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平穏が人生のきらめき

サラリーマンしていたときは、いつもいつも時間に追われていました。そのため何も考えずに済みました。この「忙しさ」というのは意外と効いていて、鬱にならず逆に健常な精神状態の維持に貢献していたという実感があります。


しかし、2018年の後半から人生の潮目が変わったようで、仕事がラクになってきたんです。するとどうでしょう。「人が生きる目的はなんなのか」という思春期に思い悩むようなテーマが、再び現れて結構苦しみました。このテーマ、答えがないように思うんです。


生きる意味や目的をもって生まれてきていない。最初からないので探しても見つからない。答えはないけど、"ない"では済まない。


“目的は最初からない”
“なくて当然。自分の生に意志は元々ない”
“自分が決めたものがそれになる”
“天命はある、それを見つけるべし”


とかって読んだり、聞いたりするんですけど、そんなんでは心の苦しみから逃れられない。


生きることは大変なんだという、そういうふうに思って生きることは、諦めであり、そう思い定めて生きるには、人生は長すぎると思うんです。


カルト教団とか、くわしく知らないですけど、そういう団体の思想の中では、人が生きる目的を示していたりするんでしょうね。その団体の世界観があるから、その中で人の生きる意味を規定してたりするから、生きる意味に苦しむ人はそこにハマったりするのかと思ったりします。


オウム真理教の信者で死刑囚となった横瀬健一という方は、入信の理由が、家電製品が値引きされて価値が下がっていくことに無常観を感じた、というようなことだと説明されていたように覚えています。僕には正直ぜんぜん分からない感傷ですが、そんなささいなことが琴線にふれて、生きることに疑問を持ち、それは教団での宗教的体験に答えがあるように思ったのでしょう。


だいぶ苦しんだんじゃないかと思います。僕はそう感じたから。


さて、やはり答えはない。架空の世界観に真理は当然ない。では少なくともどうなっているなら、生きてていいと思えるのか。過去の苦しみや辛さから生きるのが嫌になっているわけで、未来も過去の延長で思いめぐらせるから、闇と見えるわけですが、それなしに、全部リセットしたとして、どうなっているなら、生きててもいいと思えるのか。


このような、正しく順序立てて考えてからの結論ではなかったのですけと、2021年のある日に降ってきたんです。日差しを感じて、ただ膝を抱いて座ってていいなら、生きていたいと。


日を浴びてただ膝を抱き、座っているだけ。それなら生きていたい。これってなんだろう?
そこには生きる意味が何かあるという感じではない。それはただ、そういう状態を求めているだけ。


どうやら僕は“平穏”を求めている。
時間やお金や自由は、そのために欲しいのであって、手段でしかない。
平穏な日常なら、生きていたい。
ただ平穏であることが、きらめき。


つまらない答えですね。


そうなんですけど、そういう思うようなると、平穏は日常の端々にあることに気が付き、味わうようになりました。サラリーマンをやめて自分のペースで生き始めると、さらに増えました。なかなか生きやすい。


そうなれるなら、次には、やりたいことが見えてくる。


内向的であること、これ自体にフォーカスして、あーだこーだと考え込んだりするより、それはそれで置いといて、自分はどうありたいのか、現実はともかく何がしたいのか、好きなのか、ということにフォーカスしていきたいですね。

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