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【おはなし】天国のモフモフ

 「よし、そろそろ行こうか」
 レネが僕の先を歩いていく。

 庭の花壇にはたくさんの種類の花が植えられていたけど、すべて枯れてしまっている。

 庭を出て町を抜けて酉の方角へ向かうと、森に入る。森の中を少し進むとやがて■■■■の白い巨大な体が見えてくる。

 そいつは体を丸めて、目を閉じたままじっとして動かない。胴体の高さは僕の背丈の倍はあるだろうか。顔の大きさは、両手を広げても足りない。
 顔はいたちのように細長くて、尻尾は太い。
握りこぶしほどの鼻の穴から吐き出される寝息が、同じリズムで近くの草を揺らしている。

 はじめに大きなブラシを抱えて■■■■の体毛を梳かしていく。背中。わき腹、お尻の順番で進めていく。

 横腹のあたりに梯子をかけると■■■■は動揺したみたいにびくんと体をゆらす。警戒されている。
 「暴れたりしないから、大丈夫」
 僕があわてているとレネが笑った。
 「嫌われてるのかもしれない」
 「緊張してるのが伝わっちゃってるんだよ」

 そっと背中によじ登ったあとは、毛並みに沿ってゆっくりとブラシをかけていく。またがっている太ももがやけに熱い。
 そいつの体が穏やかに上下に動くのに合わせて、僕も上下に揺れる。呼吸がだんだん深くなっていく。
 「ゆっくりやれば大丈夫。でかい猫みたいなものだから」

 背中をそっと移動しながら、僕たちは丁寧に作業を進めていく。
 ブラシが終わると辺りには足首が隠れるほどの抜け毛が積もっていて、まるで雲の上にいるみたいだった。

 その後の作業は■■■■の状態によって変わる。
 爪を切ってやったり、耳の掃除をしたり。朝からはじめて、昼過ぎくらいまでレネと僕とでそいつの世話をする。

 その間、■■■■の目はずっと閉じたままだ。


***

 気づいたときには花壇の花が涼しい風に吹かれているのを、眺めていた。
 森の中の、小さな家の庭の真ん中に僕はいた。うぐいす色に囲まれた森の中だった。

 いつ、ここに来たのか分からなかった。
 今以前のことも、覚えていなかった。

 「これからはきみとふたりで■■■■の世話をしていくから。よろしくね」
 そばにいた女の人がそう言った。なんの疑問も持たなかった。ただ、あぁそうなんだと思った。
 女の人は泣いていたかもしれない。

 そうして僕はその日から、レネと■■■■の世話をはじめた。レネというのはその女の人の名前だ。
 はじめは何もわからなかったけど、だんだんとそいつの世話にも慣れてきた。レネは仕事を教えるのがうまかった。

 はじめに■■■■を見たとき、声を出すことができなかった。こいつが目を開けて襲ってきたらと思うと、足が動かなかった。■■■■は、僕が見たどの生き物よりも大きかった。
 「こいつ、ずーっと寝てるから大丈夫」
 レネは言った。
 「まず、私がやるからきみは見ててね」
 レネがブラシを持ってそいつの体に登っていった。


 そうして長いこと月日が流れた。
 ■■■■は僕が知る限り常に眠っていて、食事はとらない。森の養分だとか、動物の精気を吸収して、生命を維持しているのだという。
 ■■■■について、レネは特になにも知らなかった。

 「私もきみと同じで、突然ここにいたの。それで、よくわかんないまま長いことあいつの世話をしてきた」
 レネも、ここに来る以前のことは何も覚えていなかった。
 「私がここに来たときも前からいた人がいて、今までその先輩とふたりで作業してたんだけど、きみが来る直前にいなくなっちゃったの」
 「どこかへ行ったの?」
 「さぁ?」

 今までいた者が引退して、新しい者がやってくる。そうやって僕たちは、常にふたりで作業をするようになっているんじゃないかとレネは言った。


***

 「神さまみたいなものだと思うんだよね」
 ■■■■の世話を終えて、家に帰る道の途中で、レネが話してくれた。
 だから私たちはこうやって、■■■■の機嫌を損ねないように世話をしてるんじゃないかな。レネはそう続けた。
 レネもその先輩もそのさらに前の人も、ずっと昔からそいつの世話を続けてきたのだという。

 「レネの先輩はどんな人でした?」
 あるとき僕はたずねた。
 「花が、好きだったなぁ」
 「へぇ」
 「先輩の花、全部枯らしちゃったんだけどね」
 レネが照れたように笑った。
 「水をさ、ついついあげすぎちゃうんだよね」
 僕がここに来たときに咲いていた花たちは、花壇の中でくたりとしてしまっていて、もう残っていない。レネは花の世話をするのは絶望的に下手だった。

 その日の■■■■の世話が終わると、あとは僕らは好きに過ごす。
 本を読んだり、家の掃除をしたり、森を散歩したり、花に水をやったりする。町に行けば必要なものはなんでも手に入った。

 レネは夜ふかしが好きだった。
 「仮説を立てたんだ」
 ある夜の日に彼女が言った。青い月の輪郭が、ぼんやりと霞んでいた。
 「仮説?」
 「ここは天国でさ、あの変な生きものの世話をすることで、私たちは生まれ変われる」
 「なんで、そう思うんですか?」
 「そうだったらいいなぁと思って」
 レネの返事を聞きながら、僕は僕が来る前に消えてしまったという彼女の先輩のことを思い出していた。

 「もしそうだとしてレネは、生まれ変わってどうしたいんですか」
 「うーん、そうだなぁ」
 レネが首をかしげて考える。
 「先輩に会いたいよ」

 あの日、私と先輩が森に行くとあの生きものは目を覚まして待ってたのね。あいつが目を開けてるの、はじめて見た。で、のそのそ歩いてきて、先輩にふれたの。
 そして瞬きしたら先輩は消えてた。前にいた人はいずれ抜けるってのは聞いてたけど、こんな感じなんだなぁってぼんやり思ったよ。
 そんでそのあとすぐにきみが来た。
 あのとき先輩がさ、あいつに触られるとき、にこって笑ってたんだよね。こっちの方見て。困った感じで。

 「もし生まれ変わったら先輩に会いに行って、あのときなにを考えて笑ったんですかって、聞いてみたいかな」
 レネの声が空に吸い込まれていった。
 月のまわりが淡く光っている。
 天国という言葉がこれだけふさわしい夜は確かに無いなと、思った。


***

 やけに抜け毛の多い日だった。
 生え替わりの時期はとうに過ぎているのに、ブラシをかければかけるほど、白い毛はどんどん抜け落ちていく。
 あたりは真っ白になって、僕たちはふたりでそれに包まれていた。
 「たまにこいつ、こういうふうになるんだよ」
 レネは楽しそうだった。■■■■の世話どころじゃなかった。風がさらさらと吹いて、落ちていた白い毛がふわりと宙に舞う。
 「地面なんて無いみたいだね」
 ふと、レネが言った。晴れた濃い青い空に、舞った毛玉が散っていく。
 「この、うそみたいに優しい眺めは、今この世界で、私ときみしか知らない」
 レネが言った。
 「この景色をさ、ずっと覚えていてくれる?」
 たんぽぽの綿毛のように軽くて柔らかいかたまりは、風に身を任せて次々と空へ飛んでいく。

 「分かりました」
 僕は答えた。
 「よかった」
 レネが笑った。僕も笑った。
 ■■■■は迷惑そうに、伸ばした首を前足に乗せて、深く息を吸った。まぬけな音で笑うように鼻が鳴った。
 その日僕たちは家に帰ることもせずにいつまでも寝ている■■■■のそばにいた。


***

 たぶん、今日で私は抜けると思う。
 森の中で突然、レネが言った。僕は足を止めた。
 「ええと」
 「なんか感覚でわかるんだよね。たぶん■■■■が今、待ってる」
 レネはいつもと同じように僕の前をどんどん進んでいくので、僕はそれについていくしかなかった。作業用の用具がずしりと重く感じた。

 森の中心まで来ると■■■■が起き上がっていた。開いた目玉が、僕たちの方に向けられている。はじめて見た瞳はこちらを刺すようにまっすぐで、表情も変えない。足がすくんだ。

 「こいつの世話は、もうきみに全部引き継いだから。あとは頼んだよ」
 静かに言ってレネは歩いていく。
 「レネ、なんで」
 想定していたより大きな声が出ていて、少し驚く。
 何も答えずに、彼女は■■■■のそばで立ち止まる。■■■■が鼻先をそっとレネに近づける。

 伸ばしても僕の手はレネに届かない距離にあった。もう、彼女に触れることはないのだとわかった。レネがそっとこちらを見た。
 「先輩があのとき笑ってた理由がわかったよ」
 彼女は優しくほほえむ。
 「きみの顔がすごい面白い」
 ずっと、目の上のほうに力が入っていたことに気づいた。口も半分開いていた。きっと僕は今、ひどくまぬけな顔をしている。レネも、そんな顔をしていたんだろうか。

 「次に目が覚めたときは、どこかの国の小説の主人公かもしれないし、庭に咲いてる花のひとつかもしれないし、どこかのビルの掃除のおばちゃんかもしれない」
 風が吹いたので、僕は身構える。まぶたを閉じてしまったら、倒れてしまいそうな気がした。

 「それをずっと繰り返していくだけだから、そんな顔しないでよ」
 分かっていたつもりだった。
 レネの話を聞いたときから、いつかこんな日が来るということは。なのになんで、こんなに声が出ないんだろう。
 「ひとつだけお願いがあるんだけど」
 レネが続けて言った。
 「何ですか」
 震えた声をなんとか絞り出す。
 「花壇の花、また植えてよ。私には無理だったけど、きみは枯らさないように」
 優しくそう言って、レネがまた笑った。

 まぶしくて目を閉じてしまうと、レネは消えていた。
 「また会おうね」
 彼女の声が、どこからか聞こえた。■■■■がまた、のそのそと寝床に戻っていく。


***

 「これからはきみとふたりで■■■■の世話をしていくから。よろしく」
 僕はその子に声をかけた。その子はわけもわからないままうなずく。
 きっと僕もこんな感じだったんだろうなと思う。この子はあのときの僕で、僕はあのときのあの人だ。彼女はどことなく彼女に似ている気がした。

 青い晴れた空。
 うぐいす色の森の中。
 白いモフモフ。
 花壇には新しく植えたパンジー、桔梗、百日草、スズランが、涼しい風に揺れている。

 僕は新しく来た子に声をかける。
「さて、そろそろ行こうか」

 もしここが天国なら、なかなか悪くない所だ。

おしまい

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