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スマートボールになぞらえてただ思いつくまま書いてみたとおぼしき、いつかの長いメモ

結局、オリジナルなものしか、自分の身に沿ったものしか表現できないと身につまされる今日この頃。
昔書いた小説を読んでいたら、まさしくわたしの語り口そのものだったので、驚いた。
というか、ワラった。
語りや朗読に欠かせない抑揚がわたしはどうも苦手らしく、思いっきり表現したつもりが、あとから聴くとなんとも平坦極まりなくて、ああ、と頭を抱えてしまう。

年を経るごとにはっきりしてきたことがあって、それは、わたしの婉曲ぶりだ。直球を投げる勇気がゼロ。はずしたときのフォローが嫌すぎ苦手すぎ、

というより、本題?問題の核心?そういうところになかなか目がいかないので、ゆっくりらせんを描きながら、まったりとあちこちに軽くぶつかりながら、本題への距離を縮めていく。

たまに本題に当たってはまた離れてのたり、当たってはのたりとまわる。
うちそこなったスマートボールのクリーム色の球が、のたりのたりとらせんを描く様子が目に浮かぶ

なにかかっこよく書いているようだがこれが全然かっこよくない。スマートボールなのにまったくスマートじゃない

たとえば掃除一つとっても、一番片づけなければならないところを無意識に最後に回している

何年かぶりに昔書いた小説を読んで笑ってしまったのは、わたしの書くものがまさしくスマートボールだったからだ
書き手の頭には、主人公がただまっすぐ歩んでいる景色が見えているはずなのに、描かれる景色がスマートボールのようにゆったりと軌道をはずれて、ふいにまったく別の景色にあたる。あたったと同時に元の場所に戻るけれど、また何かのきっかけで、はずれた先へととんでいく。

そのときは、それ以外ない表現だと信じていたにもかかからず、目が回りそうだった。あっちへ飛び、戻ってはまた飛んでいく。そしてそれは平坦な飛び方なのだ。つまり、どこまでも抑揚や盛り上がりがなく、まさに平台の上を滑るスマートボールのようなのだ。

きっとこれがわたしの普段の志向なのだ。朗読や語りのときも、よくよく少なく平滑りしていく理由で、だからそれはずいぶんと根深い。

私の描く平坦な表現世界を、わたしはそれでも認めている。あえて盛り上げたいとも、抑揚をつけたいとも思わない。自分で言うのもなんだけど、「できた」と納得して発表してきた作品には、発表するに値するなにがしかの、生きるために必要不可欠な何かが含まれていると自負している。

最近は、ライフワークかと思っていたエッセイすら書かなくなって、小説らしいもののネタは浮かぶのにどうしてもPCに落とせず寝てしまう。毎晩、ほんっとうに毎晩毎晩、ストーリー性のあるはっきりした夢ばかりみてヘトヘトだから、身体にずいぶんたまっているらしい。
こいつらをいつか、のたりのたりと回したい。打ち損ねたスマートボールは横滑りして0点の穴に落ちていく。

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