見出し画像

私の再生讃美論からあなたの再生讃美論へ

しろちゃん
https://twitter.com/Usoyade_Minna


はじめに

 本論文は、一度文章の舞台から降りた私がもう一度舞台に上がることを目的とする。そのために私の再生讃美論を紹介する。ここでの再生讃美論とは、『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を通して得た全てを指す。もちろん、これは観客によってそれぞれ違った論になる。本文での再生讃美論は私の作品に対する感想、解釈に過ぎないことを留意していただきたい。

考察

 本論文を書くにあたり多大な影響を受けた本がある。増田セバスチャン著の『世界にひとつだけの「カワイイ」の見つけ方』だ。きゃりーぱみゅぱみゅのMV やサンリオピューロランドのパレードで有名なアーティストである。が、彼のカワイイの中に毒を混ぜるデザインとスタァライトの間に共通点を見出し、私はこの論に至った。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の魅力も同じく、「私たちはもう舞台の上」や、「いままでにみたことのないキラめき」などのわかりやすいテーマの裏に相反するテーマがあり、それがスタァライトにおける毒になっていると考えた。本論文ではこの毒、つまり裏テーマに着目し、例を三つ紹介したい。

 舞台少女や舞台少女の持つキラめきは一見ポジティブで前向きなものに思える。しかし、キリンはその舞台少女の持つ熱を「近づけば燃えてしまうほどの熱。危険ですね……舞台少女とは。危険だからあなたたちは美しい。」と表現している。また、映画終盤では愛城華恋が神楽ひかりに対し「ひかりちゃん、きれいなのに怖い……」というセリフがある。この二つのシーンから読み取れるのは、キラめきが単に舞台や舞台少女の華やかな魅力だけを指すのではなく、その裏にある危うさや恐ろしさ、近寄りがたい何かをも内包したものであることだ。観客にとって未知である「舞台少女のキラめき」という概念が二つの視点によって分かりやすく表現されている好例である。

 舞台少女の持つ特性は他にもある。幼い神楽ひかりのセリフで「舞台の上ではどんな奇跡だって起きる。舞台の上では私はどんな私にだってなれるの」というものがある。しかし同時に、魂のレヴュー内のセリフに「(真矢)私たちは舞台を愛し(クロディーヌ)舞台から逃れられない……」というセリフの応酬がある。つまり舞台少女が舞台で生きていくこととは「舞台の上では何だってできるが舞台からは決して逃れることはできない」ということになる。これがキラめきの持つ恐ろしさや儚さの正体の一端なのである。

 映画では「私たちはもう舞台の上」というフレーズが何度も出ており、一番のテーマなのは言うまでもない。ならばそのテーマに相反するものとは何だろうか。私は「舞台を降りたら役作り」が舞台少女に与えられた裏テーマだと考えた。『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の主人公(主役、主演ではない)は愛城華恋であるが、愛城華恋は映画の序盤に舞台から降ろされた後、終盤まで舞台に上がらない。ならば何をしているのか。キリンは、華恋の居場所を聞かれたとき、「彼女は役作りの最中です」と言った。ならば「舞台を降りた舞台少女は役作りをしているのではないか」と考えた。たとえ本人が無自覚であっても舞台少女は舞台から逃れられない。舞台を降りようが役作りという形で次の舞台への道は続いていくのではないか。

 以上の三点から、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の魅力は、舞台少女や舞台に対するテーマに対比となる要素があり、映画の中にそれを入れることで深みが出ていると考える。また、その説得力が強烈で、設定やシナリオの枠を超えて観客に伝わることも、この作品の魅力である。

おわりに

 短い本文であったが私の再生讃美論(解釈)が読んでいるあなたに伝われば幸いである。再生讃美論をテーマに執筆したがあまり触れられなかったことは個人的な反省点である。今回冒頭に挙げた増田セバスチャン著の『世界にひとつだけの「カワイイ」の見つけ方』にぜひ興味を持たれた方は読んでいただきたい。特に「いい人を演じ疲れた人」にすすめたい。最後に、この舞台に、この舞台を用意していただき待っていただいた主催の方に、ここまで読んでいただけたあなたに、宇宙よりも大きい感謝を込めて。

参考文献

増田セバスチャン— 『世界にひとつだけの「カワイイ」の見つけ方』、―サンマーク出版、―2018

著者コメント(2023/7/31)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?