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「神から離れたと思ったのに。」ヨナ書1:1-17 2023/10/22 守谷キリスト教会礼拝説教

私たちは現在、
自分が正しい側にいることを確かめなければ気が済まない社会に生きています。

SNSに投稿すれば、見た人の反応が気になります。

正しくないように受け取れる発言や、
そう見える人物にはみんなで石を投げることで、
自分はあの人よりはマシであることに安心します。

対立する主張は論破し、
正しさによって最も親しい人をも支配しようとします。

一方で、正しさの基準は多様です。

多様でありすぎる中で基準をなんとか見出そうとして、
私たちは相手を思いやれなくなっているのかもしれません。


ヨナは、自分は正しい側に立っていると考えていた人でした。

彼は北イスラエル王国のヤロブアム二世の時代に活動していた預言者です。

しかし彼にとっての正義は、
神に対する彼自身の態度さえも強情にしました。

敵国であるアッシリヤの首都ニネベに神の言葉を伝えにいくことを

ヨナは拒否して船に乗って逃げ、

大嵐にあってもなお、

彼はニネベに行くなら死んだほうがマシだとばかりに、
水夫たちに自分を海に投げ込ませました。

海に沈んでいく彼を大きな魚が呑み込みました。

このヨナ書を史実としてとるか、
実在の人物を主人公にした譬え話として解釈するのかは、見解が分かれます。

重要なのは、ヨナ書の著者が神について何を伝えようとしているかです。


魚の腹の中での祈りは、
ヨナが預言者として詩篇の知識を総動員して祈ったことをうかがわせます。

しかしこの後の展開も合わせて考慮するなら、
純粋な悔い改めではありません。

神がここで求めておられたのは、
9節にあるようないけにえではなく、
砕かれた悔いた心(詩篇51:16-17)だったのではないでしょうか。

ヨナ書の特殊なところは、最後まで主人公のヨナに劇的な変化がないことです。


大自然を支配する権威を持っておられる神が、
強情なヨナに歩みを合わせられます。

私たちもすぐには変われないかもしれません。

すぐには手放すことのできない想いがあるかもしれません。

しかしこの時点での祈りであっても、神は聞いてくださるのです。


イエスはこのヨナの話を引用され、
ご自分の十字架の苦しみを示されました(マタイ12:40-41)。

ヨナは祈りの前半で、自らの孤独を告白しています。

神なしの正義を振りかざす私たちが行き着く先は孤独です。

しかしイエスは、私の孤独さえも背負って十字架につかれ、
よみがえられたのです。

この方に信頼するなら私たちは失望させられることがなく、
私たちは確かに変えられ続けていくのです。


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