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すぐれたものでも行き過ぎると害がある 物事の二面性19

どんなに優れた思想でも行き過ぎると害が生じる。

「お客様は神様です」という言葉がある。1961年にある人が言い出した言葉だと言う。この言葉自体は、当時としては間違えた言葉ではなかったはずである。顧客の意見を聞くことは大事であるし、大企業でも普通の一顧客に対しても横暴ができず、丁重に扱う現代日本の社会はそれ自体としては良いことかもしれない。しかしそれが行き過ぎてモンスタークレーマーがたくさん現れたのは良くないはずである。結局中庸が大切。

中庸と言っても単に中間をとると言うのではなく、その場その場で道理に基づいて何が正しい対応かを考えていけば、大企業が横暴になったりモンスタークレーマーが理不尽な要求を通したりせず、結果的に正しい中庸に落ち着くのだと思う。

モンスタークレーマ―が増えた結果、「お客様は神様です」と最初に言いだしたやつ誰だよ、と言って最初に言いだした人を犯人を捕まえたかのように槍玉に挙げる人もいる。しかし最初に言いだした人が悪いのではない。その言葉が極端化する社会を作ってしまった我々に問題がある。

公田連太郎『易経講話』の澤風大過に次の言葉がある。

世の中に害をなすところの悪い者ばかりが世の中に害をなすのではなく、世の中になくてはならぬ重要な者であっても、それが余りに多すぎ強すぎ、盛んなる時には、世の中のために大なる禍を引き起こすのである。

「コスパ」という言葉がある。「コストパフォーマンス」の略語である。「コスパ」という言葉は良い言葉だと思っている。「コスパ」という言葉はそれ自体コスパの良い言葉である。たった3文字のゴロがいい言葉で、コストとパフォーマンスという対立するふたつの要素のバランスを一瞬で把握できる。日常で使える手軽な戦略が得られる。

たとえば自分のもっている靴下がボロになってきたので、新しく買うとする。べつにファッションにこだわりはないので、なるべく丈夫で通気性が良くて安い、コスパの良い靴下を選ぼうと思う。これは非常に良い。「コスパ」という言葉の威力はなかなかのものだ。

しかし「コスパ」という言葉も行き過ぎると問題である。仕事や結婚、趣味をコスパで選ぶのは感心しないし、人生をコスパで選ぶのはどうかしている。どんな良い言葉でも行き過ぎると問題がある。

インターネットの自由やSNSでの人と人とのつながりは大切である。インターネットとSNSがもたらした良い影響は大きい。私自身インターネットとSNSがないと自分の考えを他人に伝える機会は持てなかった。良いものは世間に広がっていく。しかしその過程でどこかで途中から必ず「行き過ぎ」という現象が生じる。インターネットの自由が行き過ぎ、SNSのつながりが行き過ぎて、誹謗中傷が生じて、誹謗中傷された人が自殺するという現象も起きている。我々の自主規制は確かに必要である。

自分に正直であるのは良いことである。言い古されているほどの言葉だが、それはこの言葉が優れているから。しかしこの言葉でさえ行き過ぎてあまりにも馬鹿正直になりすぎても弊害が生じる。

さらに優れたものが行き過ぎた具体例を追記していく。

聖書には自然界は人間が支配すると言う思想がある。その思想自体は必ずしも間違えていない。しかしそれが行き過ぎて人間がやりたい放題にすると環境問題が生じてくる。逆に自然を大切にし動物も大切にするのは素晴らしい。しかしそれが行き過ぎて「生類憐みの令」のようになると悪法になる。やはり優れた思想でも行き過ぎると害になる。中庸が良い。

自由は大切である。しかし自由過ぎると無秩序になる。規律は大事である。しかし行き過ぎるとがんじがらめになる。中庸が良い。

「カオスの縁」という言葉がある。秩序と混沌の間に存在する領域。カオスの縁において複雑で豊かな現象が創発する。秩序が行き過ぎると単調になり、混沌が行き過ぎるとカオスになる。その中間にて豊かな振る舞いが見られる。これも中庸。

自然と人知の中庸についても言及する。物事は物事の自然に任せるのが良い。しかし自然に任せすぎると失敗する。場合によっては適度に人が介入する必要がある。逆に人知だけでやろうとして物事の自然に従わない場合は長期的に見て失敗する。経済でも経済は基本的に放っておくほうがいいというアダム・スミス的な考えは物事の自然に任せる考え。しかし経済は完全に放っておくと不安定になるため時々人の手が必要になると言うケインズ的な考えは人知の必要性を訴える。市場に完全に任せると恐慌になる。人知ですべて行うと共産主義になる。これらは両極端。中庸が正しい経済である。

『言志耋録』に次の言葉がある。

書下し文
君子の世俗における、宜しく沿いて溺れず、履みて陥らざるべし。
かの特立独行して、高く自ら標置するが如きは、則ちこれを中行と言うべからず。

現代語訳
優れた人が世俗と交わる方法は、世俗に合わせるが世俗に溺れず、世俗に従うが世俗に埋没しない。
世俗から離れて独行し、自分を世俗より高い地位に置くのは、中庸を得た態度とは言えない。

優れた人が世俗と交わるのは、世俗に合わせながら深入りしないのが中庸であると言う。俗世と交わり俗世に埋没するのは極端。俗世から離れて隔絶するのも極端だと言う。俗世をたしなむのが中庸。

私は儒教を学んでいる。儒教は優れた思想だ。しかし儒教すら行き過ぎると害を及ぼす。儒教は学んでもガチガチの儒者にはならないようにしている。幕末の日本では武士は儒教を学んだ。科挙が無かったのでかなりゆるい儒教。柔軟な合理性である儒教が基本にあったから日本は近代化に成功した。同時期、朝鮮半島はガチガチの儒教であった。科挙があったから。それで変化に対応できず近代化に失敗した。幕末の日本は中庸が執れていた。李氏朝鮮の儒教は行き過ぎである。「過」だ。現代日本は儒教を忘れた。足りな過ぎ。「不及」である。

私は歴史を読むとき、自分がこの時代に生まれていたら何をするだろうとぼんやりと考えながら読む。そっちの方が問題意識が生じ理解力が上がる。twitterで、ある人が言っていたが、足りない「不及」は足せばいい、しかし行き過ぎた「過」は引けないからもっと問題だ、という。現代日本の「不及」も大変ではある。儒教を分かりやすく書くのは大変。しかし当時の李氏朝鮮に生まれていたら多分もっと大変だろう。「過」はもっとやっかいである。引くのは困難をきわめるからである。

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