書を捨てよ、街を出よう

川蝉というバンドのワガユージさんに憧れ、川蝉のレコ発でクリープハイプが前座をつとめ、尾崎世界観が打ち上げか何かでワガさんに寺山修司を薦め、それは寺山の映画を薦めたつもりだったらしいがワガさんが勘違いして本(エッセイ等)の方だと思ったらしくて、それで寺山の本の感想を書いたワガさんのブログが面白かったため16歳のぼくは本を読み始めた。
たしか最初に読んだ本が寺山修司『家出のすすめ』で、次に読んだ本が『書を捨てよ、街へ出よう』だった。これ読んでから、長年かけてその意味を理解することになったので、それをパクった『〇〇を捨てよ』系の文言には嫌気がさすことが多かったが、なんというか、ぼくにとって寺山の言う「書を捨てよ」は田村隆一の言う「言葉なんか覚えるんじゃなかった」に近い。街という名の開かれた書物を読もうと思ったら、実はよりよい読書をしなければならないし、「言葉なんか覚えるんじゃなかった」と言うためには膨大な言葉を覚えなければならない。そんなことを思った。

本というのは面白いものだ、と思いながらも、エッセイを読んでいると、わからない単語、事物が多過ぎた。書を捨てよと書いたのがアンドレ・ジッドだと言われてもアンドレ・ジッドがわからないし、太宰の死に方は駄目だと言われても太宰がわからない。で、古い本を読もうとすると知らない言葉が多過ぎて読めない。それで、中学生の時分でニュースになっていた綿矢りさや金原ひとみなどが、年上ではあるけれども比較的年代が近いわけだし、そこまでわからないことを書いてることもないだろうし読んでみようと思ったのだった。この時のぼくは綿矢りさの初期の二作よりも金原ひとみの『蛇にピアス』が気に入って、文庫版で読んだため解説も読んだのだが、村上龍氏の、〈20代特有のヒリヒリするような社会との距離感〉という言葉が気に入って、村上龍を読み始めた。で、本の面白さを知ると、本の購買、というものにも拘るようになってくる。これは人それぞれだろうが、ぼくの場合は、解説というのが好きで、単行本には収録されていない解説が収録されているのだから、文庫版の方がいいだろう、というのがあり、文庫版が存在するものに関しては文庫版を購入するようにしていた。そして本と帯の組み合わせに萌えた。
だから、文庫本の帯を捨ててしまう多くのブックオフには反感を抱いたし、そんならおれは、立ち読みだけをして立ち去ってやる、という不良ぶりを見せたりした。
そういった読書の弊害になりうる拘りというか、無駄のような指針をずっと持っていたら歯磨きをするくらいにそれが当たり前のようになってしまって、だからぼくは古臭い顔になってしまったような気がするし、それは嘘で最初から古臭い顔のような気もする。
文庫版というのは当然単行本が出版されてから数年ないしそれ以上経って出版されるものなので、どうしても時代に乗り遅れることになるのだった。
ベストセラーよりロングセラー、と田村隆一も言っていたが、実際、今何が書かれているかとか、今年何が書かれているかは大事だと思うし、既にロングセラーになったものよりも、自分にとって生涯の読書になるような本を、現行の出版物から見つけることも大事ではなかろうか、と思うのだった。
しかし、文庫版になった、解説がついたものを読みたい、という当初の気持ちが持続し過ぎたせいで、そうはならない。常に少し古い層を探る、みたいな感じになってしまった。
それはなんか、郵便で少し前に、最近完結した新聞連載の小説の切り抜きが送られてきて、送られてきたのだから読もうと思って読んでいたらそう思ったのだった。それは『黄色い家』という川上未映子の小説で、コロナ禍に於ける現代の物語で、かなりナウい。こんなにナウい小説を読むのは久しぶりだ、と思ったりしたのだった。ナウい小説を読むのは、なんだか得した気分だ。で、ぼくは脱皮とか、アトポーシスとかが好きだ。書物から飛び出して街を歩いたところでこの令和に於いては、虚しい反復が起こっているだけに見えてしまうのではないだろうか。街から飛び出した体で書物の世界に一度耽ってみてもいいのではないかと思う深夜1時だった。だったに傍点。

基本的に無駄遣いします。