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【ドラマ】学ぶとはこういうことなのだ

突然ですが自分、朝ドラ勢です。
新しい登場人物が放送中に続々解禁になるので、
「贔屓の誰かがいつ突然出てきても話が百パーわかるように」見てます。
なんて奴だ。
今期は主役が主役なので古巣からこう、バーター的な何かがないですかって
ずっと思ってるので…そろそろ誰か来てもいいよ…

朝ドラ。
自分はスカーレット後半からの参戦(竜也君が見たかった)(ブレない)なんですが、
ここ数作は、「視聴者の意識改革を目的にしてる部分あるな」
と感じています。
でも、反省会タグが盛り上がる様子を見ていると
「ああ…伝わってないんだな…」と悲しくなるんですよね。

例えばおかえりモネだったら「災害被害者は必ず立ち直る強い姿を見せなければならないなんてことはない」「夫婦は必ずしも同居して人生を共にしなければならないわけではない」だったし、(これは割合伝わってた気がしますが)
カムカムエヴリバディだったら「実質上の世帯主(稼ぎ頭)が妻であってもいい」「長く付き合った相手と結婚しない人生だってある」だし、
ちむどんどんだったら「自分のやりたいことをひたすらに追及する生き方をする女性がいてもいい」「非を犯した人間が後ろ指さされずに生きていく場所が存在してもいい」だったし、
舞いあがれ!だったら「最初に抱いた夢を追い続けるのに寄り道をしてもいい」「家業を何よりも優先する価値観もあるのだから多様性として認めよう」だと思う。

わたし個人はちむどんどんが好きなんですが
あれは「社会的包摂」の話なんですよ。

こちらのnoteがとても詳しいのですが。
「#ちむどんどん」を読み解く鍵=「社会的包摂」と「沖縄コミュニティ」|大里 宰久|note

それを含めて多分、全部「多様性の尊重」なんですよ。
視聴者はそれを、朝ドラを通じて「こういう価値観もあるんですよ」と突き付けられている。
それを許せないなら、反省会とか言って自分の価値観で断罪するなら。
多様性の尊重なんて、口だけで言っても社会は追いついてないな~とどうしても思ってしまう。

そして今回の「らんまん」。
今日の蘭光先生と万太郎君のやり取りを見ててすごい!と思った。

学びってこれなんですよ。
自分が知りたいことに辿り着くためには何が必要か。
それが学びの動機づけになる。

ドラゴン桜2で、桜木先生が健太君に「お前が知りたいことは全部ここにある」と洋書を突き出す⇒辞書を読み込んで英文で手紙を書きだしたくだりをちょっと思い出しました。
(健太君はおそらくサヴァンなのでちょっとまた別格だし、エンタメ的な味付けも大いになされているとは思いますが)

しかし地図やら本やら天球儀やらをドバァー!と持ち込まれた時の
こどもたちのいい顔と言ったら。
「なぜ学ばなければならないのか」が、「将来の国のため」とかそういうボンヤリなものではモチベーションも何もないよな。

21世紀になってもこれはあんまり変わらないと思ってます。

なぜ学ぶのか。自分は何が好きなのか。
この二つがつながったときに、人は本当に学べるんだと思っています。
個人が学ぶ分野には偏りがあるかもしれないけど、そもそもそれぞれの人間の興味がみんなバラバラなんだから100人集まったらそこそこの集合知じゃん、と思うのだ。

しかしあの描写、あからさまな講義形式の学びの否定⇒自発的な学びの肯定になってて
「え、NHK、思い切ったことを…」
と思ってしまいました。大丈夫か。
モチベーションがはっきりしてからなら意味がある、ような描き方にはなっていたのでいいのか。いいか。大学だって講義形式だもんな。

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