翼をひらくとき⑧

花のように、鳥のように

 関東地方が梅雨に入る少し前に、慶子は佳子と熱海に出かけた。佳子は派遣先が決まり、いよいよ翌月から仕事を始めることになったのだ。そうなると、今までのような自由な時間は少なくなる。
「その前に一泊どこか行かない? 子どもはダンナに預けてさ」
と、佳子に誘われたのだ。慶子は気乗りしなかったのだが、孝一に投げたところ、
「いいじゃん、そういうの。行っておいでよ」
と背中を押された。満も、ママがいないと悲しむかと思いきや、
「パパとネンネする!」
と逆に嬉しそうにされた。もうママ離れの時が来ているのかもしれない。慶子もそれなら、と出かけることにした。
 佳子は行き先や宿のみならず、駅弁を買う場所、途中下車して小田原城見学、熱海では何処を散歩し、何時の送迎バスで宿へ向かう、と綿密に計画を立ててくれた。
「すごい、ばっちり」
「ふふふ、わたし、こういうの考える、大好き」
 こうして、受け身で出かけた小旅行だったが、東海道線のグリーン席に昇り、薄曇りの海岸線を眺めているうちに、慶子も旅情に浸りはじめた。駅弁広げて突く気ままさに、自由だった独身時代を思い出す。満がグリーンピースを残さないように見張る必要も、魚に骨があるかしら、と心配する必要もない。
「シウマイ弁当、やっぱり最高ね」
と、佳子とお茶で乾杯する。
 だが、小田原城の見学を終わった辺りから、天気が崩れてきた。駅に戻るとざあざあ降りとなり、二人とも肩を濡らしてしまった。
「昨日天気予報を見たときは、持ちそうだったのに」
スマホで改めて見ると、今日明日と雨のようだ。
「最近の異常気象には、天気予報も追いついてけないよね」
 再び東海道線に乗車する。座席に落ち着くと、二人とも言葉少ない。外を見るが、雨に覆われた窓は何も映っていない白いスクリーンのようだ。今朝、早起きして夫と子どもの食事の準備をしてから家を出たのは、佳子も同じだろう。その上、小田原では結構な距離を歩いた。熱海まで二十分ちょっとある。しばしの休憩を身体が喜んでいる。
 熱海では、海岸を散歩する予定だったが、雨足が強いのでそのままホテルに直行した。佳子が選んだホテルは高台にあり、ロビーのティーサロンは海に面している。小腹が空いたのでまずはお茶することにした。
「絶景ね」
 小雨となったとはいえ、まだ降っていて、空と海の境界線がはっきりしない。
「うん、ぼやけてるけどね」
と応えながら、慶子は、この景色をどこかで見たことがあるような気がした。お茶を待ちながら、ぼんやりと向かいに座る佳子を眺める。首元のペンダントに目が行った。
「それ、この前も着けてたよね。素敵。ティファニー?」
 と聞くと、佳子が上目遣いで謎めいた笑みを浮かべる。
「ううん、違う。昔ロンドンで働いていた時の、職場の同僚からのサヨナラプレゼントなの。ーー何のモチーフだと思う?」
 佳子は首からネックレスを外し、慶子に渡す。手にすると、佳子の体温が移っていてほの温かい。ペンダント・ヘッドは一センチほどの小さなものだ。プラチナかと思ったが、職場からのプレゼントならシルバーだろうか。
「鳥?」
 慶子はペンダント・ヘッドを手の平に乗せて吟味する。頭部分から四本の足が伸びているデザインなのだが、翼を開きかけた鳥のようであり、フリージアか何かの花を逆さにしたようでもある。頭部分からの曲線は、なだらかだけど力強さがありーーそのとき、慶子はまた既視感があった。このデザイン、わたし知ってる。ティファニーではないのなら、どこのだろうか。
「違う。あのね、」
 佳子はテーブルの上に身を乗りだして、慶子の耳に口を寄せる。
「ーーこれ、女性のセンシティブなところのフォルムなんだって」
というではないか。慶子は、一瞬何のことかわからなかった。
「ハハハ、笑っちゃうでしょ? ロンドンっ子ってこういう感じなのよ。やたらにオープンで」
 慶子はようやく合点がいき、思わず頬を赤らめ、
「こんな形なんだ」
と、無知をさらけ出す。
「うん、身体の表面から見えない部分も含むとこういうフォルムらしい。ロンドンの同僚の何人かでわたしへのフェアウェル・プレゼントを探しに、面白いものが置いてあるデザイン・ブティックに行って見つけたんだって。イギリスの女性って性的なことに関してほんとオープンでね、でもその彼女達も『へえ、こんな形なんだ』ってそのときに知ったそう。最後の日、仕事終わってパブでお別れパーティをして貰って、そこでこのプレゼントを貰って、まあ盛り上がったわよね。その時に若い子が、『オトコの身体はよーく知っているのに、自分の身体は知らなかった、ガハハ』みたいこと言うから皆で笑ったんだけど、ちょっと考えちゃった。だって、変じゃない?」
 
 はじめはどんな顔をして聞いたら良いのか、と慶子も戸惑っていたが、なるほど変な話だ。出産も経験し、自分の身体の全てを知っているつもりだったが、慶子も自分のもっとも敏感なところがどういう形をしているのか知らなかった。知らなかったことすら、知らなかった。でも自分の身体のことも知らないだなんて、確かにおかしい話だ。佳子は続ける。
「そう言っても、中々着ける気になれずにいたの。やっぱりどぎまぎしちゃってさ。ほんと最近のことよ、気温上がってきたからゴールドは暑苦しいなぁ、って思って、手持ちのアクセサリーみていたらこれが目についてね。言わなければ何のフォルムかわからないし、それに、これ、きれいじゃない?」
 慶子は、手の平に乗せたペンダント・ヘッドをじーっと見つめながら、幾度か肯いた。
 性の話は昔から苦手だった。高校時代に友達とふざけてアダルトビデオを観たことがある。女が男の餌食になるという筋書きだったこともあり、途中から皆して気持ち悪くなり、停めてしまった。今でも映画やドラマでもベッドシーンがあると、それがどんなに有名な女優だろうが、男達の慰めものになっているようで気の毒に思えてしまう。男目線で撮られているからなのだろうか。
 それにしても、男の性は「男らしい」とされているが、女の性となると「女らしい」とはならず、卑猥なもの、かわいそうなもの、はしたないもの、となる。そう思わなければよいのだが、擦り込まれてしまった価値観はそう簡単には拭えない。
 けれど、このペンダント・ヘッドは美しい。ナチュラルな丸みは優しさと力強さが宿っていてエレガントでさえある。手の平の上に乗せると今にも飛び立ちそうな躍動感に満ちている。「わたしの中にもこんな美しいものが存在するんだ」と思うと何か嬉しくなった。
「うん、とってもきれいね」
 佳子に返しながら、慶子も同じものが欲しいと思った。ロンドンでしか手に入らないのだろうか。今度、ロンドンに出張に行くときに「買ってきて」と頼んだら、孝一はどんな顔をするだろう。そんなことを考えて一人でほくそ笑んでいるところに、三段のスタンドに乗せられたアフタヌーン・ティー・セットが運ばれて来た。
「うわ、すごい!」
二人とも、目も心もそっちに奪われた。

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