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この記事は〝琴線に触れる〟か?

すべからく(…べし)」が〝すべて〟を意味する言葉として誤用されているのをしばしば耳にする。皆んなそういう意味で使ってるからいいじゃないか、と容認する向きもあるが、間違いは間違いであり、少なくとも知っている者としては自らの誤用の言い訳にはならないし、また「それは違う」と指摘する義務があるだろう。(ちなみに正しい意味は「当然〜するべきである」)

最近では「琴線きんせんに触れる」の意味を〝怒りを買う〟と取り違えているケースもあるとの由。どうやら「逆鱗げきりんに触れる」に引かれての誤解のようだが、感動を伝えたつもりが「すごく怒っている」と理解されては、おちおち弾琴などに耳を傾けてもいられない昨今…

「琴線」でこれだから「高山流水こうざんりゅうすい」「琴柱ことじにかわす」も今時は多分ワカラナイ言い回しなのだろうかなぁ…と寂しさを覚える。

また、「〝琴線〟とか〝逆鱗〟とか知らないし、わからないけど、それで何が悪い」 といったコトバなども漏れ聞こえる。「ムズカシイ表現なんか使うのを止めろ」的な極論まで出る始末だ。しかし、こういう開き直りを聞くたびに、やっぱり漢文、古典の基礎教育は必要なのではないかとヒシヒシ思う。

執筆を依頼される際に「読み手が理解できない言葉を極力避けて、分かりやすい表現で」としばしば注文をつけられたりする。なるほど一理はある。しかし…

これはずっと昔の経験談だが、とあるオーケストラの演奏会用の曲目解説文で「人口じんこう膾炙かいしゃする」という表現をしたら「〝ジンコウにカイセキする〟だってよ」と笑われて「そんな言い方ないから書き直せ」と言われた事がある。 知らないならまだしも読み方が間違っていて、それで笑われたのだから頭を抱えてしまった。
また、accord の和訳は「和音」だが「和弦」という言い方もある。後者を使った時「〝弦が和する〟って意味わからん。この表現は間違ってる」とクレームをつけられて書き換えさせられた事も。こんな事は枚挙にいとまがない。
一方で、「ゴジラ」の作曲家として名高い伊福部昭先生が「管〝絃〟楽(一般的には「管〝弦〟楽」表記)」と漢字一字にこだわる事については「さすが巨匠だねー」と感心しているのだから面白い。およそ著名人に対してその扱いは天と地ほどに違う。

自分の知らない言葉や語法が使われて「そんな言葉(言い方)ないだろ」とドヤる人々に接するのは、くのごとく昨今に限った話ではない。ずっと昔はその手合いは〝物知らずの声高こわだか〟扱いだったが、今では声高が我流を押し付けてくるのが普通になってしまった。やれやれ、である。

「間違った語法も時を経てスタンダードになる」と、ある言語学者先生はのたまう。それはそうかもしれないが、ワレワレは百年後千年後の未来に生きてるわけではないだろう。間違った語法を使う権利と同様に、それを避けて本来あるべき語法を保守する権利もあるはずだ。

自分の知らない言葉に出会った時、あるいは認識している意味と違った時、「あれ?」と思って紙の辞書なりネットなりで確認する。そうした習慣が自分の言語生活をより豊かにしていくものだと思う。言い方は乱暴かもしれないが、書き手は知らない方に合わせる義理などさらさらないのである。

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