見出し画像

形而上学から見る「人間」という定義の話


「俺はブラック企業をやめるぞ!XXXXーッ!!」
ってFacebookにぶち上げたその昔、

当時の「友達」たちから、こぞって自分のビジネスのイベントや、
宗教、ネットワークビジネスに誘われたりしたことを思い出します。

それくらいお金とか階級というものが好きだったのです。
「人間」らしいよね。

 ・・・・・・・・
「おれは人間をやめるぞ!XXXXーッ!!」

「人間やめろ」って言われた人間の話

あるヒーラーさんに「人間やめろ」なんて言われた。

その当時、私はスピリチュアルにそこまで興味関心もありませんでした。
気功とかのエネルギーワークの延長上のものでしかないと思っていた。

あなたなら、知り合ってそこまで親しくなってない人に
唐突に「人間やめろ」なんて言われたらどう思いますか。

たとえ神様からのお告げだったとしても、受け入れ難かったものがありました。

だから、後にも先にも「人間やめろ」なんて、
んな厳しいこと言われたヒーラーは自分だけかもしれない。

ま、それだけ私がだれよりも「人間」っぽかったんでしょう。

だれよりもお金に執着してるし、
だれよりも地位や名誉にこだわりがあるんでね。

当時はお金、名誉、地位を求める野心が強すぎた。
それこそが「人間」の「栄光」であり「勝利」だと思っていた。

「自分は他人と違う」というコンプレックス

私は人より成長速度が遅い方であると認識している。

人と会話したのが5歳になってからと比較的遅い経歴もあって、
何をするにしても他者よりも出遅れてきたこと、

「もしかして、自分は『普通』の人間じゃないのか??」

それが私にとってずっとコンプレックスでした。

会社にしても起業にしても、同じことを学んだ仲間うちでも
すでに独立して成果を上げている者もいる。

出世街道を着々と進んでいく同期連中や、独立起業で成功と、
先に成果を上げる仲間たちを横目に
私は仕事で会社の連中に足元をすくわれている。

そんな現状に「自分は何をやってんだ」と歯噛みをする。

現状に足を掬われる自分と、成果を上げてる誰かを
比べたって、そんなのは栓無きこと。

「自分と誰かを比べる必要はない」と思っていても、
そこは「人間」、思ってるだけじゃダメで
ドタン場では馬脚を表してしまう。

ユニバーサル・カバラを受けてた最中は、
そうした忘れ去ったはずの「負の感情」と向かい合うこともあった。

歯噛みすることもあったが、それも神らしくない自分を
すべてデトックスする過程と思えば、決して悪い話でありません。

「貨幣」「宗教」に囚われる「人間」

思えば私に近づいてきた人たちの多くは
私との友情を求めていたのでなく、
「宗教」とか「自分のビジネス」とかを推してくる目的の人ばかりで

そこに「愛」はなかった。

あるときはビジネスの売り込み、宗教の勧誘、そんなのばっかりだった。

「人間」がお金、階級に囚われるものの総称であるとするなら、
「人間」には「愛」がない。

私が浸水していた人の正体が、フタを開けてみると
「お金」や「宗教」の定義にとらわれた人であるケースも少なくなかった。

「推し」だと思った人が「実はハズレでした」というのが何度あったか。

         ・・・・・・・・・・・
形而上学を学んで、今みたいにやめたくなるとは思っても見なかった。

お金や地位、名誉に囚われるのが「人間」だっていうなら、
それをやめてやろうとなんて。

「会社を辞める」よりも先に「人間」であることをやめたい、
と思ったある日の一幕。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?