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猫とジゴロ 第五十二話

ユリを撫でていると何故だか優しい気持ちが戻ってきたが、吾郎のような奔放な振る舞いがない分、何となく物足りなさも感じた。女の子なんだからね。マダムが指摘していたように、何だか俺も変わってきたような気もする。例えば音楽。昔は音楽なしに生きられないっていうくらいにしょっちゅう聴いていた音楽だったのに、最近は全くと言って良いほど聴かなくなっていた。車さえ持たず、それでも物足りなさや違和感を覚えることなく暮らしている。

ユリと視線を合わせてみる。ユリは毛繕いをした後のように小さな口をクアンクアンと動かしている、まるで人間が喋るのを口の動きだけで真似しているように。「ユリも何かおしゃべりがしたいのかなあ。お前さん一体何が言いたいんだい?」ユリはもちろん何も答えない。真姿の池の弁天様で起こったあの体験から、俺の目はとても疲れやすくなっていた。しばらく上を向いて瞳を閉じている。それから視線をユリに戻した。何だろう。ユリの背後に何か美しいベールのようなものが見える。俺は目を擦ってもう一度ユリを見てみた。やはり何か見える。何だか人間のようにも見える。俺は精神を集中してもう一度ユリの背後に焦点を定めた。

少女だ、あれは間違いなく人間の女の子だ。髪の毛をおさげにしてこちらをジッと見ている。少女の顔に表情はないが、ただこちらを見ているだけというのとも違う。何かを伝えたがっていることが本能的に分かった。オレンジとピンクの中間、そうだなアプリコットっていうのかなあ、とても綺麗で可愛らしい色の光を纏っている。

そこへ斎藤さんが現れた。「斎藤さんよ、ユリの後ろに何か見える?」斎藤さんは「私にはリビングのソファーの焦げ茶色の生地が見えますが。アキラさん、何だか目をシバシバさせてお辛そうです。目薬をお持ちしましょうか?」「いや目薬って俺は苦手でね。一切使わないんだ。それただのドライアイだと思う。スマホの見過ぎだね。」斎藤さんには例のアプリコットのベールが見えない、俺の目がどうにかしちまったんだろうか。「なあ斎藤さんよ」と視線を斎藤さんに合わせた時のことだ。やはり斎藤さんの背後にも何か見える。パラフィン紙のような薄っぺらい光だ。斎藤さんの背後には暗い緑色、小学生の頃に使った絵の具で例えるとビリジアンだった。何なんだろう。俺はちょっと不安になって、「鏡を見たら俺の背後には何が見えるんだろう」、という純粋な好奇心も俺をせっついたが、やはり怖くて鏡を見るのはやめにした。

ユリがしきりに身体をスリスリ擦り付けてくる。去勢はしていてもやはりメスは雌なのかな。吾郎のしなやかな短毛の体と比較すると、まるで毛皮のコートをまとっているかのような貴婦人ぶりは、吾郎とは全く違う魅力だった。

ユリ、と話しかけるとニャアと言ってまた口をアングアングと動かしている。きっと何か伝えたいことがあるんだろう。俺はユリの身体を撫でながら「何か変化が訪れようとしている」という予感に、尻のあたりがむず痒くなっていた。