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「対立するふたつのものの調和」の具体例6選 物事の二面性26

相矛盾するふたつものが調和することを説明してきた。自由と秩序も同じである。ひとつめの例は自由と秩序。

自由に走りすぎて放恣に陥ってはいけない。逆に秩序に走りすぎてがんじがらめの圧制に陥ってもいけない。バランス型中庸が大切。松下幸之助はハーモニー型中庸を提案している。以下『一日一話』から引用する。

自由と言う姿は人間の本性に適った好ましい姿で、自由の程度が高ければ高いほど、生活の向上が生み出されると言えましょう。しかし、自由の反面には、必ず秩序がなければならない。秩序の無い自由は、単なる放恣に過ぎず、社会生活の真の向上は望めないでしょう。
民主主義のもとにあっては、この自由と秩序が必ず求められ、しかも両者が日を追って高まっていくところに、進歩発展というものがあるのだと思います。そして、この自由と秩序と一見相反するような姿は、実は各人の自主性において統一されるもので、自主的な態度こそが、自由を放恣から守り、無秩序を秩序にかえる根本的な力になるのだと思います。

正しい意味での自主性があれば、自由は正しい意味での自由となり、正し意味での秩序ができると述べている。

正しい意味での自由があるから秩序が保たれ、正し意味での秩序があるから自由が保たれる。これもハーモニー型中庸である。自由と秩序という一見相反するものが、対立しながら調和し補い合いバランスをとりながら循環する。このシリーズではバランス型中庸とハーモニー型中庸を一応分けて話している。そっちの方が分かりやすいので。しかし本来は単に「中庸」と言うべきであって、「中庸」はハーモニー型中庸とバランス型中庸の両方を含む概念。自由と秩序の中庸もハーモニー型中庸とバランス型中庸の両方を含んで理解して、中庸を執らないといけない。

天才についてバランス型中庸の時に言及した。天才は合理性とインスピレーションのバランスだと述べた。そう解釈もできるが、もしかしたらバランスだけでは天才にはならず、バランスの取れた優秀な人で終わるかもしれない。天才になるにはバランスだけではなく、合理性とインスピレーションのハーモニー型中庸が必要かもしれない。ふたつめの例は合理性とインスピレーション。

合理性のある人は場合によってはガチガチの単調な人になりがち。インスピレーションにみちた人は支離滅裂になりがち。しかしハーモニー型中庸をとる天才においては、インスピレーションがあるから合理性に深みと独創性と豊かさがでてきて、合理性があるからインスピレーションに安定と説得力が出る。合理性とインスピレーションという相反するものが調和しバランスをとり補い合って循環している。

理想と現実も同じだ。理想に走る人は空論に陥りやすい。現実を見る人は理想を持たず現実を良くしない。不毛に陥りがち。バランスをとるほうが良い。しかしハーモニー型中庸を執ると言う方法もある。3つめの例は理想と現実。

良い理想を持つから現実を良い方向に変えることができ、現実を直視するから理想を現実社会に実現できる。理想と現実と言う一見相反するものが、調和し、補い合い、バランスをとりながら循環している。

『論語』泰伯篇に次の言葉がある。

書下し文
子は温にして厲し。
威にして猛ならず。
恭にして安し。

現代語訳
孔子は穏やかでありながら厳しく。
威厳がありながら高圧的ではなく。
恭しくありながら安らかであられる。

孔子はハーモニー型中庸を実現していたと分かる。威厳がある人は高圧的になりがち。穏やかな人は控えめ過ぎたりしがち。しかし孔子は威厳がありながら穏やかであった。凡人にはできるものではない。4つめの例は威厳と穏やかさ。

ハーモニー型中庸について述べてきた。相反するふたつのものが補い合う。重要なのは互いに相反する者同士だからこそ相手の足りないものを補えるという点である。倹約こそ太っ腹に足りないところを補う。逆に太っ腹だからこそ倹約に足りないところを補える。自信こそ謙虚に足りないところを補い、謙虚こそ自信に足りないところを補う。インスピレーションこそ合理性に足りないところを補い、合理性こそインスピレーションに足りないところを補う。理想こそ現実主義に足りないところを補い、現実主義こそ理想主義に足りないところを補う。『言志晩録』に次の言葉がある。

書下し文
天地の間の事物必ず対あり。相待って固し。
嘉遇怨遇を問わず、資益を相為す。
この理、須らく商思すべし。

現代語訳
天地の間にあるものはすべて対となる相手がいる。
互いに補い合ってはじめて安定する。
よい相手わるい相手どちらでも、互いに助け合い補い合っている。
この道理をよくよく考えるべきである。

陰と陽が互いに補い合う様子を的確に表現している。

『言志後録』に次の言葉がある。

書下し文
静を好み動を厭う。これを懦と謂う。
動を好み静を厭う。これを躁と謂う。
躁は物を鎮むる能わず。
懦は事を了する能わず。
ただ敬を以て動静を貫き、
躁ならず懦ならず。
然る後、よく物を鎮め、事を了す。

現代語訳
静けさを好み、動くのを嫌がる者は、怠け者である。
動くのを好み、静けさを嫌がる者は、慌て者である。
慌て者は物事を静めることができない。
怠け者は物事を完成させることができない。
ただ敬をもって動にも静にも偏らず、
慌て者でもなく、怠け者でもない者が、
物事を静め物事を完成させる。

これは動中の静、静中の動について述べている。静けさのうちに動きがあり、動きのうちに静けさがある。これは静と動のハーモニー型中庸である。5つめの例は静と動。

『論語』の有名な言葉を引用する。

書下し文
子曰く、
学びて思わざれば則ち暗し。
思いて学ばざれば則ち危し。

現代語訳
孔子が言われた。
他人から学んでも自分で考えないと、はっきりしない。
自分で考えても他人から学ばなければ、危険だ。

他人から学んでも自分で考えないと、他人の言葉を鵜呑みにしがち。また考えははっきりしない。不明瞭。読書ばかりして自分で考えない人は時々いる。自分で考えないと独創性も身につかない。学者に多い。

自分で考えるけれど他人から学ばない人もいる。SNSとかで時々いる。どんどん考えるけれど、おかしな迷路にはまり込んでいる人もいる。独断に陥る。

6つめの例は思考と学習。

登山に喩えると、他人から学んで自分で考えない人は、他人がすでに通った道を通るだけで、誰も通っていない道を歩くのを嫌がる人。古典から一歩でも離れるのを恐がる思想家がそれに該当する。それに対し自分で考えて他人から学ばない人は他人の歩んだ道は歩かず、どんどん森の中を自分の足で歩いていく。確実に迷う。

正しいのは両方を備えること。他人が通った道を歩いてみて、まず登山の感覚をつかむ。そして徐々に自分でも誰も歩いたことない道を歩いてみる。すると意外なところで、古人の歩いた道と合流したりする。正統な知識を得たうえで、独創性も身に着けられる。


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