落第作②

家出終盤。7月後半。
イオンの書店で吉村萬壱さんの『回遊人』を立ち読み。これも家出をするところから始まる話で、こちらは異次元に行くが、共感できるところがあり読み易い。こうやって長時間立ち読みする人間のために出版業界が廃れていくことを思うと歯がゆい、いや、しんどいが、他者を思いやれるような心の余裕も金銭的な余裕もぼくにはなかった。

〈一時的なプチ家出とは言え家族を捨てて出てきたのである。何かを掴んで帰らなければ、申し開き一つ出来ない。〉
吉村萬壱『回遊人』

ひどく心に染みながら読んで、解説にさしかかると、吉村萬壱さんが、〈もし立ち読みで読んでいるのなら続きは買ってから読んでください〉と本の中から言ってくる。文庫本を買う金も無かったので確信犯的に立ち読みで読破するつもりだったが、まるで遠くから生霊が来て叱責してくるようだった。
この小説は良く言えば人間らしい主人公、悪く言えば自分の狭小な欲望に振り回されて力を失っていく主人公の話だが、小説そのものの力はページを繰るごとに増しているようで不思議だ。いや、不思議と言ってはあまりに安易かもしれない。
ぼくはこの中から、歪んだ形でのインスピレーションを得た。今まで1度も連絡を取ろうと思ったことの無い男に連絡を取ろうと思った。
〈お金手に入るかも〉
タケシ、という名前の、その名前に似合わない痩身色白の男に連絡を取ってみた。彼はバイセクシャルで、GACKTだとかHYDEだとかローランドを思わせる色気を持っているが、ゲイの男に取り入って金を取るのを生業にしていた。いつか彼が言ってた。
「別に最初からそういう約束を取り付けなくてもいいんすよ。会って、相手に気に入られて、じゅうぶんに満足させて、おれの言うことを絶対聞くからだにするっす。女の場合は難しいっすね。女で、そういう誘いに乗るような人はだいたいホスト狂いですし、おれが得意なのは酒で楽しませることじゃなくて、ベッドで楽しませることっすけど、女たちは過程を楽しむんで、ね。おれの場合、それだと段々イラついてくるんすよね」
というような自分とはあまり関係ないような話を去年、聞いた。その時特に質問などはしなかった。何も気にならなかったというより、言っていることがよくわからなかったからだった。あとで、そのことについてというよりなんとなく彼の経歴みたいな話を聞いたりしていると上の話の中には多少の見栄があったことがわかった。東京で手を出してはいけない女に手を出して、関わってはいけない人間から追われることになったので、大阪まで逃げてきたとのことだった。大阪まで逃げれば身元がわれないなどということは無いが、ある程度の金と情報さえあればなんとかなるっす、とタケシは言ってた。

〈どうしたんすか?〉〈ゲイの人、紹介するから、2割くらいくれないかな〉〈どこっすか?〉
どこっすか、というのが、ぼくの場所なのかゲイの男の場所なのかわからなかったが、説明不足なのはぼくのほうであったし、先に準備をすることにした。
〈きょうお時間ありますか?〉
たぶんこういう場合、もう少しくだけた言い方のほうがいいのだが、ぼくはゲイに気に入られるような色気や可愛げを醸すことができない。いつも通りの感じでメッセージを送った。
〈15時からなら空いてます〉
と、10分ほどして返事が来た。平日の15時から空いてるだなんて、どんな生活をしているんだろう、と半ば浮浪者の領域に足を踏み入れようとしているぼくが思うのも滑稽ではあるが、ともかく、約束を取り付けた。知り合いで年輩好きのバイの人がいるので会わせたい、という内容のことを言った。
場所や相手のおおまかな情報を伝えて、タケシもそれで了承した。
「ホテルにはおれが先に入っとくんで、部屋番号伝えといてください。あ、相手が訝しんだら、『気に入らなかったら部屋を出てくれていい』とかてきとーに言っといてくれたらいいっすよ。顔さえ合わせたらこっちでなんとかするんで」
というのがタケシの言い分だった。
具体的に話が決まっていくと、段々と馬鹿らしく感じてきた。2割と言ってしまった以上こっちの取り分は4000円ほど。よくて6000円くらいだろう。そのために人を騙すようなことやってーーいや、実際に紹介する相手がいるわけだから騙すというほどのことではないわけだが、少なくとも今現在、初老と思しきゲイの男性は、金で男を買おうと思っているわけではない。純粋に恋愛をしようと思っているのだ。キャバクラに通いキャバ嬢を本気で好きになってしまうさほど金もなく容姿がいいわけでもない男を見ると惨めに思えたりするが、こうやって自分が関わって、その人の行動を操作するようなことをしてしまうと、さすがに罪悪感を覚えた。日雇いの現場仕事でもすればよかったじゃないか、と思ったりしたが、土工をやることや飯場に入ることは、想像するだけでうんざりするものだった。他に何か選択肢が無かったか考えようとするが、後の祭りだと思い直してやめた。

ホテルから少し離れたコンビニのイートインで待っていると、タケシからメッセージが来た。〈あと1時間待てます?〉
どういうことかと思ったが、信じることにした。こういうことをしていて、信じるという言葉はなにか異質なような気もするが、とにかく、何かを勘ぐったり、今の時点で説明を促すのはあまり意味が無いような気がした。
50分後、熱気を帯びたタケシがコンビニのイートインに来た。熱気を帯びた、と言っても、初老のゲイとのプレイに興じたことによるものという感じではなかった。何かあったのか、という顔をタケシに向けた。するとタケシは無言で、1万円札を2枚、テーブルに置いた。近くに座るサラリーマンが一瞬、怪訝そうな顔をこちらに向け、すぐに視線を戻した。
ぼくはまた、声を出さずに、どういうことだよ、という顔をタケシに向けた。
「なんでか知りたいっすか」
タケシは笑っているが、少し動悸も伝わってくる。もったいぶった言い方にいらいらしながら「うん」とぼくは言った。
「あの人、家庭持ちっすね。おそらく子供もいると思います。ってかまあ、まつもとさんはそういう知識とか経験無いだろうからしょうがないっすけど、どう考えてもポケットマネーで数万出せるような人じゃなかったっすね。で、とりあえずシャワー浴びながら考えたっす。どうやって脅すかなあって……。あっ、いつも脅してるわけじゃないっすよ。今回に関しては、脅すくらいしないと金は手に入らないなって思ったんで、脅す方法を考えてみました。っていうのがね、例えば財布の中に3万入ってたら、ぼくだったらその3万貰えるっすよ。けどね、財布の中に1万円しか無い人からね、例えばATMであと2万おろしてほしいとかって、そこまでいくともう、けっこうみじめなんすよ。みじめっていうのはぼくのほうがね。みじめな人に、人ってそんなに金を渡したいと思わないっす。不思議な話っすけどね。めっちゃ大雑把に言うと、金持ちでみじめな人はそんなにいないし、貧乏な人はだいたいみじめなんすけどね。あっ、哲学的なツッコミしないでくださいよ。うわべの話っす。財布に1万円しか無い人は自分をみじめって思うかもしれないすけど、財布に1万円しかない人間から3万円貰おうとする人間は、もっとみじめに見えるっす」
話を聞いていて、なんだか、自分のことを責められているような気持ちになり、心が痛かった。二階建のコンビニの二階のイートインなので、さほど人はいないが、もう少し小さい声で喋ってくれないかな、と思ったりした。
「で、実際何をしたの」
話を促してみた。
「あっ、すいません。ちょっと脱線しちゃってました。えっとまあ、じゃあソッコー事の成り行きを話しちゃいますけど、自分は実はバイじゃなくてゲイなんですって告白をしました。もちろん嘘っすけど。たとえ普段ノンケとかバイの男と寝たいって思ってる人でも、ぼくみたいな雰囲気の男が実はゲイですって告白したら、萌えるタイプのゲイもいるみたいっす。パッと見てあの人はそういう感じがしました。で、性癖として、自分のそういう姿を撮影したいってのがあるって言って、むこうのいちもつ咥えながら、あの人の手を頭に置かせて、まあ、ようは、イラマチオの体勢になって自分を撮影したわけっすけど、その時相手の顔も映るようにしたっす」
目の前にいるタケシという男はたしかに容姿端麗であるが、ぼくにはそういう趣味は無い。話を聞いていて段々と気持ち悪くなってきた。

つまるところが、イラマチオの動画を撮ってから、豹変し(もちろん終始演技であるが)、「てめえそれなりの金払わなかったらこの動画家族に見せるぞ!」と恫喝し、サラ金で金を借りさせたのだった。余分に1時間待たせたのはサラ金に行くための時間であった。
「あいつの財布見たら消費者金融のカード入ってたんで、まあ普通に借りれたら借りさすし、もし既に借りちゃってたら、それを俺の金で返済してから融資額を増額させて、そっから払わせるつもりだったんすけど、すんなり借りれたっす」
その話を聞いて、最初は〈2万も貰えるのか〉と思っていたぼくだったが、今となっては、2万にしてはおおごとになっちゃったな、と思うようになったし、さすがにあのおじさんをかわいそうだと思うようになってきた。そもそもぼくはゲイに対して嫌悪感はあまり無い。自分が好かれたらしんどいなというストレスはあるが、容姿のよしあしやタイプはともかく、もはやゲイの人が目をきらめかせるような年頃でもなくなったし、騙し騙される話であるならば、人生行き詰まっちゃってると思ってるぼくからするなら、言うなれば色恋沙汰で男が女に金を取られることなんてよくあることであるし、そういう場合色気で誘って男から金を取る女をそこまで悪いとは思わない。騙される男というのは女に金を取られているのではなく、自分の欲望によって自滅しているように見える。今回のケースも同じようなものだと思っていた。男同士であるが、タケシのほうは最初から籠絡する気まんまんであったが、そうだとしても女が男をおとすようなもので、落とされるほうもそれなりに自分を納得させるのではないか、と心の中で自分を納得させようとしていた。しかし恐喝、恫喝となると話は変わってくる。一見賢そうで世間慣れしているタケシだが、色々やらかしてしまったから東京からはるばる大阪まで来たのだった。今も彼は得意気な顔をしているが、やらかしてしまった類なのではないか、と思った。
まだテーブルに乗っている2万円にタケシが手を置いた。
「これ……。ほんとは5万円渡そうとしたんすけど、あの時の3万円、勝手に引かせてもらったっす」
げげっ、と思ってぼくの動悸は速まった。汚くて強いものが目の前にいると思った。その強さは、筋力だとか根性だとか、強度だとかいったものとは別次元のものだった。

昔、ゴミ収集の仕事をしていた時分、オヤジがヤクザだという人がアルバイトとして来た。組長だ、という話を聞いたような気もするし、そんな話はきいていないような気もするが、そもそもの信憑性が無かったのでどうでもいいと思っていた。ところがある日、ほんの遊びの気持ちである。歳下である彼と、賭け腕相撲をしようと言ってみた。
「いいっすよ」小太りで茶髪の彼は朗らかにそう言った。人の心が読み取れないぼくは、普通に乗り気なのだと思った。
サイハンジョ、と呼ばれる謎の場所の床で、500円だけ賭けてぼくたちは腕相撲をした。
結果はぼくの勝ちであったが、違和感があった。一瞬というのを3分割したとして、そのうちの最初の一つ、1分割目にて、相手が諦めた感触が伝わった。残りの2分割はセミのぬけがらを叩くような気分だった。
そして彼は立ち上がって、ぼくに500円を渡してから、「シンさーん、飯食い行きましょー」と言った。500円なんてどうでもいいっすよ、と彼はその表情で言っているような気がした。勝ったぼくは500円でスーパーの弁当を買って、負けた彼は会社の先輩に割烹料理屋に連れて行ってもらった。もっと高めの金額にしたらよかったんだろうか、と思ったがそういう問題じゃないような気がした。
くそ、負けた、と思った。


コンビニのイートインで残酷な話をしている男も似たような人種だと思った。ぼくはそもそも、こんな男と仲良くなるようなタイプではない。実際、こういった、いわゆるビジュアル系の男に対して、軽薄さを覚えることが多いし、ちょっと馬鹿っぽいなと思っている。嫉妬などではなく、女のように細く、髪がさらさらで、鼻筋が通っていて、というような男を美しいと思う感性がぼくにはなかったし、なにより、こういう男の話はつまらなくて馬鹿馬鹿しい、と思ったりしていた。完全に偏見だが、その偏見を思い直すつもりも無かった。
昨年、軽佻浮薄な彼の風貌にはまったく似つかわしくない酒場で彼と出くわしたことによって、ぼくは今またとても苦しい気持ちになっている。
出くわしたというより呼んだのだが、1年前のことを思い出そうとすると、出くわした、という言葉で表してしまう。
覚悟の無い行動というのは、本当に簡単に自分の心を傷付ける結果を生むな、と思いながら、ぼくは2万円を財布やズボンのポケットではなくリュックのポケットに入れた。

基本的に無駄遣いします。