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【説教要約】 使徒の働き9章1~22節 「選びの器 ②」 守谷キリスト教会礼拝

迫害の急先鋒だったサウロが回心したことは、
当時の人々にとって衝撃的なことでした。

それまでサウロの仲間だったユダヤ人たちや、迫
害を受けていた人々はもちろん、使徒たちさえも例外ではありませんでした。

それほどまでに彼の回心は突然のことだったのです。


救いは、創造主である神の圧倒的な主権と選びによるものです。

私たちが教会に来るようになったきっかけや、
信仰をもった経緯はどれひとつ同じではありません。

この特別な選びを私たちも受け取っています。

パウロと同じように「選びの器」とされた私たちを、
神はそれぞれの場所に遣わして、ご自身の目的のために用いてくださいます。


人間が器であるというイメージは、
このような圧倒的な主権を持った神と被造物である人間との関係の、
一側面を表しています。


陶器師である神は、
器である私たちを選び、造り変え、
あるいは壊すことすらできるのです。

器は、陶器師に対して疑問を出すことができません。

しかし、私たちは自由な意思を与えられた器です。

自分や家族、親しい人が苦しみにあう時、
私たちは「なぜ?」と神に問います。

神の選びを信頼すれば、
全ての苦しみや痛みには意味があると考えられます。

しかし多くの場合、
実際の痛みの当事者が誰かからそのような励ましを受けたとしても、
納得し難いことが多いものです。

そして本人が「なぜ?」を追求しても、
神がそれに応えてくださることはほとんどありません。


イエスは私たちと同じ、
土の器としてこの世界に来られました。

十字架の上で
「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という叫びに対する
沈黙を経験されました。


しかし神は、彼をよみがえらせたのです。

復活のイエスはサウロに「なぜわたしを迫害するのか?」と問いました。

「なぜわたしの弟子を?」ではなく、
ご自身の選びの器だった弟子たちの苦しみに、ご自分を重ねられたのです。

「なぜ?」と問い続け、
苦しみに嘆く私をイエスは知っていてくださいます。

パウロにとって、その伝道生活で体験する苦しみは、
キリストの苦しみを共にすることでした。

だからこそ私たちには揺るがない希望があります。

神はイエスという器を、私たちの身代わりにして砕き、

しかしその器は最良のものとして再び取り上げられたからです。

私たちには、「なぜ?」を一旦手放すための最良の時があります。

イエスを見る時、
そのことが計り知れない神の御胸の中にあると信頼できるのです。


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