見出し画像

現代文の神様に何度も救われた私の話

#現代文がすき

というハッシュタグを見かけ、書かずにはいられなかった。私にとって「現代文」という科目は受験、日常生活、さらには私自身の心の持ちようにまで影響を与えた大事な、そしてお世話になった科目である。これまでの感謝、そしてこれからもよろしくお願いしますの気持ちを込めて現代文の神様に私の文章をもって捧げようと思う。

※注意※
自慢が随所に出ています。許してください。またオカルト的な表現を含みます(?)。

現代文の神様との出会い

現代文の神様は私を愛してくれたようだ。中高の6年間で何度も何度もそう感じた。小学生の頃から勉強は苦手じゃなかったが、中学生になって最初の模試の国語で、学年でだいぶ上の方の成績をとった。その次も、次の次の模試も同じだった。全国の偏差値で言うと70くらいを彷徨っていた。こんな状況がずっと続くことに気がつくにつれ、わかり始めた。「私、現代文の神様に愛されてるんだ」。結局中高合わせても現代文でスランプに陥ることなく、受験期を駆け抜けた。

現代文の神様に愛されているサイン

現代文の神様に愛されたものとして、確かに他の科目と違った感覚があった。現代文の問題を解く手順としては、長文を読む→設問にある選択肢から答えを選ぶ、または設問の要求に対して答えを記述すると言うものだろう。
選択肢の問題の場合、内容に合っている選択肢が光って見える
記述式の場合は、長文の中にある記述に含めるべき部分が光って見える
問題を解く前から、最初に長文を読んだ時点で、文章のどこで何が語られているのかが色のようなもので感じられるのだ。パートごとに自然と切り分けることができ、読みづらさを感じなくなる。

なぜ現代文が得意なのか

現代文は一般に、短期間で劇的に成績を向上させるのが難しい科目と言われている。私も成績を伸ばそうと思って伸ばしたわけではなく元々読解力があり、なぜかできただけのことなのだ。その理由を考えると真っ先に幼少期の読書体験が挙げられる。昔から母親に図書館に連れて行かれ、寝る前には読み聞かせの時間が当たり前のように合った。たまにテレビで見るような天才のように、小さな頃から難しそうな本を読むようなことはなかったが、逆に自分が好きな本ばかりを読んでいたことで読書を嫌いにならずにすんだ。今まで途切れることなく様々な本を読んできたことが知らず知らずのうちに読解力を鍛える結果になったのだと思う。

現代文が得意でよかったこと

現代文の神様に愛されたことで様々な恩恵を受けてきた。それらの一部を列挙していく。

説明書を熟読する癖がついた

例えば初めて使う機械に触れる時、説明書を熟読する癖がついていることで慣れるまでの時間短縮になっている。その場に複数人いる場合、説明書をしっかり読む人は意外にも少ないので周りの人の役に立てることもよくある。

新聞や本を読むのが全く苦じゃない

最近トレンドの探究学習で文献にあたるときなど、大量の活字に触れる機会はまだまだたくさんある。活字に慣れていることで情報社会と言われるこの世界をうまく渡り歩けているような気がする。

文章を書くのが楽しい

やたら文章を書く機会は訪れるが、文章を書くのが好きだとそれが苦にならなくなる。例えばレポートを書くときのしんどさが他の人と比べるとかなり少ない方であるはずだ。

科目としての「現代文」が精神を安定させた

他の科目の成績が芳しくなくても、「でも現代文はできる!」と言う自信は自己肯定感までも高めてくれた。

現代文という科目が得意であることで、最近受験問題としてたまに見かける「総合問題」にも対応でき、勉強以外の面でもたくさんの恩恵を受けている。現代文の神様、私を何度も救ってくださりありがとうございました。これからも読解力を武器に社会の荒波に揉まれつつ頑張ります。よろしくお願いします。

最後に言いたい。現代文は楽しい

おわり




この記事が参加している募集

現代文がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?