礼拝に戻ってきた時にも、
主の祈りは私たちに与えられています。

私たちは父に望まれて、この世界に生き、それぞれの場所に遣わされているのです。


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