戦前の大学医学部 旧帝大と旧制六医科大学

以前医学部の学閥について書いた。


旧帝大は割と知られているが旧制六医大についてはあまり馴染みがないと思う。
しかし、医学教育史上、また今の医療事情を知る上で大事な学校群である。

江戸時代は医師国家試験などなく、医師は自称であった。
多くは漢方医であった。

明治の初めになると各地に県立病院と県の医学校が設立され各県ごとにバラバラに西洋医学教育がなされるようになったが、教育レベルも教員の質も担保されていなかった。
近代的な西洋医学をきちんと教える学校を整備する必要があった。

当初は全国を8つくらいのブロックに分けてそれぞれに帝国大学を設立する予定であった。
帝国大学の医学部でこれら医学校の教員を養成するシステムを作ろうとした。

初めに東京帝国大学(今の東大)ができた。
ここで最初の大学医学部ができる。
簡単にできたように書いたがこれはこれで大変であったのだが。

つぎに京都帝国大学(今の京大)ができるのだが、だいぶ先の話になる。その間医師の養成をしないわけにはいかない。
東大と京大はしばしばセットのように言われるがセットで設立されたわけではないのだ。

なぜ京大設立が遅くなったのかというと、今もそうだが、予算がない

さらに問題なのは学生がいない
小学校は読み書きそろばんと日本に昔からある教育なので教員もなんとかできないことはなかったが、帝国大学で教えるのは洋学である。先生もいなければ学生もいない。英語なんて誰もできないのである。

高等中学校(旧制高等学校


まず、東大に入る前段階の基礎教育をする東京大学予備門という学校ができた。これがのちに第一高等中学校、その後第一高等学校と名称を変え、戦後は東京大学教養学部になるのである。
この高等中学校(後の旧制高等学校)は今の大学1-2年生にあたる。

高等中学校は京都帝国大学ができるまでに国立の第一〜第五の5校(番号は設立順ではなく学区を表している)に加え、長州藩、薩摩藩関係者により山口高等中学校と鹿児島高等中学造士館の計7校が設立された。

問題がもう一つあった。
当時は日清戦争の前である。負ける可能性がかなりあった。

そうなると京都帝国大学どころの話ではない。
帝国大学は東京に1校だけになる可能性も高かった。
また当時は、世の中全体がまだ貧しかった。
多くの学生が高等中学校で修了し社会に出ることも考えなければならない。
なので高等中学校にも帝国大学と同じように学部を置き専門教育ができるようにしたらしい。

県の医学校から高等中学校医学部へ


まず、第一〜第五の5校の高等中学校に他学部に先駆け医学部が設立された。正規の医学教育の場が東大だけというのは困るからであろう。
明治20年のことである。
ちなみに一部で医学部以外に法学部、工学部もできたが、他にいい学校がたくさんあり、改めて設立する意味があまりないためすぐに廃れてしまった。
そのため医学部だけに特異な学校群ができたのである。

第一高等中学校(高等学校) 東京  (医学部は千葉)
第二高等中学校(高等学校) 仙台  
第三高等中学校(高等学校) 京都  (医学部は岡山)
第四高等中学校(高等学校) 金沢 
第五高等中学校(高等学校) 熊本  (医学部は長崎)

本部と医学部の場所が違っていたりするのは医学部を新しく設立するというよりはすでにあった県医学校を移管したからである。

さらにこの明治20年には府・県立医学校は地方税で運用してはならない、つまり附属病院の収入だけで運営せよ、という勅令が出され、国立に移管されなかった公立医学校は大阪、京都、愛知以外は全て廃校に追い込まれていく。
京都帝国大学医科大学が設立されるのは明治32年なのでそれ以前の話である。

第二高等中学校医学部はのちに東北帝国大学医学部になりこのグループから外れる。

第三高等中学校医学部(のちの岡山大学医学部)は岡山にあって、京都からかなり離れている。これは当初は京都府の医学校(今の京都府立医大)を移管する予定だったのだが京都人の激しい反発に遭い断念し、岡山県の医学校を移管したためである。
京都帝国大学ができるまで、ここが西日本医学界の頂点となった。岡山大学医学部が中国四国地方に今も強力な勢力を保っているのはこういった事情があるのだ。
もし京都の医学校を予定通り移管していればその後京都帝国大学に吸収されて消滅し、今の京都府立医大は存在しなかっただろう。

高等中学校医学部から旧制医科大学へ


その後 大正11年に県の医学校から国に移管してかろうじて生き残った新潟医科大学、熊本医科大学を加えた6校が単科の医科大学に昇格し、旧制六医大と呼ばれるようになるのである。
のちにこれら医科大学は戦後に他の学校を従えて国立総合大学となるが、一般の地方国立大学より格上感があるのは戦前からの大学が中核になっているからである。

同じ頃、京都府の医学校も京都府立医科大学になった。国立に移管せずに明治時代から現在まで生き残っているのは京都府立医大のみである。すぐ近くに帝国大学医学部ができても潰れなかったのだから大変なことだったろう。

知っての通り、心配されていた日清、日露戦争には勝利し、以後帝国大学が次々設立され、医学部も設立されていく。
大阪、愛知の医学校はその後紆余曲折あるがそれぞれ大阪帝国大学医学部、名古屋帝国大学医学部に移管される。

後からできた帝国大学の方がこれら医科大学より格上であった。設立時旧制高等学校相当だったものが後から医科大学になったからである。
戦前はその辺がはっきりしている。

以上のように
・国立は旧帝国大学、旧制六医科大学
・公立は京都府立医科大学
・私立は慶応義塾大学と東京慈恵会医科大学と日本医科大学

基本的にはこれらが戦前からある大学医学部で、今でも日本の医学界の中心なのである。

その他に医学専門学校という学校もあった


私立では大学に昇格せず医学専門学校として生き残ったところもある。
医学専門学校は大学より修業年数が3年短いが、医師になることができた。
戦時中には医師不足となり臨時に国公私立の医学専門学校も設立された。旧帝大などにも臨時で医学専門部が併設されたりした。
戦後になってからこれらは大学に昇格し、今は全て同じ大学の扱いだが、戦前は専門学校であったのでどうしても格下の扱いなのである。

同じことが他の学部でもあるのだが、通常は卒業したら会社に就職するのでどこの大学を出たかよりもどこの社員であるかの方が重要であろうから、比較的問題にならない。

だが、医師の世界では最近まで医学部卒業後は出身大学の医局に入ることが多かったのと各大学が地域医療に深く関わっているので出身大学ごとに縦割りな傾向があり、どうしても出身大学の序列感が卒業後もいつまでも残ってしまうのだ。




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