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【おはなし】空想図書館

 『誰にも読まれない物語』が集まるところが、この図書館の端っこの本棚にある。
 本棚は私の背よりも少し大きくて、図書館の他のものと何も変わらない。

 誰かの頭の中で生まれ出力されなかった物語だとか、書き記されることのなかったおとぎ話だとか、たとえば寝る前にする空想だとか、いつか夢で見たきり忘れてしまった景色だとか、書きかけのまま放置された小説なんかがここには勝手に集まる。さらに言えば、どこかの誰かがついたばればれの嘘とか、絵や音楽や詩、そして手紙だったりもある。

 彼らの正体は『思い』だ。それらは誰かが一から作った世界であり、その誰かの一部でもあり、伝えたかった気持ちでもあり、受け取ってほしかった言葉でもある。物語なんてものは文字や絵に残さなくたって、勝手に生まれていく。それは必ずしも紙の上に並べた文字列や、インクの色の配置に由来するものではないのだ。
 『誰にも読まれない物語』はひどく不安定で不完全で頼りない。だから、ここに居場所を求めてやって来る。ここは図書館だから、みんな気を使って本の形をしているのだという。

 彼らは意外なことに、それなりの個体数をもっている。でも本棚がいっぱいになることはない。そういう仕掛けが、この本棚には施されているのだ。
 物語は誰かに届かなければ、生まれた意味を失う。どんなに不格好でも、誰かに届いた時点で物語は役目をもつ。生まれたからには誰かを救いたいし、救う機会がいつかあるのだと、彼らは信じている。役目をもつことは彼らにとって、とても名誉あることだった。

 しかし残念ながら、ここにいるものたちにはもう伝えたいことを伝えることができない。
 読まれないまま、あるいは見られることがないまま時間がたち、忘れられ、自分に込められたメッセージがどんなだったかもう思い出すことができないからだ。物語が読まれないということは、そういうことなのだ。『誰にも読まれない物語』たちは本棚に身をひそめて、時が来るのをじっと待っているしかない。

 さて、じっと待っていると『誰にも読まれない物語』たちが飛び立つ日がやってくる。
 彼らのもつメッセージはもう誰の目にも入らないし、心にも届かない。ここに来るとはじめて形をもつものたち。それらがどこに飛び立っていくのか、知っている人は誰もいない。

 その日が来ると本棚はほんのりと光りだす。私が前の担当者から引き継いだのは、ただその日は朝から図書館の窓をすべて開け放っておくということだけだった。本棚の中の物語たちが飛んで行きやすいように、外の空気と図書館内の空気を混ぜてやるのだ。
 すべての窓を開け終えるとすぐに涼しい風が舞い込んできて、本棚の中の物語たちが動きだす。長い眠りから覚めたみたいに、気だるげに一冊、また一冊と遠慮がちに羽ばたく。ページを羽のように動かして、蝶のようにひらひらと危なっかしく浮かんでいく。はじめはみんなぎこちない動きだけど、慣れてくるとだんだん図書館の天井を器用に飛び回ることができるようになってくる。

 ひとしりきり図書館の上空を飛び回ったあとは、いよいよ物語たちは窓の外へ飛び立っていく。飛ぶのに慣れた奴らからぶつからないように順番に、図書館にただひとつの大きな出窓へと向かってゆく。外へ出た物語たちは大きく羽ばたきながら徐々に見えなくなっていく。
 きっと彼らは飛んで行った先でまた誰かの思いへと姿を変え、どこかへ届くためのエネルギーになるのだと私は思っている。

***

 もう慣れたもので、最初の半分も時間をかけずに準備を終えることができた。一番はじめは手間取ってしまって、物語たちが飛び出す窓を開けるのが間に合わなかった。そのため大きい出窓にぶつかってしまうやつがいて、そのときは申し訳ないことをしたものだ。

 今日もその日がやってくる。物語たちが飛び去っていくのを眺めるのが、私はたまらなく好きだった。『誰にも読まれない物語』たちが、生み出された時のことを思い出して、メッセージを包み込まれて誰かのもとに届く意気込みを、最後にふたたび宿しているような気がして胸が熱くなる。そんなのはもう、私から消えた気持ちだと思っていた。

***

 図書館というのは、私の居場所だった。子供のとき、私は両親が苦手だった。両親も私が苦手だったと思う。私が家の中で話すと目に見えて機嫌を悪くした。だから私は家で話をしなくなった。ふたりの顔色をうかがい、できるだけ家に帰らず図書館で時間をつぶすようになった。静かな図書館ではじゃまをされずに色々なことを空想することができた。

 家に帰り両親が大きな声で言い合いをしている最中にも、彼らが私から目を逸らす時にも、私の空想は子供の感性のままに無限に膨らんでいった。
 その日に友達と遊んだとりとめのない出来事、近所の山が横たわった怪獣に見えること、昨日の夜に見たバスに乗って冒険する夢、図書館で本を読んでどきどきしたこと。
 私はいつまでも耳を塞いでいたので、いつしか頭の中はそれらでぱんぱんになった。

 ある日家に帰ると父がうなだれていた。家に母の姿がなくて居間の床が散らかっていた。父が聞いたことのない低い声で私に何かを言う。鼓膜が震え視界がぐらつき耳鳴りがした。その後母が帰ってくることはなかった。
 私の頭の中は、からっぽになった。

***

 物語たちがどんどん空に飛び出していって、図書館も静かになってきた頃、私は本棚に最後に残っている一冊を見つけた。本棚の下のほうにぽつねんと取り残されたそいつは、いつまでもどこにも飛び出せないでいるようだった。

 ずっと誰にも見てもらえず、言いたいことを言うこともできず、みんなと同じようにもできない。私はそいつをそっと手に取った。ページを開いても、中身はかすれて読めない。伝えたいことを伝えられないのは悲しい。こいつもかつて、何か伝えようとしていた内容を持たされていたはずだった。忘れ去られ、それが何だったのか彼自身ももう知ることは出来ないのだろう。

 そいつが飛んで行くことができるように出窓のそばまで運んでやると、ようやく羽ばたく気になったのか、彼はページを動かしはじめる。何度か羽を動かしたあと、飛び方を思い出したようにはらはらと浮かんでいく。しかし彼は外へは向かわず、図書館の天井をくるくると旋回した。と思ったらその場で滞空したり、本棚のすきまを滑空したりとめちゃくちゃに飛び回りなかなか出て行かない。

 ああ、私はこいつが羨ましいんだと思った。その姿をながめて、私は反射的に微笑んでいた。目で追いながら彼の騒々しい羽ばたきを、頭に焼き付けておこうとした。

 そいつが飛び去ったあと、しんとした館内を見回る。子供の頃から通っていた図書館はあの頃とほとんど変わらず、私を迎えてくれる。『誰にも読まれない物語』が集まる場所。そういう所はこの国にはこの場所にしか存在しない。彼らにとっての唯一の居場所が私の職場であることはすごく誇らしかった。

 最後まで飛んでいくことができなかった一冊。思えばあいつは、あの頃の私の物語だったのではないだろうか。胸の辺りが温かかった。格好悪くて下手な飛び方だったけれど、あいつは他のどの本よりも自由だった。
 私はとらわれている。この図書館と私の過去と空想の中に。けれど彼らとは違って、私は伝えたいことを伝える方法をいくらでも持っている。
 誰かのためだと胸を張って言えるような、いつか誰かを救えるような、そういう物語をあの日の私のために書きたいと、そう思った。

 本棚は空になり、図書館には私のほかに誰もいない。窓の外の空はどこまでも青かった。
 羽の音が、頭の中で聞こえた気がした。

おしまい

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