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【おはなし】迂回

 ある日、境界ができた。

 僕たちの住んでいるところを突っ切るように壁が現れたのだ。
 壁の高さは分からない。僕の身長の何倍かはあると思う。素材はとても硬くて、壊せそうなものではなかった。端がどこにあるのかも分からない。壁の先を見たものはいなかった。

 あちら側とこちら側の行き来ができなくなったので最初みんなはすごくあわてたけど、季節が変わる頃にはみんな慣れてしまった。

 壁はこちら側の町の外れの方にある。はじめは町のそばを通っていたけれど、だんだん町の方が壁から離れた側に移動していった。突然現れた不気味な物体を、自分たちから遠ざけたかったのだろう。人が寄り付かず、壁は林に囲まれていた。

 人々の統治のためだとも言われているし、神の見えざる意思によるものだとも言われているし、地殻のズレの影響だとも言われている。それが現れた理由は誰にも分からなかった。

 壁には僕しか知らない秘密がある。

 「おまたせ」
 僕は壁に向かって話しかけた。星が光っていた。
 「今日は遅かったね」
 話しかけた方から返事が返ってくる。壁の向こう側からだ。
 「少し、仕事が長引いたんだ」
 「配達が多かったの?」
 「いつもより、少しね」
 「大変だったのね」
 僕は町で郵便屋をしていた。壁によって半分になってしまった小さな町で、僕はみんなに手紙を届けている。
 「そっち側はどう?」
 「何も変わったことはないわ。いつも通りよ」
 顔も知らない彼女が笑う声がきこえる。

 壁には小さな穴が空いていた。僕の手首くらいの太さはあるけど、分厚くて向こう側はよく見えない。いつからか僕たちは、ここでふたりで壁越しに話をするようになった。
 穴のことを知っているのは、僕らだけだった。

 その日の最初の星が空に見えるころ、ここで僕は彼女と話をする。彼女は名前をユユといった。
 「そういえば最近、こっちの町に図書館ができたの」
 「へぇ」
 「隣の国や遠くの国からもたくさん本を集めたんだって」
 「へぇ、行ってみたいな」
 「いつか遊びに来てよ」
 「そうだね」
 壁がどこまで続いているのかは分からない。以前町を訪れた旅人によれば、町を抜けてもずっと先まで真っ直ぐに伸びているという。
 僕とユユにとって『遊びに来て』というのは『おはよう』とか『おやすみ』と同じようなものだった。

 「図書館にはね、ずっと遠くの国の地図とか、とても古い本もたくさんあるの。そっち側のことが書いてある資料もあるのよ」
 星が空に飛んでいる。ユユと話をする時、僕はずっとそれを見上げている。そうしているとなんだか星と話をしてるような気分になった。
 「昔は壁なんて無くて、どこにでも好きなところに行けたし、会いたい人に会えたんだって」
 「そうみたいだね」
 「壁なんてなかったらいいのに」
 ユユがつぶやいた。
 「そしたら君ともっと話ができる」
 「話なら出来るじゃないか」
 「ふふ、そうだね」
 「いつか壁がなくなったら、きっと配達が大変になるなぁ」
 「こっち側にも、ちゃんと届けてね」
 夜空が深くなっていき、星がくっきりと見えていた。ユユの声が藍色の空に吸い込まれていく。
 「もちろん」
 ユユは何も言わなかった。

***

 遠くの方で大きな花火がいくつも上がっている。
 今日は一年の終わりの祝祭の日だった。朝から夜通しの祭りが行われ、明日からまた新しい暦が始まる。町はお祭り騒ぎで、賑やかな声や音楽が、壁の方まで聞こえてくる。
 「そっちもすごくにぎやかね」
 ユユが言った。
 「今日は祝祭の日だから」
 祝祭はこっち側でも、あっち側でも、同じように行われる。あっち側の音楽と、こっち側の歓声とが混ざり合って、辺りはとてもさわがしい。

 「ただ一日が終わって、次の日が来るだけなのに」
 ユユの呆れたような声が聞こえる。背中をつけた壁は、ひんやりとしていた。
 「朝起きて顔を洗ってご飯を食べて、そのあと仕事をして、家に帰って好きに過ごす。みんないつもと変わらない一日を過ごしてるだけじゃない」
 「そうかな」
 「今日と明日の境目を越えるだけで、意味なんてない。何が特別なのか、私には分からないわ」
 「面白いことを考えるんだね」
 「君はそう思わない?」
 「うん、そうだね。なにも特別じゃないかも。でも」
 「でも?」
 「せっかくなら、楽しい方がいいだろ」
 「まぁ、そうね」
 ユユがほほえむ声が聞こえたあと、新しい暦のはじまりの鐘が鳴らされた。ちょうど彼女が続けて何かを言ったようだったけど、その声は鐘の音にかき消されてしまった。

 鐘が鳴り止むと今日一番の大きな花火が上がり、あっち側とこっち側の歓声がひときわ大きくなった。ユユはわぁっと驚いているようだった。

 祭りの光にあてられた夜空はすごく明るくなって、ここからだと星は見えなくなってしまった。

***

 「遠くの静かな国に、移住することになったの」
 暦が変わり月が何度か満ち欠けを繰り返し、暖かくなってきた頃に、ユユが言った。
 「本当に?」
 僕はたずねた。
 「壁の近くは危険だからって」
 「そんなこと、ないじゃないか」
 「こっち側ではそう言われているの。だから、今日でさよならだよ」
 ユユの声が遠ざかっていくような気がした。
 「それで、話してないことがあってね」
 「なに?」
 「私、生まれた時からずっと目が見えないの」
 壁の穴を見つめたまま、僕は何も考えられずにただ立っていた。

 「だから町のみんなからは相手にされないし、友達もいない」
 ユユが続けて言った。僕は壁を背にして座りこむ。見えるのは町の明かりとオレンジ色の地平線、それとまだ薄明るい空にぽつんと光る一番星だけだった。
 「ずっと君の声と話すことだけが楽しみだったの。壁はとても厚いから、曇った声しか聞こえなかったけれどそれでもいつも、君と話すのが楽しかった」
 ユユの声が少しずつ本当に小さくなっていく。彼女がうつむいているところを想像して、僕は胸が痛い。
 「さみしいよ。すごく」
 向こう側からの声がいつもよりずっと聞き取りにくいのは、壁の厚さのせいだけではないと思う。
 「ありがとう」
 彼女が最後にそっと言った。

***

 前にこの町を訪れた旅人は、どのくらい先から来たと言っていただろうか。
 ユユはこっち側の本も図書館にはあると言っていた。それはこっち側からあっち側へのルートがあるということにはならないだろうか。
 どのくらい歩けば僕は壁を越える場所を、見つけられるだろうか。

 壁を見つめる。黒くなっている表面は硬くて冷たくて、僕を見下ろすようにただただ立っている。壁の穴からはもう、ずっと前から何も聞こえない。僕はそれに背を向けて、夜空を見上げる。星が何かを言いたそうに、明滅を繰り返している。

 「君に手紙を書くよ」
 僕は配達の仕事が、けっこう好きだった。
 伝えたいことがあって、伝えたい人がいる。
 誰かの思いが僕に託されていると思うと、すごく誇らしい気分になる。
 たったひとつの大事な気持ちが、行き場をなくさないために僕は配達屋をしている。

 …でも、こっち側には来れないでしょ?
 記憶の中のユユの声が穴の中から聞こえた。
 「たくさん考えるよ、壁を越える方法を」
 …そんなの、出来るのかな。
 「だって君が本当はどんな顔をしてるのか、僕はまだ知らない。そんなの寂しいじゃないか」

 遠回りになるかもしれない。どのくらい迂回すればユユのいた町に辿り着けるのかも分からない。
 …わかった。じゃあ絶対。
 そこからまた、遠くの国に行かなくちゃいけない。彼女は待っていてくれるだろうか。
 …遊びに来てね。

 僕は歩き出す。
 境目に意味なんて無い。そう言った人に、僕はまた会えるだろうか。

 長い配達が始まろうとしている。


おしまい

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