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マタイの福音書20章24~34節「目を開けていただきたいのです。」2024.3.17 守谷キリスト教会礼拝説教


「目が開かれる」という経験を、
人生の中で何度かしたことがあるでしょうか。

それまで狭まっていた視野が、新しい経験や見識、
気づきによって広げられることで「心の目が開かれる」ことがあります。

「心の目が開かれる」とは、
自分の立ち位置について正直に見る経験を言うのかもしれません。

自分がどういう状況に置かれているのか、正直に把握すること。
それが心の目が開かれるという体験だと思います。


では霊の目が開かれるとはいったいどういうことか。

それは、このみじめな私を救うことができるのは、イエスさまだけです、
と確信できるようになることではないでしょうか。

イエスに触れられて霊の目が開かれなければ、「いのちを失ってもそれを得る」というイエスの約束を確信することはできません。

エルサレムに近づくつれ、
イエスの一行に加わっていた弟子たちや群衆の期待は高まっていました。

彼らはイエスが新しい王国を建設し、
ローマ帝国から自分たちを解放してくれることを願っていました。

そのような高揚感の中で、ある種の政治ゲームが内部で始まっています。

自分たちの中で誰が一番偉いのかという議論です。

金持ちの青年がイエスについていくことを諦めて立ち去った時、
ペテロは言いました。「私たちは全てを捨ててついてきました。」

ヨハネとヤコブは母親と一緒に抜け駆けを図ろうとします。

弟子たちは子どもたちがイエスのもとに来ようとした時、叱りました。

かつて、病人や悪霊に憑かれた人、
障害を持った人をイエスのもとに連れてきていた群衆たちも、
イエスを求めて叫ぶ2人の盲人に対して静かにするようたしなめます。

それはあたかも、
異邦人の偉い人たちのように権力を振るっているかのようです。

どのようなコミュニティであれ、
所属する人たちは、
その内側の中心部や最も魅力的と思われる立ち位置に引き寄せられるものです。

しかしイエスは、
そのような席次争いをやめて、

仕える者になりなさいと言われました。

そしてイエスは「主よ、ダビデの子よ、私たちをあわれんでください」という
外側からの叫びを聞かれました。

そしてイエスご自身が彼らに仕える者となって、

何をして欲しいのかと聞かれたのです。

彼らは目が開かれることを願いました。

私たちは受難週とイースターを前にしています。

仕事や家庭において、今私たちを夢中にさせている目標はあるでしょうか。

それがどのようなのものであれ、一旦イエス様の前にそれを手放してみませんか。

必要なのは、「私をあわれんでください」という、
無力さを認める謙遜な祈りです。

霊の目が開かれて、またもう一度その重荷をイエスとともに担って、
新しい1週間を歩めますように。


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