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Gutsヒロのスイーツ・ストーリー「夢からの輝く未来篇」

こんにちは、Gutsヒロです。「Gutsヒロのスイーツ・ストーリー」へようこそ!私のブログに来ていただきましてありがとうございます!この記事を見た方には興味を持って頂ければ幸いです。

スイーツ・ストーリーもいよいよ終盤です。ここまで読んでいた方々、これから読む方、皆さん。私の話に付き合って頂きましてありがとうございます。本当に感謝でいっぱいです。



1. 「仕事」、「夢」そして。「健康」の均衡



調理師専門学校を無事卒業し、就職することになりますが、ホワイト企業と言われ私の障害の配慮や働きやすい環境を保障すると約束され障害者枠雇用として就職しましたが、その仕事の内容は異常までの仕事の量とひどい内容でした。

私の基本となる仕事は、仕上げ作業といってスポンジやタルトなどの土台にクリームや飾りをつける作業でした。しかし、その数は毎日30〜40台前後のケーキを仕上げる量でした。その一方、勤務外でのYouTubeの動画作成やSNS更新、更に職場では練習禁止というルールがあって家での練習、そして商品開発をやりました。残業しようものならチーフが「タイムカード切ってから作業してくださいー。」って言うほどでした。

商品開発ではある企画のモンブランを作ることになったのですが、担当がチーフと
10年目従業員と私でした。チーフと10年目従業員は形にならず早々に断念し、私は、専門書を買ったり何度も家で試作し、知恵を絞って開発に成功しました。特に採用された点が冷凍できた点とサクサクのメレンゲが何日も保つ方法を独自で開発できたことが採用へ大きく影響されました。そして、そのモンブランは毎週100個売れる大ヒット商品となりました。コロナ禍となりインターネット販売もしたので更に売れました。しかしながら成果を生むことで仕事量(家での作業)が更に増えていきました。

私は職場に新しい風を吹き込む存在だったためとにかく働いて、家でも働きまし
た。またこの会社では練習をはじめレシピ作成、試作は自宅でやる指示だったので自腹で負担する費用は多くて大変でした。
しかし、職場は忙しくなる一方で改善は1つもされませんでした。健常者のスタッフの2人が後々精神疾患で退職するほどでした。そして更に忙しくなり私も体調の心配をするようになりました。私は障害者雇用として入ってましたし配慮も必要でした。仕事はやりがいも楽しさもありましたが、さすがにキャパシティの範疇を超えて主治医から改善するように提案を受けました。私だけでは環境を変えるのは難しいということで病院のスタッフ2人が会社に来てくれて、部長2人と面談することになりました。病院スタッフは会社のやっていることと私がやっていることに改善を求めました。すると部長が「会社のことに口出しするんじゃない!」「うちは支援事業じゃないんだよ!」と言われ、話はそれで終わり、改善を試みたのですが無理だったのです。
しかし、その激怒した部長はかつて就職する前には、私に「一生守っていく」と言っていたのにもうその言葉は微塵もありませんでした。その後、私はすぐにお菓子作りから外され、裏作業に回されました。そして、コロナ禍が始まった頃に従業員の削減が始まり、私がやっていた裏作業は4人でやっていたにも関わらず、私一人だけで作業をすることになりました。仕事はハードでした。1つでもミスしたら全部署に謝罪メールを送らないといけなかったり、定時時間になったらタイムカードを切らないといけなくて残った仕事があればボランティアで作業をしていました。

そして、それが半年続きました。当然、改善やヘルプも求めましたが全く相手にしてもらえませんでした。しかし、お菓子の商品開発は指示され帰宅後や休日にレシピ、試作品、原価計算表を提出するよう言われやっていました。

その間に私は仕事のストレスからと思われる難病の潰瘍性大腸炎になってしまいます。それから、下血が止まらなくなり生活も仕事も本当に辛くなり、それは精神的に私を追い詰めることとなりました。そして、私は短期間の入院もしました。
そして精神科の先生や潰瘍性大腸炎の主治医からのアドバイスもあり、これ以上続けたら取り返しつかなくなり未来がなくなることを判断され退職することになります。
しかし、退職は大変でした。4人でやっていた作業を1人でやる仕事は誰もしたがらず継いでくれる人を探しました。そしてチーフから
「レシピのデータ置いていけ」
と言われ作ってきたレシピ、プライベートで作成したレシピを置いていくことになりました。私の道具もいくつか没収させられました。そして、退職するのに2ヶ月ぐらい経ってようやく退職することができました。

私は夢の職場に足を踏み入れた瞬間、私は未来に輝く希望を抱いていました。しかし、現実は私を試練の連続へと導きました。厳しい業務、障害者としての立場での戦いに私は立ち向かいました。最初は早急に夢に近づくことができましたが、その代償として体調の翳りが始まりました。
退職という決断は容易ではありませんでしたが、挑戦の中から得た勇気と希望が新たな人生への一歩を刻みました。私の物語は、逆境を乗り越え、どんな困難も希望の一歩として捉え、勇気を持って前進します。


2.信念を曲げずに進む

そして私は、雇用保険を貰いながら主治医の勧めでデイケアに通い療養することになります。そして、2〜3ヶ月経ったころに病院スタッフの紹介で焼き菓子の事業を営むB型就労へ行くことになりました。しかし、B型就労とは最低賃金より低い賃金で雇われることが多く、私は面談の時に所長さんに言いました。
「仕事をさせてもらうのは大変嬉しいですが調理師専門学校で何百万も使って卒業しました。それで時給200円では困ります。せめて最低賃金は保証して頂けないと働くことは不可能です。」
そうしたら所長は、
「学校を主席で卒業して技術もあるから最低賃金を払えるよう考慮するので一緒に働いてください」
と言いました。しかし、条件として雇用保険が入る間は所得があるため時給200円でやってほしいとのことでした。
そこの事業所は最近カフェを増設しランチやイートインもできる環境になって、その出発として私の採用が決まりました。それまで焼き菓子しかやらない事業所だったので私が作る生菓子は事業所に新しい風を吹き込む機会にもなり、作る生菓子は全て売れて廃棄になることはありませんでした。
しかし、時代はコロナ禍で来店客が少ないことが疑念でした。しかしながら来店するお客様のほとんどは私の作る生菓子を買ってくれたり、食べてくれたりして評判は好調でした。私は生菓子のストックが増えたら焼き菓子部門の方の手伝いもやりました。焼き菓子は単純で簡単なので物足りなさを感じることがありましたが、知的障害を持つ人たちとの関わりはとても良かったと思っています。彼らは個性に特徴はありますがコミュニティーに私と関わってくれてお菓子の話をしたら盛り上がって楽しい時間を過ごせました。

しかし、まもなく雇用保険が切れる頃に問題が起こります。所長とチーフが最低賃金は出せないと言うのでした。今更何を言っているのか抗議しました。すると今までの生菓子の記録を書いた紙を見せるのでした。そこには、売れた数と利益が書かれていました。
「これを見てください。あなたの仕事と利益を見ると割に合わないの。だから最低賃金は無理なの。でも、ここで働けばパティシエとして働けて夢は叶うのよ。時給は300円だけど。」
と言うのでした。なんて酷なことを言うのだろうか!と思いました。
私の作ったお菓子は売れていたし、廃棄はなかった。来客のほぼ全員が買ってくれているのも確認しています。悪いのはコロナ禍の影響による来客数の少なさです。それがどうして私が責任を取る形になるのか理解できませんでした。そもそも、この事業所で働き始めたのは最低賃金を出すからだったのに。

そして、話がもつれて話になりませんでした。パティシエの仕事を餌にして、低賃金で都合のいいように私を使おうとする姿勢は許せませんでしたし、私の仕事に対してディスカウントするなんてなおさらでした。

私は雇用保険が切れて仕事も失い途方に暮れることになりました。しかし、これは私にとって新たな挑戦の始まりであり、私の夢の追求し続ける決意をさらに強化するきっかけになりました。この経験から学んだのは私の持つ「信念と決意」が困難な状況に立ち向かうになることでした。


3,信じて進む。挑戦と試練に立ち向かった日々

パティシエとしての夢を追求する旅は、時に不確かな道のりでした。新たな職場での経験もその一環でしたが、その裏には信念と決意がありました。

私はパティシエとして仕事に見合った報酬を求めていたときに、私の通う精神科病院で運営しているA型事業所で私を雇いたいと言う話が舞い込んできました。A型事業所なら最低賃金は保証されるから安心しました。私はそこで事業所の活動と、事業所が経営しているイタリアンのお店を掛け持ちして働くことになります。

しかし、最初は体験という形でB型就労として時給が300円からでした。最初だけならいいと思いました。そして事業所の活動では主に私の作るお菓子を売っていく企画になっていって最初は30個ぐらいのケーキを作ります。そして、それが好評となりやがて倍の60個を作ってほしいと所長から依頼があって期待に応えて作りました。更に回数と数は増えていきます。
中でも私の経験で活躍できたのがモンブランでした。当時、その事業所では生栗を500g200円で売る活動をしていました。しかしながらそれは売れていませんでした。私は提案でその栗を私に任せて頂けないか交渉しました。最初は5キロの栗を渋皮煮にしました。それを裏漉ししてペーストができればモンブランクリームの材料になります。私は100円の原価に満たないのに素晴らしいモンブランを作り上げました。注文は殺到していました。私の提案は大成功を収めたのです。
イタリアンの仕事も問題なく大活躍でした。不足していた人材の補足となり、作業は順調にできていましたし、私の考えたケーキは採用されお客様に大好評でした。

しかし、仕事が順調でも問題がありました。それは、いつまで経っても私は体験扱いだったのです。3ヶ月もの間、時給300円でやっていたのです。私は賃金の明細を2枚目見たときに言いました。
「私はまだ体験だったのですか?こんなに仕事しているので次の段階のA型での採用を考えてください。」
と。スタッフは「そうだよね。話しておきます」と言いましたので私はホッとしました。しかし、次の月、3枚目の賃金の明細を見ると時給300円だったのです。私はすぐに所長に言いました。
「私はいつまで体験なんですか?!」
と。そうしたら所長は、
「え?体験イヤだったの?早く言ってよ〜(笑)」
と、とぼけたのです。毎週、散々ケーキを作らせて、仕事が間に合わなければ無給で残業し、家でレシピ作りもボランティアでやってました。イタリアンの店でも従来の従業員の3倍は仕事をしていました。それで体験が良いって誰が思うのだろうか。こっちは本気で仕事しているのになんて扱いなのだと思いました。
そして、本採用の話になって動きだすのですが所長が問題発言をするのでした。

「いやぁ、ケーキ作ってもらうとキツイんだよねー。売り上げ少ないんだわ。」

私は「え?」と思いました。あれだけ作っているのに売り上げ悪いってどういう事だ?ってすぐに思いました。問い詰めたら、販路が事業所の関係する病院のみだったこと。
そして、毎週何度も買ってもらってたから買う人が段々減ってきたこと。そして、売れないと半額に、それでも売れないと無料で配っていたことを白状したのです。私は愕然としました。この人は私が丹精込めて作っていたケーキを尊重せず、安売りして、更に無料で配ってたなんて。そして、所長は更に言いました。

「売れないのは君の技術が足りないからだよ、君は大した事ないんだわ」

と、私を責め立てるのです。私は言いました。

「所長が作ってきたケーキの全てを味見をして美味しいと言い、売れるものか判断すればケーキ屋以上のケーキだ!と喜んで自信満々に売りにいってくれたのは何だったのですか?」
すると所長は、
「俺はケーキのこと詳しくないし、俺はやれるだけのことはやったぞ?」
と言うのでした。私は呆れました。こんな人に自分のケーキを託してたなんて後悔でいっぱいでした。私の苦労を何も知らないのに私を卑下し、価値ある商品を粗末にしてたなんてありえませんでした。
そして所長は、
「ケーキを作るなら時給は300円のままだけど続けるの?」
と言うのでした。A型事業所とはなんだったのか、詐欺同然そのものでした。
そして、病院の主治医にもすぐに抗議しました。どうなっているのかと、そして私の作ったケーキに非が1つでもあるのかと。ケーキを食べていた主治医は言いました。主治医の奥様は元調理師学校の講師をしていて、私のケーキの評価はプロそのもののケーキと言っていたと。しかし、所長も頑張ってやってたのを認めてやってくれ、と言うのです。私は5年の付き合いのあったその主治医にその場で、紹介状を書いてもらって病院を去り、縁を切ることことになりました。

最終的に私は新たな道に進むことを決めました。信じること、夢を追求し続けることが、どんなに困難で苦しいものでも立ち向かう力を与えてくれることを学びました。この経験から私は夢を捨てることなく進む大切さを知りました。
そして、新たな夢に向けてのステップについて語ります。



4.夢から輝く未来 〜熱き情熱からの芽生え〜


私は、帰り道に母になんて言えばいいのか分かりませんでした。そして、ひどく落ち込みました。付き合いの長い精神科の病院との関係を失い、仕事をまた失い、技術の搾取とも言えるような残酷な時間。パティシエの夢がこんなにボロボロになるなんて想像がつきませんでした。母と二人暮らしで私がしっかりしないといけないのに情けなくて仕方ありませんでした。

しかし、母にありのまま話しました。母は黙って全部聞いてくれました。母は全て私の言う言葉を受け入れてくれました。私は、誠意を持って仕事をして自分の成果を存分に出したが、それに対して周りの理解と配慮がなく思うように動いてくれなかったことを母は同情してくれました。そして、何も話さない黙った時間がしばらくありました。

そして、母はその沈黙を破り、私に驚くことを言うのでした。

「あなたの厨房作るわよ」

え?と、私は思いました。何の話かと思いました。そして、母は続けて言いました。
「今、リフォームを考えていたけど、新しく家を建ててあなたのお菓子専用の厨房作ることにしたわ。」
私に厨房?お金は?自分の店を持つ?言葉がスケールが大きすぎて理解がついていけませんでした。母は私がわかるように説明してくれました。

「あなたの人生はすべて料理とお菓子だったでしょ。欲しいものがあっても買う前に全部お菓子のことに使って自己投資してきたでしょ。あなたは他所で技術を使うのはもう辞めにして、自分のためだけにお菓子を作りなさい、いいわね。」

すると母は、自分の老後の資金になる予定の代々受け継いだ土地を売り、小さな土地を残して小さな家を建てること企てていたことを説明しました。そして、母は、
「今後の生活は節約すれば10万円もあれば二人で暮らしていけるでしょ。あえて言うならお葬儀代ぐらい頑張って貯めてくればそれでいいから。」
今日の私の話を聞いて、母は確信したそうです。これは「運命」だと。そして、母は家の自宅のスペースを削った、厨房と売場のある家の設計図を私に見せたのでした。

厨房スペースとなる部屋です

販売スペースとイートインの予定の部屋です


あとがき

私の夢は無惨にもボロボロでした。しかし、希望の糸を母が繋いでくれました。それは母の老後の資金から成り立つものです。現代では老後の資金に何千万円もかかると言われる時代に自分の全てを誰かに託すことがあり得るのでしょうか。私の夢は私だけではなく多くの人の夢へとなりました。
人生は時には試練を与え私を強くしました。そして追い詰められてどうしようもない時は母がいつも導いてくれていたと思います。私の運命は優しいものではなかったけども、幸せに満ち溢れています。どん底に落ちても幸せはいつでも近くにあることを証明したいと思います。諦めないで未来に向けて共に歩みましょう。

私は今、ご縁があってA型就労施設で作業をしています。やはり資金不足で貯金をしているところです。せっせと1箱6円の化粧箱を折る作業をしていますが、1箱1箱折るたびに夢が実現していることを実感しています。それは雲よりも遅い進み具合ですが、夢を実現をする未来のために歩んでいることです。そして、私の作るお菓子を通して皆さんにお届けできる日を夢みて日々過ごしています。

最後に。私は間も無く自分の厨房を持つことになります。この私の厨房から
Stay Dreaming Sweets をお届けることになりました。私はこの使命から「愛と喜び」が溢れるお菓子を作りたいと思います。今後とも是非楽しみにしていてください。

ここまでの長文を読んで頂き、ありがとうございました。これからも宜しくお願い致します。

Gutsヒロ

最後まで読んで頂きましてありがとうございました!とても嬉しいです♪ これから更新して頑張って参りたいと思いますので今後とも宜しくお願い致します!