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世界平和

俺は「世界平和」という単語を、以前にも聞いたことがある。

「World Peace Coaching」というコーチングの祭典での思い出のことだ。
俺は昔、一時期コーチングにハマっていたことがある。

かつて俺が信奉していたのは苫米地式コーチングである。

苫米地式コーチングのコーチたちが一堂に介したセミナーは何度か行ったことがある。
その中の「World Peace Coaching」は思い出に残っている。
苫米地博士が「世界平和」を掲げて戦っておられ、博士を信奉する彼らもまた
「世界平和」を目指している戦士たちだった。

スケールが凄まじすぎるが、博士の熱量はガチなんだと伝わってきた。
俺もこの中の仲間に入れて欲しいと思ったもんだ。

…それだけに、社畜でやりたくない仕事をやって自分の心を殺しながら会社に居続けている
俺の現状がやるせなかった、何とか現状打破してこっから出てやろうと
画策して足掻く毎日であった、というのを思い出す。

コーチングというのは21世紀になり出してから流行し出した、
目標達成技術のことである。

トラストコーチングとかNLPコーチングとか、コーチングにしても実にたくさんの種類がある。
いろんな会社で組み込まれている「7つの習慣」とかもまさにコーチングであろう。

ここまでコーチングが爆発的に普及したのも
実際にコーチングをしてみて効果を体感した人間が圧倒的に多い証拠、と言える。

なんでコーチングに惹かれたかというと、
かつての俺の同僚がコーチングを学んできた人間で、
彼のコーチングを受けて、俺は家と会社を行ったり来たりの人生から脱却できたからだ。
彼のコーチングなしでは、俺はこの場にはいられなかったはずだ。
ずっと同じ会社でモヤモヤムシャクシャしながら
同じ仕事を同じ人間とずっとずっとやっていたに違いない。

そんな俺が自己肯定感が大幅に向上して
ライフスタイルを格段に向上できたのはコーチングのおかげと言える。

自分が大きく変わったのはコーチングを通して体感したから、
というのもあって、俺もコーチングの道を歩みたいと思った。

コーチングがあれば世の中も変わるだろうというふうに思っていた。

コーチングの何が良いかというと、相手を否定せず、
相手のゴールを引き出す手法にある。
コーチが作り出す空間というのは、異常なまでに居心地が良いのだ。
空間操作能力というのかな。優秀なコーチはその能力があまりにも優れていた。
ずっとそこにいたい、と錯覚させるほどの居心地の良さがある。

コーチと話しているだけでもコーチングになり、自分のゴールへと加速前進していくのだ。
またチームビルディングにも非常に使えるスキルなので、このスキルがあると結構汎用的に立ち回れる。

コーチングを学んでいた時、TPIEとPX2というコーチングプログラムを学んだ。
PX2というのは教育関係者向けに作られたコーチングプログラム。

自分が変わることが体感できたコーチングを学ぶ意欲はあったが、
それは1年でとどまってしまった。

理由は単純に、学ぶにおいてあまりにも殺人的高額だからである。

当時の俺の年収の遥か上をいくセミナー代金。
その代金を、俺の給料から捻出することができなかった。

金に関するゴールも年収いくらが欲しい、と作ったのだが、
その当時の俺が出来得る方法の中では、途方もない金額すぎてついていけなかった。

スモールスタートでチョットずつやっていく、という考えもあったが、
そこに至らず次から次へと新たな情報が入ってきたこともあって着手に至らなかった。

また、起業塾に入ったこともコーチング活動にトドメを刺すことになった。

「コーチングがしたい」と言ったのだが、メンターからは
「コーチングの世界はレッドオーシャンだから無謀」と言われた。
レッドオーシャン、つまり競合他社がたくさんいる業界だということだ。
だから起業するならニッチな分野で勝負しなくてはならない、ということである。

確かにコーチというのは死ぬほどいるので、まぁ至極真っ当なご意見である。
よく振り返ってみると、異業種交流会というのは、何とかコーチっていたくらいだ。
どんな形であれコーチと名乗っている人が圧倒的に多い時代背景だったのだ。

コーチングの世界は、自分と同じ商品を持っている人間があまりにも多すぎるのだ。
メンターも、過去にコーチングでやっていきたいという人を何人も見てきたのだろう。

確かにコーチングだけで生計を立てている人がどれだけいるかで言えば、そうそうおるまい。

さらに言えば、コーチングを学びにいくにしても費用がバカ高いし…
費用を言い訳にしてしまっているが、俺のコーチングスキルが
所詮は本で会得した程度しか身についていないのも事実。
そう慮った俺はコーチングの学びを諦めることになった。
自力でコンテンツが作れるならそれで良し、と言うことにした。

というふうに、何かと理由をつけてコーチングを学ぶことを諦めてしまったわけである。

納得はしたつもりなのであるが、どこか納得に踏み切れない、そんな心が弱い自分もいた。

俺自身諦めきれない気持ちがあったのかもしれない。
それは今ですらも思うところはある。
コーチングスキルがあれば収められる事態がいくつもあったであろう。

もしかしたらブレてばかりの自分の芯も、しっかりしたものになったのかもしれない。
そう思うと、諦めきれない部分もあったのも事実である。

俺の人生で言えば、要所要所で諦めてばかりだった。いろんなものを諦めてきた。
コーチングもその中の一つだ。

諦めたことを悔しいと思ったことはいくつもある。
コーチングもその中の一つだ。

俺がコーチングを諦めて悔しいと思った理由としては、
コーチングが相手を下げない、かつ居場所を創出する雰囲気が好みだったから。
そして僕自身、生まれてからずーっと尖った性格であるが故に、
人生のどこに行っても居場所がない人生ばかりを過ごしてきた。
俺がこの世のこの場にいてもいいと思える安心感を構築できるスキルが羨ましいと思った。
居場所を提供してくれるような安心感が本当にありがたかった。

コーチングの人たちは世界平和に向けて活動しているという。
俺は志半ばで諦めてしまったし、
舞台こそ違うが、世界を思う気持ちは一緒だと思っている。

ベクトルが変わってくるが、「諦める」ということに関しては
いろんなところで突きつけられると思う。
諦めるべき正当な理由があるものもあるだろうが、
自分が譲れないと思ったものがあるなら、
それはどうか挫けずにやり切ってほしいと思うね。


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