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登山

映画『マトリックス』の世界で前提となっている「人々は個々のカプセルに入れられ眠っており、それぞれが別々に人生の夢を見せられている。夢のなかで他人と関わり、自分は世界に所属した一つの個であると信じ込まされている」という概念や、ライプニッツのモナド論の「モナドには窓がない」という考え方が、仕事でPCに向かっているとき、スーパーでカゴに物を入れる時、家でコーヒーを淹れているとき…いつも頭のどこかにある。

そんなことを考えながら、一人で山に登った。

私たちは、世界から何らかの影響を受け、その反応として、自分から発露している(感覚、思考、発語、行動など)
と、私たちは信じている。けれど本当は、私たちはもしや、球体をした鏡の内側に、一人で生きているようなもの、なのではないか。球体の鏡の内部に映った自分のことを”世界だと勘違い”して、一喜一憂し、そのつど発露しているのではないか。

少しアップダウンのある、けれど安定した山道ならば、ただ淡々と歩むだけ。それでよい。けれど、この山は違う。草木に覆われて一見しただけではそうとわからないが、実は断崖絶壁のヘリを縫って進む道筋である。

淡々と歩むだけで済んでしまう、という場合もきっと、あるだろう。
球体の鏡の内側にいる一人が、映しだされた自分を見てそれを世界だと信じ、世界から与えられるもの、差し出されるもの、ぶつけられるものを、淡々と受けとり、時に自分の発露を投げかえす。
けれどこの状況を想像するにつけ、私の中には疑問が2つ生じる。

淡々と歩むだけでいいのか、それで許されるのか、という問いと、
淡々と歩むだけではまったく済ませてくれない、という苛立ち。
少なくとも、この人生においては。
しかし、他の球体の鏡の中に入ったことがないので、この人生と他の人生を比べる術もない。

* * *

この山の地形は、”メサ”と呼ばれる。mesaとはスペイン語で”テーブル”を指し、その名が示すとおり、テーブルマウンテンの地形である。硬い地層が上部に、柔らかい地層が下部にあると、柔らかい地層の方が侵食が進んで縦に崩れて急崖を形成し、上部が平らに残るのだという。アメリカのモニュメント・バレーの一部もメサなのだとか。

道程には繰り返し、転落を警告する看板が現れる。転落防止の柵もある。覗き込むと、霧がまいて底は見えないものの、ほぼ垂直の崖になっていることが見てとれる。大怪我では済まないことは、想像に難くない。

その道すがらに、岩場が現れた。ほんの2〜3メートルの高さで、表面のガタガタした凹凸に足をかけ、先駆者が準備しておいてくれた頑丈そうなロープを確実に掴んで進めば、登れないことはない。これが平地の公園の遊具なら平気で登る。しかし今、そのすぐ横は切り立った、底も見えない崖だ。

道を、ただ淡々と歩めばよいのなら、自分の体力と相談して、進むか休むかを淡々と判断すればよい。だが、道の途中がこの岩で塞がれている場合、疲れがどうとかいう話は吹っ飛ぶ。そして、別の判断事項が一気に湧き上がる。無事に登りきれるか、ロープは本当に頑丈か、誤って元いた地面に落ちるならともかく崖下へと踏み外す恐れは、

そして何より、一度登ったら降りられるのか。
私は、ここで引き返すのか。引き返すべきなのか。

これが、生きるということなのだ。山岳事故ではよくガイドや当人たちの知識不足が指摘される。「判断を誤った」と。だが実際は、適切な判断というものは「状況外の場所で」「事後に」考えた場合に初めて現れる。現場には適切な判断などまだ微塵もなくて、そこにあるのは「挑戦した自分」と「挑戦しなかった自分」の分岐だ。

もし進んで、登れたなら、何事もなかったかのように世界は続く。登れずに落ちれば、未熟者が判断を誤ったと蔑まれ、進まなかったとしたら臆病者と罵られ、進まなかったことを誰にも言わなければ、弱い自分が心のなかに体育座りする。

大丈夫。何人もの人が、今日のこの数時間のあいだにも通っている。
大丈夫。大丈夫。
職場のパートのおじさんが言っていた。三点確保すれば絶対に落ちないと。電気工事で高いところに登るときは、必ずそうしていた、と。

目の前に見えているのは、ただ一つ。
次に手で掴む岩、次に足をかける岩、次に掴む木の幹、次に掴む鎖。
どのくらい登ったかは、見ない。あとどれくらい登るのかも、見ない。一つのことしかしない。必死でやるために。失敗を予期しないために。前へ進むために。自分が生きるために。周りは見ない。下は見ない。後ろは見ない。

岩を登りきったとき、出てきた言葉は「もういやだ」だった。その場に膝をついてへたりこんだ。けれど、言っても言わなくてもそこには誰もいない。そもそも山に登ることなど、義務であろうはずがない。頂上まで行かずに引き返しても、罰則も居残りもない。球体の鏡のなかには、私しかいない。途中で引き返したことを、他人が知る日は来ない。

けれどわかっている。途中で引き返した事実は、球体の鏡の中を一生、跳ね返りながら巡っていることだろう。私が引き返したことを、それは一生、挙げつらって嘲笑しつづけるだろう。静かな森に、澄んだ鳥の声が響く。

今、ついた膝の下には、平らで頑丈で安定した土の地面があって、この先には、土の道が続いている。立ちあがって、靴裏に硬い地表を感じながら歩を進めた。

汗と疲労と恐怖の余韻を覚えながら、中盤の平坦な道を気を休めて歩く。すると今度は、アブらしい重低音の羽音がする。不快な羽音は私を執拗に追ってくる。完全にロックオンされたようである。私はタオルでを振りまわして追い払い、それでも追いかけてきたので走って振り切った。

* * *

頂上に近づくと、様子は打って変わって平和的だった。灌木と下草の緑が見渡すかぎり平らに広がり、木漏れ日を緩やかに落としている。斜面に生えていた、捻じ曲がったり倒れたりして、それでも葉を太陽の方向へ向けようと必死な木々とはまったく違って、そこの木々は素直にまっすぐに、すっくと美しく立ち並んでいた。メルヘンの挿絵のように端正な姿の木もあった。ここがまさに、テーブルマウンテンの表層なのだ。

頂上の標識近くのベンチでしばらく足を休ませ、水筒の水を飲んでから下山を開始した。下山の道なら、もうよく知っている。あの岩場や、鎖や、少しガタつくハシゴなどが点在する、今さっき登ってきたその道。それらを進まなければならないという過酷な未来が、私には見えていた。けれど、登りの道でそれらに直面した時の恐怖や逡巡は思い起こされず、妙に冷めた心で、平和な林を後にした。知っているというのは、強さだ。

今できることは、這いつくばってでも、尻餅をずってでも、一歩だけでも進んで、その連続で登山口の駐車場まで帰ること。これは、私がやらなければ、誰もやってくれない。やらなければ、日常に戻れない。

下り坂にさしかかってすぐ、また低くて暴力的な羽音が聞こえた。彼の縄張りに踏み込んだのだ。しばらく音が追ってきている。
しかし冷静に観察すると、アブは目の前の地面にいた。背後を追ってきてなどいなかった。アブは、ただそこにいて、自分のために飛んでいるだけだった。その音を、自分に向けられた攻撃だと感じたのは、こちらの発露に過ぎない。もしかしたら、往路のそれも、そうだったのかもしれない。

下りの道では、細かく判断することをやめた。早く帰りたかった。早く帰るためには、どこに足を下ろすか、どの枝を掴むかを、じっくり判断せず、瞬時に決めて行動しなくてはならない。崖に近くない安全な道では、少しくらい転んでもいいと思って適当に小走りに進んだ。

早く帰りたかった? じゃあなんで、山に登ったりしたんだ?

私は別に山に登りたいわけではない。登頂したいわけでも、野鳥観察をしたいわけでも、風景写真を撮りたいわけでも、ない。自分の弱さを捨てたい、強くなりたいだけだ。昔から、人がへいきでやっていることができなかった。運動神経も体力もなかった。ボールも遠くへ飛ばなかった。それでも、クラスメイトについていかなければ、と必死になって、結局できなくて泣いた。自分は持たざる者なのだと、運命を心底呪った。

そんなことに必死にならなくてもいい、できないならできないでよくて、他のことをすればいい、それは呪いでも何でもないと、三十数年の年数の山を登った今なら、わかる。どんな人にも、他人と比べてできないことがあって当然。苦手なものを上手になる義務など皆無だ。伝えよう、弱かった私に。焦っていたその時間を、今、取り返したよ、と。

ほらやっぱり。
結局、文章を書く人間になった。スポーツ選手にはならなかった。

世界で生きていくためには、力が必要だ。けれどそれは、他人と比較して強いものではない。世界と自分とを比べて、有効な力だ。岩を誰よりも速く登る力ではなく、なりふり構わず登る力。それがいる。
そして、私が世界だと認識している場所で、一部の人が言う。「世界とは、自分を映し出した鏡だ」と。

ほらやっぱり。
球体の中に一人でいるんだ。

* * *

例の岩場まで戻ってきた。凹凸があって、少しレンズ状に張り出した、屹立した岩だ。ロープの張りを引っぱって確かめ、踵を凹凸に引っ掛け、体を岩にもたせながら一段ずつ降りていく。重力は私を裏切らない。どんな小さな足がかりでも、それが確実なものなら、重力は、私を岩から引き剥がしにかかったりしない。どんなに無様な姿勢でも、尻餅をつきつつ、泥だらけになって進んでも、重力はそんなことには一向構わない。地球は、フェアだ。

標高が下がると、霧がまいてきた。崖の横を通るとき、その崖の縦の”切り欠き”部分に沿って風が強く吹きぬけるのを感じる。そこで立ち止まる。森のほうを見ると、霧が木々を飲みこみながら、さーっと近づいてくる。「さーっと」というのは動きではなく、音だ。木々の葉に一斉に水の粒が当たっているのが、音を立てているのだろうか。

しばらく見ていると、霧は、来たときと同じように、あっという間に下がっていって、そこには木々の一本一本、葉の鮮やかな緑、全てがクリアに見える世界が戻っていた。

* * *

私が映っているのだという、球体の鏡の内部は、こんなふうにしてダイナミクスに溢れている。木々は青々と生いしげり、雨や霧は大地にみずみずしさを与える。
岩は私の行く手を阻んで、進むかどうかを迷わせる。時の流れは一方向でしかないのにも関わらず。この先のどこかに、終着点があるのにも関わらず。

そして私は、私の鏡の世界で、先達のロープにしがみつき、その岩を登る。すぐ横には絶壁がある。見れば、怖くなる。進みたくなくなる。戻りたくなる。けれど同時に、足裏には確固としたとっかかりがあって、これはちょっとやそっとじゃ動かない。

登れそうな岩なら登ればいいし、登れなそうなら、引き返して他の道を探すしかない。他に選択があるだろうか。考える必要はない。

私は鏡の球体のなか、ただ淡々と続くアップダウンのある道を、食事したり眠ったり仕事をしたりして淡々と進むこと、その生き方自体を是としない自分の姿を、鏡面に見出している。是とせずこの大地に堂々と立っていることを誇っている。問題はそれなのだ。


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