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短編小説 「郵便受けの赤いハンカチ」


アパートの部屋の中、私は玄関ドアにもたれて座り込んでいた。肩は小刻みに震え、呼吸は不規則で荒い。涙は止まることなく、頬を伝い、顎を滑り落ちる。手は無意識に地べたの冷たい表面を撫でていた。

視線はぼんやりと膝に固定され、視界は曇っていた。時折、唇がわずかに震え、声もなくすすり泣きが漏れる。鼻を啜る音が静かに響き、頻繁に手の甲で涙を拭い去っていた。

時が経っても、涙はまだ止まらなかった。私は玄関ドアにもたれたまま、泣き続けていた。涙は止むことなく、私の頬を濡らし、手は膝に伸びて、その冷たさを感じ取った。
そのとき、外からハイヒールのような足音で階段を登ってくる音が聞こえてきた。足音はドアの前を通り過ぎて行った。しかし間もなくして戻ってきた。ドアの郵便受けが開く音がし、そこから女性の声が聞こえた。

「泣いているの?」その声は心配そうで、優しい響きがあった。

私は答えられず、ただ涙を流し続けるだけだった。声をかけてくれた人は、しばらくの間、何も言わずにそこにいて、やがて静かに郵便受けを閉じ、足音が遠のいていった。その優しい声と足音だけが、私の孤独な泣き声に寄り添うようにそこに残っていた。

女性が去った後、私は涙に暮れていると、しばらくして再び足音が聞こえてきた。今度はもっと慎重に、ゆっくりと近づいてくる。郵便受けが再び開く音がし、さっきの女性の声がした。

「これ使って」女性はそう言って去っていった。

そっと目を上げて郵便受けを見ると、チャック袋に入った真っ赤なハンカチがそこに置かれていた。私は手を伸ばし、手に取り、取り出しゆっくりと顔を拭った。ハンカチは柔らかく、温かみがあった。ハンカチの優しさが、私の濡れた頬を優しく包む。涙を拭い取るたびに、何とも言えない心地よさが広がった。私はそのハンカチを握りしめ、少し落ち着きを取り戻し始めた。女性の思いやりに、心の中で静かに感謝した。

またしばらくすると、外から足音が聞こえてきた。それは再び私のドアの前で止まり、郵便受けが静かに開いた。ハンカチをくれた女性の声が、やわらかく問いかけた。

「どうして泣いているの?」

私はその質問に無言で答えた。涙はまだ頬を伝い、声を出す気力もなかった。ただ静かに、女性の存在を感じていた。彼女はしばらく無言で待っていたが、私が答えないことを理解すると、ゆっくりと郵便受けを閉じた。

再び郵便受けが静かに開くと、ハンカチの女性の声が聞こえてきた。今回は、彼女自身の辛い話を始めた。

「私もね、色々大変なことがあって」と彼女は言い始めた。

「私はね、別の顔を持っているの。でも、それが私にとっては救いなの」と彼女は続けた。彼女の言葉には何か隠された意味があるように思えた。それは表面上は明るく聞こえたが、その背後には深い影があるように。

「もし、あなたも何か変わりたいことがあるなら、一緒に来ない?」彼女の提案は、心配りと同時に、ある種の誘いのようにも聞こえた。

私は黙って彼女の話を聞き続けた。彼女の言葉は、何か新しい始まりを予感させるものだった。私はまだその意味を完全には理解できていなかったが、彼女の言葉にはある種の魅力があった。

しばらくの沈黙の後、私は心の奥から湧き上がってくる言葉に従って、自分の話を始めた。

「実は、彼氏に振られたの。だから……」私の声は震えていて、言葉は涙に混じっていた。

郵便受けの向こうから、ハンカチの女性が優しく答えた。

「辛いわね。でも、泣けるあなたは強いわ。涙は洗い流してくれるから」彼女の声は暖かく、慰めに満ちていた。

彼女の言葉を聞いて、私は少しホッとした。彼女の存在は、このつらい夜に灯台のように感じられた。私は彼女に感謝し、心の中で彼女の言葉を繰り返した。 

その時、ハンカチの女性が再び言葉をかけてきた。

「どう、一緒に来ない?」彼女の声は誘うようで、新しい可能性を感じさせてくれた。

一瞬の沈黙の後、私はゆっくりと立ち上がり、ドアの鍵を外した。ドアを開ける手は少し震えていた。

ドアが開き、新しい章が始まる予感が私を包み込む。




時間を割いてくれて、ありがとうございました。
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