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コロナと音楽フェスがあった日。

その日は、阪急電車に乗っていた。
気付けば隣に青年が座っていた。

青年は、タブレットに写し出された五線紙に音符を書き込んでいる。それはもう一心不乱と言っていいほどの勢いで、脇目もふらずに。オタマジャクシを書き、ふと天を見上げ黙考し、音符を連符に書き替えたりしている。
これは「作曲」をしているんだろう。

そして、ある程度五線紙が埋まると、今度は鍵盤が写し出されたiPhoneを取り出し、画面を指で叩いている。
これは「演奏」しているんだろう。

青年は、私が降りる駅の三つ前で降車したが、改札へ歩を進めながらも、片時も曲作りの手を止めたくないようで、タブレットとにらめっこしながら、歩いていた。
彼をそんじょそこらの歩きスマホ風情と一緒にして欲しくない。青年は、歩きながら作曲しているのだ。

私は、作曲し演奏する青年が降車した駅の三つ先で降車した。音楽フェス、に行くためだ。


コロナ禍で、ライブイベントや音楽フェスが総倒れのなか、7/18.19の2日間、大阪服部緑地野外音楽堂で「SLOW DAYS」という音楽フェスが開催された。

開催の数日前から、東京はもとより大阪でも新たに感染者の増加が顕著で、またしてもチケット払い戻しかなぁ、なぞといぶかっていたのだが、公式Twitterで以下のような発表があった。

「ここ数日間の様々な情報を収集し、スタッフ間で協議を重ねた結果、今週末SLOW DAYSを正式に開催させていただくことにいたしました! 主催として可能な限りの感染防止対策を丁寧真面目に準備し実行致しますので、ご来場のお客様もぜひご協力お願いいたします」

なんだかこの時期のイベント開催には「悲壮な決意」のようなものが滲んでいて、気の毒になる。仮にクラスタなぞ発生させようものなら袋叩きに遭うのだ。気の毒になる。

悲壮な決意で主催者が英断を下してくれたのだから、私たちは、ただただ楽しみたいと思う。

入場に際しては、大阪府によるコロナ追跡システムへその場で登録し、登録画面を提示、一定間隔を開けて並び、検温され、客自身がチケットをもぎる。

席には一つおきに養生テープが貼られ、マスクの着用を促すアナウンスが再三繰り返され、立ち上がる人もステージに声を飛ばす人もいない。

しかしながら、自分でも自分自身の感情に驚かされたのであるが、最初のバンド、Homecomingsによって電気的に増幅されたギターが鳴らされた瞬間、ひどく感傷的になった。そして、感動していた。
「デケー音っていいな」と思った。音楽っていいな、とは違う感情。単純に音のデカさへの興奮があった。

少し戻るが、この日のフェス開始前にはイベンターというのかな「清水音泉」の代表の方の挨拶があった。

そこで彼は来場の謝意を告げ、
キャパシティの四割程度の入場であること。
それでは、正直「赤」であること。
しかし、ライブを開催することは自分たちの「なりわい」であること。「生業」を続けていくことへの決意があること。

そして、今日のようなイベントを開催することは
「不急」なのかも知れないが、絶対に「不要」ではないこと。
音楽は、この空間はけして「不要」ではないこと。

を、とつとつと語っておられ、正直この日一番感銘を受けた。
音楽の調べよりも、誠実な言葉がもっとも印象に残る音楽フェスというのもまた良い。
そして、デケー音は良い。

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