新年はおめでたい?

なぜ「新年あけましておめでとうございます」と言うのか?


28回目となったお決まりのフレーズ。

年が明けると「新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。」という挨拶が飛び交う。

たしかにめでたい気がする。

だが、ふと疑問に思ってしまったのだ。

新年がなぜめでたいのか。
なぜ新年を祝うのか。

中学生までは地元の友達と大晦日の夜から集まって年越し→初詣→初日の出までキメる。それが新年の始まりだった。

また、小学生のときは両親の田舎(青森県と岩手県)に訪れ、親戚とゲームをやったり、ザリガニやどじょうを捕まえて遊んでいた。

その時はめちゃくちゃ楽しかった。

毎年例外なく


新年さいこおおおおおおおおおお!
ふうううううううううううぅぅぅうぅうぅぅぅぅぅ!


となっていた。

自分の中でも”なぜか”めでたい日だった。

しかし、よく考えてみると子供のときは新年が楽しかった理由は
【非日常をここぞとばかりに堪能出来るから】だ。

特に「親公認で夜更かしが出来ること」「お年玉が貰えること」がめでたさを後押ししていた。

日常と違う”なにか”がそこにはあって、その”なにか”を知れるときの興奮。そう、子供のころの新年は【未知なるものを追い求める冒険】だった。

しかし、いまでは新年をしっぽりと祝い、いつもと同じ時間に就寝する。

少し特別感があるとすれば、親孝行として3年前から立川志の輔師匠のカウントダウン寄せ@横浜にぎわい座に行っているくらいだろうか。

立川志の輔師匠


ぼくは落語が好きだ。

好きになったきっかけは、志の輔師匠の落語のCDをたまたま聴いたからである。

そういえば、2018年1番最後に買った本が立川志の輔さん監修の「古典落語100席」。
そのまえがきは、志の輔師匠が大好きな小咄からはじまる。

以下引用
ーーーーーー
突然ですが、私の大好きな小咄をひとつ。
〜中略〜
このおじいさんの言っていること合ってると思いませんか?
医者は確かに優秀な頭脳と判断力を持ってはいるでしょう。
でも、常識や科学で割り切れないものが世の中にはあるのだよと、
このおじいさんは言っているのです。
これが落語です。
人間です。
ーーーーーー

なぜめでたいのか調べてみる

便利な時代になったもので、少し検索してみると「出雲大社紫野教会 教会長 中島隆広さん」が下記のように教えてくれている。


以下引用
ーーーーーー
なぜめでたいのかというと、正月にはこの一年の豊作や家に幸いをもたらす神さまである「年神(としがみ)さま」がいらっしゃるからなのです。年神さまに家に来て頂くために、玄関には門松を立てます。反対に悪しき神が入ってこないようにしめ縄を張ります。そして鏡餅などは年神さまにお供えするためのものなのです。ひょっとすると、正月っぽい雰囲気を演出するための装飾じゃないの?とか思っていた人もいるかもしれませんが、そうではなくて、すべて神さまのためのものなのです。
ーーーーーー

新年のめでたさは、神さまのためにあるということなど頭からすっかり抜け落ちていた。

年が明けたことにめでたいわけではなく、1月1日には「この1年が良い年になるように神さまが来てくださる」からめでたいのだ。

なるほど。

神さま、明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い致します。


2019年はどんな年にしようかな


子供のときに感じた"なにか"はとうの昔に手に入れてしまったのだろう。

お年玉も貰う方からあげる方へと変遷した。

しかし、その"なにか"を追い求めて未知なる挑戦を今年も続けていきたい。

と、柄にもなく新年から色々と考えてしまったが、これが人間なのだろう。

最後は、私が小学6年生のときに少年野球で柵越えホームランを打ったときに、ベンチから出てきた後輩とハイタッチをしたときの話で結びとする。

ハイタッチをした直後、審判団が協議をしだした。

ほどなく解散して、私に向かってバッターアウトをコールした。

記録は、スリーベースヒットとなった。
(詳しくは覚えていないが、公認野球規則7.09h ベースコーチによる肉体的援助 )

試合ごとにレポートを書いてくれていた当時の平岩監督が審判団に向けて書き記してくれた言葉で締めたいと思う。

「うだうだ言っていないでめでたいときは
一緒に喜べジジイども! 」

つまり、なぜめでたいと考えることも必要だけど、めでたいときはなにも考えずに喜ぶのも良いよね。


神さまだけではなく、みなさまには2018年も大変お世話になりました。
本年もどうぞよろしくお願い致します。


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