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この物語の、『語り手』/『観客』は誰か。 ~『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』の物語論的読解~

ちぇまだん
https://twitter.com/nachemodanakh


1.はじめに

 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(劇ス)は非常に稀有な作品である。観た人ならば、「何が起こったのかよく分からなかったけれども、何故か分かります」と感じたことに賛同するだろう。そして、まだ観ていない人に布教するために、あらすじを説明しようとして上手くいかなかった経験を持つ人も多かろう。逆にあらすじではなく、「テーマを一言で表すならば?」と問われれば、脳裏に“卒業”の2文字が浮かばない人はいまい。それもそのはず、劇スで通底して描かれているのは、人生の次の段階、「次の舞台」への通過儀礼としての「卒業」である。しかし、卒業をテーマに扱った作品など枚挙にいとまがない。では劇スは何が他作品と異なるのか、劇スを劇スたらしめているのは何か? この問いが本稿の出発点である。

 無論、古今東西の物語や絵画からの縦横無尽な引用や参照など、レヴュースタァライトに特徴的な部分を詳細に語る方法もあるが、特に突出した知識もないため他の論者に譲りたい。代わりに、ここでは木を見ることから少し離れて、俯瞰的に森を見てみよう。その手助けとして「物語論」を用いる。「物語論(ナラトロジー)」とは、1910年代の文学研究運動「ロシア・フォルマリズム」の影響を受けたロラン・バルトやジェラール・ジュネットなどが、1960~70年代に確立した物語の構造分析の手法である。簡単に言うと、「物語がどのように出来上がっているのか」を論じるのが物語論である(*1)。つまり本稿では、劇スの背景にある設計図を解き明かそうとしている。物語論には分析すべき単位が多数規定されているが、今回はその中で「物語の型」と「語り手」、そして「視点」を扱う。構成としては、まず劇スの物語の類型を同定する。次に、その物語は誰が語っているものなのかに関して、個別的な事例を見ていこう。最後に誰がこの物語を視ているのか、そして誰が視られているのかを検討する。


*1 物語論の定義に関しては、橋本陽介『物語論 基礎と応用』(講談社、2017)、同『ナラトロジー入門: プロップからジュネットまでの物語論』(水声社、2014)を参照。

2.「この物語」とは何か

 劇スのキャッチコピーは「この物語の、『主演』は誰か。」である。「この物語」とはいったい何のことを指しているのか。単純に劇スという映画作品だけなのだろうか。まず大前提として、TVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(TV版)と劇場版再生産総集編『少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド』(ロロロ)の2種類の物語も、劇スを構成する重要な物語である。そこでは悲劇『スタァライト』になぞらえ、「必ず別れる運命」は不可避なものなのかというテーゼが問われる。TV版では脚本をリライトし、「終わりの続きを始め」たことで予定された運命を回避できることを示した。一方、ロロロでは終わりの続きの先に「舞台少女の死」という新たな別れが訪れることが追加される。これらをプレリュードとして、劇スではこの「舞台少女の死」の運命に抗うことに中心議題が置かれる。それをどのように語っているのかを考えよう。

 劇スの中には「物語」が数多く含まれているが、ここでは「個人の物語」と「関係性の物語」の2通りに分類して検討する。まず「個人の物語」は序盤の進路指導のシーンで示されるような、九九組各人の来し方行く末を描いたものである。しかしこれは今作においてあまり前面には出てこず、具体的にも明示的にも表されるものではない。それ故に、次項で詳しく検討するとして、ここでは劇スの中核を成すもう一つの分類に注目する。

 もう一方の「関係性の物語」には、個々人同士の交流によって生まれる物語が該当する。通常多くの群像劇では、「関係性の物語」はダイアローグの中に複雑に組み込まれるものであり、一つ一つ分類することは難しい。しかし劇スにおいては、レヴューというシステムによって、個々が独立して並列されている。例えば、花柳香子と石動双葉の「関係性の物語」が「怨みのレヴュー」であり、天堂真矢と西條クロディーヌにとってのそれが「魂のレヴュー」であるといった具合である。B組に所属する眞井霧子と雨宮詩音にも、「第101回聖翔祭の大決起集会」という形で「関係性の物語」が割り振られている。

 では、「関係性の物語」がどのような構造をしているかを考えてみよう。レヴューでは、塔が全てを貫くモチーフとして登場し、登場人物はそこからの落下と上昇を幾度となく繰り返す。古川監督が「パース変動の無い上下の動きがアニメの作画上難しいものではないことから取り入れた(*2)」と述べているように、もともとは制作上の理由によるもののようだが、これによって『レヴュースタァライト』では垂直方向の動きが強烈な印象を残している。この動きは作中で「再生産」を表すモチーフとして登場することが多い。それぞれのレヴュー内での役割を考えると、「再生産」とは登場人物が自分の殻を破って成長する場面だと定義することができるだろう。さらに踏み込んで解釈するならば、「行きて帰りし物語」の亜種と見ることもできるのではないだろうか。

 「行きて帰りし物語」とは、J.R.R.トールキンの『ホビットの冒険』の副題である「There and Back Again」の瀬田貞二による訳だ(*3)。これは『オデュッセイア』などの神話的叙事詩の時代から何度も用いられてきた物語の型である。ごく簡単に説明するならば、登場人物が非日常的な体験を通じて成長して日常に帰還するというものである(*4)。「行って帰る」という言葉から連想されるように、通常は水平方向への移動を伴うことが多い。「落下アニメ」である『レヴュースタァライト』と一見相性が悪いように感じられるかもしれないが、劇スでは一部水平方向の移動が取り入れられているシーンもある。その最たる例が、終盤、ポジションゼロになった華恋が電車に乗って砂漠の中を爆走する場面である。古川監督の言うように、線路と電車がシネスコ画面と相性が良い。加えてこのシーンでは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のイメージが引用されている。引用元の作品でも、「行きて帰りし物語」を下敷きにしていること(*5)は大変興味深い。

 劇スではさらに、この「行きて帰りし物語」のモチーフをもう一捻りしている部分がある。それは日常と非日常の逆転である。作中では、登場人物のあるべき姿、目指すべき姿として「舞台少女」という語が用いられる。TV版から何度となく定義されてきた語であるが、今作ではキリンによって「普通の喜び、女の子の楽しみを捨て演じ続ける」存在として位置づけられている。逆に、「舞台」に立つことをやめ、「セリフ」を口にしていない状態は「舞台少女の死」とみなされる。このように演劇用語が用いられていることから、日常よりは非日常に属するモチーフによって「舞台少女」が描かれていることが明らかだ。また、再生産を経て戻ってくるべき場所は「舞台の上」とされる。視覚的にも、「舞台の上」は抽象的で非日常的なもので溢れかえっている。しかし、ただ日常と非日常が逆転しているにとどまらないのが劇スの凄味である。あくまでモチーフとして非日常的なものが用いられているだけであり、「舞台少女」の本質は自分の生き方との向き合い方にある。「舞台少女の死」が問うてくるのは、きちんと自分の人生に向き合って、自分の責務を全うする覚悟があるのかということだ。抽象的で高次元な非日常の様相を身に纏いながらも、日常に根差した本質が存在している。捻りが加えられてはいるが、観客自身の中にある物語の枠組みで捉えることが可能になっている。


*2 『「痛感したのは、映画への敗北感」“体験型エンタメ” 『劇場版スタァライト』古川知宏監督が明かす、シネスコ画面の裏側』(2022/01/15)MOVIE WALKER PRESS記事p.2より引用。https://moviewalker.jp/news/article/1064939/p2(最終閲覧日:2022/04/17)

*3 瀬田貞二『幼い子の文学』(中央公論社、1980)

*4 キャンベルによると英雄の神話的冒険のたどる標準的な道は、通過儀礼が示す定型である、「分離、イニシエーション、帰還」を拡大したものである。ジョーゼフ・キャンベル『千の顔をもつ英雄〔新訳版〕上』(倉田真木・斉藤静代・関根光宏訳、早川書房、2015、p.54)

*5 映画『ジョージ・ミラー:FILMMAKERS/名監督ドキュメンタリー<映画制作の舞台裏>』(ワーナーブラザーズ、2022)を参照。

3.「語る」という行為、その主体

 ここまで全般的な劇スの物語の大きな構造を見てきたが、ここからは個別の具体的な現象を検討しよう。まず劇スの「語り手」の問題に関して。物語論の考え方では、必ずしも語り手は主人公を意味しない。例えば『シャーロック・ホームズの冒険』の語り手はホームズではなく、友人のワトソンである。さらに、いわゆる三人称視点の小説など、語り手が作中人物ではない場合も存在する。つまり語り手とは、特定の視点に立って物語を語る存在のことである(*6)。

 一方、文章で書かれた小説とは異なり、「客観的な」映像作品では語り手の存在は非常に見えづらい。しかしどんな物語にも特定の視点が設定されており、意図的に(もしくは無意識的に)情報が制限されている。『レヴュースタァライト』では語り手をどのように設定しているのかを考えていく。

 TV版では他の多くの作品と同様、主人公である愛城華恋を主軸としながらも(*7)、エピソードごとに語り手が交代する形式を採っている。しかしそれだけではなく、全てを見通す神のような視点を持つ存在を作中で可視化させたことが新鮮であった。それがオーディションの主催者のキリンである。日常パートにはほとんど出てこないが、レヴューパートでは登場人物たちを客観的に見つめて視聴者に提示する語り手としての役割を担っていた。

 そして、ロロロではTV版以上に明確に、大場ななという語り手が設定された。大場ななとキリンのやり取りが付け加えられたことだけではない。例えばTV版第2話で華恋が純那に「じゅんじゅん」という愛称をつけたにも拘かかわらず、ロロロではそのシーンが完全になかったことにされているなど、物語の描写が大場ななの意図や視野によって操作されているという見方もできる。

 それでは劇スではどうか。前者2作品に比べて、一貫する視点は見受けられない。そもそも冒頭でキリンは物語が始まったか否かということすら把握できておらず、依然他の登場人物に比べればメタ的な存在ではあるが、TV版時のように特権的な地位は有していない。前述したように、劇スは「個人の物語」と「関係性の物語」の2 種類の物語が折り重なってできている。この分類を補助線にして考えてみよう。

 『レヴュースタァライト』の特徴の一つとして、口上の存在は絶対に欠かせないものだ。この作品において口上を述べることは、任侠映画でいうところの「仁義を切る」行為に等しい。つまり初対面の人に対する挨拶の儀礼様式であり、自分の所属や出自を保証するためのものである。さらに、「個人の物語」を短い文言に凝縮させたものとして捉えることもできるのではないだろうか。古川監督は口上を「『己の在りか』を叫んでいる」ものと表現している(*8)。まさに今の自分、これからの自分を表すための「個人の物語」を紡いでいるのが口上なのである。まひるの口上を例に採ると、TV版では

「キラめく舞台が大好きだけど キラめくあなたはもっと好き まわるまわるデュエットで ずっとふたりで踊れたら 99期生露崎まひる ずっと側にいたのは 私なんだよ」

となっており、まひるの物語は華恋ありきになっていたことが仄めかされている。だが劇場版では

「キラめく舞台が大好きだから キラめく自分を目指してまっすぐ 99期生露崎まひる 夢咲く舞台に輝け私」

へと変わり、華恋やひかりへの気持ちを整理し、自分の人生に向き合おうとしていることが窺える。ここでは具体的にまひるの物語を示すことはしないが、口上の変化を追うだけでもキャラクターの成長を読み取ることが可能である。ほとんど全てが「関係性の物語」で構成されている今作において、口上は端的にかつ、的確に「個人の物語」を言い表したものであるため、より観る者の心に刺さるのである。

 次に「関係性の物語」に関して。劇スのレヴューはTV版のキリンが用意した舞台とは異なり、「甘かった自分にケリをつける」ために各々が用意した舞台である。どちらかが舞台を設定し、もう一方が舞台に呼び込まれるという構図になっている。一見、設定した側が語り手の役割を果たしそうにも思えるが、劇スではそうはならない。先にも述べたように、語り手とは「特定の視点」のことであり、語り手が有する情報以上のものは観客には与えられない。レヴューで呼ばれた側は、何故相手が怒っているのか、何を不満に思っているのかよくわからないと述べていることが多い。「怨みのレヴュー」では双葉が、「競演のレヴュー」ではひかりが、そして「狩りのレヴュー」では純那がそうだ。そして観客にもその舞台が用意された理由は最初わからず、レヴュー内での会話やレヴュー曲の歌詞を通してようやく理解することができる。つまり、「関係性の物語」の語り手はレヴューに呼び出された側であると考えることができる。

 しかし、この構造に則っているようで実は異なるものがある。それは劇ス全編を通して描かれる華恋とひかりの「関係性の物語」だ。華恋とひかりはシステマチックなレヴューのシーンがほとんど描かれず、過去の回想が関係性を表す手段として用いられている。しかし、回想シーンとして一括したくなる過去の断片たちをよく見てみると、微妙に語り手が異なっていることに気付くだろう。

 まず華恋とひかりの出会いを描いた最初の回想シーンは、ひかりの現在を描いた場面からシームレスに始まる。ここでは華恋の引っ込み思案な性格が強調されているが、ひかりにとっては何を考えているのかがあまり見えてこない存在でもある。この回想シーンの語り手はひかりであるといえるだろう。しかし、この後の回想シーンは最初のものとは異なる。約束を交わして別れた後は、華恋の視点に固定される。これらは「皆殺しのレヴュー」前後の電車で、ななに「自分だけの舞台」を見つけるように言われた華恋が、自らの思い出を遍歴する過程を意味しており、それ故にこの回想シーンの語り手は華恋である。以上のように、華恋とひかりの「関係性の物語」には2人の語り(視点)が入っている。これは、この物語の強度をより高めると同時に、この「関係性の物語」が劇スの中でより重要な位置を占めていることも示す。


*6 ジュネットは視点という言葉に固有した「視覚性を払拭すべく」、「焦点化」という術語を用いて説明している。ジェラール・ジュネット『物語のディスクール方法論の試み』(花輪光・和泉凉一訳、水声社、1985、pp.217-227)

*7 劇スでは華恋の過去のエピソードが描かれたことで、ひかりが王立演劇学院に入学していたことを知っていたにもかかわらず、TV版第1話の段階でそれを知らないふりをしたことが視聴者に明かされた。後に提示された物語によって、純粋で親切な語り手から故意に情報を制限する「信頼できない語り手」に変化した珍しい例ではないだろうか。「信頼できない語り手」についてはウェイン・C・ブース『フィクションの修辞学』(米本弘一・服部典之・渡辺克昭訳、書肆風の薔薇、1991、pp.206-207)を参照。

*8 「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト監督・古川知宏インタビュー③」(2021/06/17)Febri 記事参照。https://febri.jp/topics/starlight_director_interwiew_3/(最終閲覧日:2022/04/17)

4.幽霊からキリンへ:「視る/視られる」関係

 映像という視覚メディアにおいて、「視ること」と「視られること」は大きな意味を持つ。観客という視る人が常にいる以上、画面上には基本的に視られる人しか存在しないことになる。だが劇スに関しても同じことがいえるのだろうか。この項では、そんな「視る/視られる」関係について深めていく。

 「魂のレヴュー」は、「視る/視られる」の粋を集めたシークエンスである。このレヴューの舞台は文字通り“劇場”であり、真矢とクロディーヌが舞台上に立っているところから始まる。つまり2人は共に観客から視られる存在である。しかしACT Ⅱに入ると、舞台人役の真矢は客席へと移る。つまり「ライバル役を演じる」クロディーヌを圧倒的高次元から視る観客の立場へと変化している。ただこの時にも、真矢は優位に立っているということを示しているだけで、役者として視られることは決して忘れない。真矢が視られ、そして魅せる存在であることを表すモチーフとして額縁が登場する。額縁は美術館において、ただの絵画を視られるためのものにする装置である。額縁の中に入っているものは必ず視られるものになり、同時に観客を魅せるものになるのだ。「魂のレヴュー」は、真矢とクロディーヌが額縁越しにお互いに剣を交えて決着する。常に視られるだけの存在であった真矢が、額縁の中に入っているクロディーヌに「魅せられる」ことで、初めて首席とライバル役の次席から、真に「二魂一体の仇敵」へと変化するのである。

 次に、もう少しメタな視点を導入しよう。映画や舞台演劇における「視る人=観客」は、本質的にどのような存在なのだろうか。評論家の佐々木敦の言葉を借りるとこのように表すことができる。

「視ているのは誰か? この問いには、実はもっとシンプルな答えがある。視ているのは他でもない、私たち観客である。……作品を視るとき、観客は幽霊化している。それは……映像の内部の住人になることではない。まったく反対に、映像の絶対的な外部にあるしかない自らの宿命を思い知らされることなのだ。」

佐々木敦『この映画を視ているのは誰か?』(作品社、2019、pp.30-31)

 佐々木は『ブンミおじさんの森』などで知られるアピチャッポン・ウィーラセクタン監督作品に関してこのような見方を示しているが、これはどの作品にも当てはめられる普遍的な理論である。つまり基本的に、舞台上や画面の中で行われていることに観客は干渉できないし、向こうから干渉されることもない。観客は暗黙のうちに、そのことを認識し、絶対安全圏からただ視ることに集中する。しかし、稀に演者が第四の壁を越えて観客へと語りかけることがある。舞台の理を捻じ曲げるような行為であるが、観客は暗黙の了解を無視されることになり、有り体に言ってしまえば驚くのである。リスキーではあるが、上手くハマった時の効果は絶大だ。

 ところが『レヴュースタァライト』では、観客役が物語内に登場する。それがキリンなのである。オーディションの主催者という役割を兼任しつつも、基本的には見守ることに徹している。その段階で物語世界の外にいる我々観客は、キリンのことを作品世界でも他の登場人物よりも高次元な位置にいる存在として認識することが可能である。それ故、TV版第12話でキリンがカメラに目線を向ける場面では、驚いてしまうと同時に妙な納得感が伴う。しかし劇スではさらに踏み込んだ状態で、第四の壁を乗り越える場面が登場する。しかも2度も。

 1度目は大決起集会での大場ななである。A組の皆が渡された脚本をそれぞれに読み上げ、舞台に立つ覚悟を改めて自覚するという流れの最後に、真矢が「私たちはもう舞台の上」と口にする。それを受けて大道具である塔の書割かきわりの後ろに立つななが、明確にカメラと目を合わせる。しかしTV版やロロロを経た観客にとって、なながキリンとほぼ同次元にいることは了承済みであろうから、これまた驚くことに変わりはないが、まだ想定
の範囲内である。

 2度目は「最後のセリフ」の直前の場面での華恋とひかりだ。カメラ目線になるだけでなく、明確にカメラの向こう側の存在、つまり観客の存在に言及する。この時の驚きは前者の比ではないように思われる。物語とその観客という関係において、一体何が起こっているのか。劇スは「“劇場”でしか味わえない{歌劇}体験」と銘打っているように、映画館で見ることを想定して作られている。映画館は画面に集中するように、つまり視ることに集中できるように、他の情報が排除された空間である。テレビの前とは異なり、映画館に足を運べば否応なしに観客になることを強いられる。その状態でキリンでもななでもなく、物語内のより低い次元にいたはずの華恋とひかりが我々観客を視て、言葉を投げかけるのだ。視るだけの幽霊であったはずの観客は、そこで視られる存在となって、強制的に物語空間へと引きずり込まれ、舞台に上げられてしまうのだ。しかしそこで湧き上がる感情は恐怖ではない。絶対的な外部ではなかったと思えることに、喜びと興奮を感じることができる。我々にも舞台に火を灯すという役が割り振られていたのだ。

5.おわりに

 以上で検討したことをまとめて、冒頭の問いへの答えとしたい。劇スは語り手が多様かつ複雑で、シーンごとに拠り所になる目線が変わっていく。さらに観客と作品の間に存在している暗黙のルールすらも破壊し、観客に一定の混乱と興奮を届けてくれる。だが観客を置いてけぼりにする気はさらさらなく、神話的な物語類型を下敷きにしながら、高度に編み上げられたレヴューというシステムで以て、至極普遍的なテーマの物語を紡ぎきっている。“時間や空間を手玉に取り、気の狂ったようにぶんぶん飛び回る軽薄だが、機知に富み深遠で極上なエンターテインメント”に他ならない。一見、理解するのが難しいようでいて、実は体験としても物語としても存分に楽しめるように計算し尽くされた作品である。だからこそ、真正面から向き合えば必ず受け取れるものがあるのだ。

 画面の中で起こっていることは観客にとっても決して他人事ではない。なぜなら、我々も舞台に火を灯すための燃料であり、また視られる存在として舞台の上に立っているのだから。「私たちはもう舞台の上」。どんなに怖くても、自分にピッタリ合う未来が待っていると信じて、次の駅へと向かおう。「舞台少女」なら、きっと大丈夫。

著者コメント(2022/10/10)

ちぇまだんと申します。劇スを機に初めてTV版を視聴したところ、すっかりスタァライトのキラめきに目を灼かれてしまい、これまで見てこなかったことを痛く後悔しました。それ以来ずっと頭の片隅から、九九組や眞井さんや雨宮さん、キリンのことが離れなくなり、考え続けてしまうようになりました。ここまで深く深くハマってしまうことは、滅多にないことでした。執筆に際して劇スを何度か見返すなかでも、大決起集会や競演のレヴューで毎度涙をこらえきれない状態になってしまいました。劇スに出会えたこと自体が僥倖であり、人生の岐路に立つたびに戻ってくることになるでしょう。この作品の面白さ、素晴らしさを自分の言葉で書き留めたいという思いが企画に参加した契機ですが、生来引っ込み思案な私を奮い立たせてくれたのは間違いなく劇スのおかげです。拙稿が、読者諸賢にとって劇スの新たな魅力の発見に繋がれば幸甚です。

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