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【古代戦士ハニワット】蚩尤収めの戦術・戦略(第一部前半戦までを題材に)

古代戦士ハニワット全体に対する重大なネタバレを含みます。単行本を9巻まで未読の方はご注意ください。

ハニワットのお話のメインは蚩尤収めと呼ばれる神と人の戦いの儀式です。作中の人々はそれぞれのユニークな立場や都合によって独自の思惑や、都合、来歴、戦略をもってこの「蚩尤収め」に関わっていきます。

あたかも描写しにくい混沌とした現実の「社会」のありさまそのものを描こうとしているかのようです。

ハニワットの魅力の一つは群像劇なのですが、それは必ずしもキャラクターや設定だけに寄りかかった空虚なものではありません、それぞれの立場の人物や所属する団体が、その歴史や思想、信条の系譜を丸ごと抱えているかのような複雑で奥行きのある造詣がなされています。

蚩尤収めは本質的には「おもてなし」の性質を持った「戦い」です。それぞれの立場や所属によってその戦いに対するスタンス、実際の戦術や戦略も多様に描き分けられています。今回は冬の同人誌制作に向けて思考を整理する目的も加えてハニワット作中の「戦術・戦略」について述べてみたい思います。後半に行けば行くほど戦術面の描写はアクションシーンの増加に伴い加速度的に増加しておもしろくなっていきます、といっても全てのエピソードについて詳細に述べるとすさまじい分量になりますし、それは同人誌に譲って、今回は題材として第一部・前半戦(いわゆる仁戦)をメインに見ていこうかと思います。

もともとハニヒトリで話すつもりの内容でしたが、最近体調的に長時間話すのが苦痛なのと、アプリの調子が悪く何回もスペースが止まってしまったので悠長ですが文章にしてみました。

それとこの文章を書こうとした発想のインスピレーション全般を同人誌仲間のイージーゴアさんのスペースで語られていた戸隠系の埴輪徒が受けていた寺社会議系の教育についてのお話から受けたので、この場で感謝を述べておきます。ありがとうございました。

ハニワットに登場する「陣営」達

ハニワット作中の人物集団を大きく2種類に分けるとすると、元々蚩尤や埴輪徒に関わりのない「一般社会・一般人」側と蚩尤収めをやる「寺社側」に分けられます。

一般社会・一般人は我々のよく知る現代日本における一般社会の事です。ただ、一般人も蚩尤収めに対する距離感によって寺社側に回ったり、協力関係、あるいはまったく独自の目的に従って行動をとることがあります。吾郷さんやコトちゃん、丁さんは物語が進むにしたがって協力側に加わっていきます。

寺社側は厳密にいうと寺社会議の事ではありません。寺社会議は寺社勢力側ではありますが、また独自の立場をとる中央集権的性格を持つ組織であることが描写されているからです。

さらにその他の寺社側も全く一枚岩ではありません。基本的に寺社勢力は各地の有名神社の集合体であり、それぞれの地元を守っているだけで、昔でいうところの国衆のような存在です。そしてその協力体制も非常に偏りがあり、戸隠や出羽のように協力関係にある寺社や土地もあれば、ほぼ敵対関係と呼べるほど険悪な寺社もあります。彼らに共通する目的は「蚩尤収めを成功させる」というその一点だけですが、そうであっても対立や消極的な協力拒否など事実蚩尤収めの足を引っ張る行動を起こすこともままあります。そのあたりの描写は現実社会における政治に極めて近く、ハニワットが大人向けの作品として鑑賞できる非常に秀逸な点になっていると思っています。

そして寺社側とも寺社会議側とも少し違った距離感を持つ集団が「ヤヨイ・オグナと凛」の陣営です。彼らは基本的には寺社会議の支援を受けているようですが、その思惑や目的は超然的であり、現時点で読み切ることができません。ハニワットが進むにつれ明らかになるのを待つしかない状態です。

前置きが長くなりましたが、このように極めて複雑怪奇に絡み合った陣営関係に加えて個々の登場人物の思惑によって物語はさらに混迷を極めるかの如く毎回先の読めない展開が描かれます。しかしながらこの膨大な陣営と人の織り成すケイオスな話が「蚩尤収め」という骨太の展開軸に沿って、すっきりと流れるように読むことができるのです。むしろこのような群像的あれこれのサイドストーリーに近い話は最初に一度読んだ程度では意識に引っ掛かることも難しい。そこが「ハニワット」にストーリーテリングの妙技が詰まっている箇所だと思います。

仁の対処戦術

物語において蚩尤に第一種接近遭遇するのは戸隠神宮に所属している埴輪徒・仁です。

ここは非常に大きな意味を持っていて、つまり以降の話はずっと蚩尤禍が収まらないで続いていきますし、蚩尤に対する対処が知見として日本、そして明確には語られませんが世界に蓄積しているので大きな社会的混乱や問題が起こることは少なくなっていきます。対処に慣れたがゆえに起こるハプニングや新たな大規模被害を起こす蚩尤による混乱みたいなものは起こっていきますが、この初めの仁と蚩尤の遭遇のシーンほどあらゆる状況の先行きが見えない描写ではありません。世代的に仁の先代にあたるミソノ権宮司、あるいは先々代くらいまで信州あたりの埴輪徒には蚩尤収めの経験は無い事が第二部で示唆されているので、この仁の第一種接近遭遇はとても貴重なシーンなのです

ですからこのシーンは非常に濃密に詳細に描かれていて、今流行りの言い方で言うと話の解像度が高い描き方になっています。

仁は蚩尤と遭遇してすぐ所轄の連絡先に対する通報と、市民の誘導を優先させます。120点の初期対応です。これなど彼ら戸隠神宮系の教育と訓練を受けた埴輪徒が何を優先させて育てられているか、そして仁の練度が高いかを端的に表しています。戸隠系埴輪徒は少なくとも現代社会の秩序や、市民の生命や生活を守るために蚩尤収めに臨んでいるのです。また、もし蚩尤を「敵」蚩尤収めを「戦闘」とみるならばこれは「会敵」という状況なのですが、仁に緊迫感や闘争心はありますがエイリアン・攻撃者に対する憎悪や敵対反応というものはまだありません。蚩尤は埴輪徒として戦うべき相手であるとともに、神であるため人として対応、おもてなしする相手だということを十分理解しているのです。蚩尤を目にした仁にはある種畏怖の念が読み取れるような表情すらしています。神に対しての畏敬の方が強く描かれてないのは物語として蚩尤と人の関係性を固定的に初めから見せたくなかったからなのかもわかりません。ここでは仁の目線を通してなんだかよくわからない強大な存在に対する畏怖とか不思議の方が強く描かれているように思います。

実際の蚩尤収め、特殊祭祀が始めるにつれ徐々に仁の戦士としての性格が強く出て闘争心や功名心復讐心が勝ってきます。しかしこの初めの仁と三角頭の遭遇周りのエピソードは非常に独特の距離感をとる雰囲気で、ハニワットという作品における蚩尤と人の「なんかちょっとよくわからないが畏れるべきものである関係」を代表して描いている気がして興味深いです。

戸隠神宮の戦略ミスはなぜ起きたか

さて、その仁が所属する戸隠神宮なのですが、仁の三角頭戦は初めの蚩尤収め、特殊祭祀の描写という事でこれも詳細にいろんな「初めて」が描かれます。

まずはハニワットの特徴である「祭祀」がパソコンやオンラインネットワーク、ドローンなどの「現代テクノロジー」と融合してもいかんなく行われるという事が語られます。権宮司の言う通り「使えるものは何でも使う」という現実的な発想に支えられています。第二第三の蚩尤が出現したときも埴輪徒や巫女隊弓隊などのフロントオフィサーだけでなく、戦線を支えるバックオフィサーが十分な通信能力や運搬、設営、いわば現実的な兵站能力に基づいて運営されていることを表しています。物語後半になればなるほどこの部分の描写は現代的リアリティがあり面白くなるので是非第二部後半までお読みください。

戸隠の作戦室では次に蚩尤の戦型というか「型」の診断を行うという流れが強調されています。蚩尤は一体一体独自の「型」を持つという発想を戸隠神宮は持っているからです。のちに明らかになることですが戸隠神宮は寺社会議を強力な後ろ盾にして、大学教育を中心に据えた超寺社派の教育体制を採用しているモデルのような神社です。そしてこの「型」にこだわる発想というのはのちのちまで物語に大きな影響を与えます。この蚩尤が「型」をもつという発想は、戸隠系の人たちによる戦略知見であることは強調されます。しかし実際は蚩尤は形状を何度も変化していて、戸隠の権宮司もそれを確認し「変化型」などといっているにもかかわらず臍の形状などの特徴から三角頭をとりあえず「剣技型」と診断してしまいます。

蚩尤が「型」を持つという発想が土台になっている以上「型」が変化するという認識に着地してしまっているのです。だから変化型というとらえ方なのですが、これも後半で語られる事実とは少し異なるのです。

読み進めるにしたがってこの「型」先行の判断基準が安易であったために仁は大きな深手を負うという形になります。しかし非常に根拠の乏しい診断基準に従って戦略的判断してしまったというのが権宮司から初戦後に語られています。人も少ない、経験もない、正確な知識もない、そういう中で偶発的に起こってしまったのが「仁VS三角頭戦」だったので仕方がないと言えば仕方がないのですが払った犠牲は大きすぎました。

ここにもしハニワットの物語としての抽象性をみるなら「物事は通り一遍の見た目で判断はできない」というニュアンスを感じます。実際これから先、判断を間違う戸隠系の構成員は全員寺社会議型の教育の上で得られる「安易な定説による判断」に縛られている事によって玉砕や誤謬してしまうのですから、非常に注意深く描かれている問題だと思います。

学校教育では一度にたくさんの生徒に安定的に知識や技術を教えるためにもちろん「定説」を教えます。それは必要なことで、ちゃんと行われなければなりません。ただそれは必ずしも体験知や定説以外の知を伴っているかどうかについては検討されていません。そこは教師と生徒の質にゆだねられている問題です。ただ、定説には主要な研究によって担保された「エビデンス(根拠)」があるだけです。もちろん多くの場合そのエビデンスは無視してよいものなどではありませんが同時にそれがどういう研究によって成り立っていてエビデンスの強さが現実にちゃんと保障されているものなのかは極めて用心深く(常に)吟味していかなくてはいけません。

ちなみに専門家の意見、権威の意見は最も低いエビデンスレベルの一つとされています。考古学の世界でも偽造や捏造の問題がしばしば起こります。研究者の業績欲や権威欲求の方が真実・事実の探求という学徒の本分よりも勝ってしまったのですね。勿論多くのまともな研究者のように真摯に研究をして、真摯に結論付けたとしても事実はそれとは全く違う形をしている事は往々にしてあるものです。実験や追試などが可能な実学はともかく、考古学や歴史学など物証の真偽が限定的な分野の正確な研究は苛烈を極めるでしょう。その分野で活動されている方々の不断の地道な研究のおかげでこうして我々が社会で科学知見を得られるのは幸福なことです。ですが、様々な定説に対する批判的目線、それは一方で現代社会に住まい彼らの知見を享受する人間の義務でもあると思っています。事実に基づかない客観性を無視する結論はどんな場合でも、容易に妄想や独断、別な意図が反映された結論に着地してしまいます。逆に真実は必ずあらゆる客観性のある批判的思考に耐えうるものです、限度はありますが。

さてそういうことで、もしかしたら仁たちが受けている大学教育というのは真偽さだかならない蚩尤収めについて特殊祭祀学会の碩学、権威の意見、ある種の定説をそのまま鵜呑みにしたものだったのかもしれませんね(笑)それはある意味仕方のない事でしょう、みその権宮司が言うように「このあたりが真実だろう」と仮定して用いている文献や口伝が根拠なので仕方がないと言えば仕方がないのですが、なぜそういう基礎的な資料が限定されてしまったのかについての理由の一端も第二部後半でかなり熱くかたられますので是非読んでみてください。非常に面白いお話です。

武富先生は実際に大学の先生でもあられるので、ここら辺の戸隠神宮系の受けている教育システムの描写、あるいは資料性、偽史についての話はこれから出てくるかもしれません。

仁の戦術上のミスとは

ですが究極的に仁が三角頭戦で重傷を負ったのは「型」の選択を間違えたわけでは「ない」のです。

なぜなら一応最得意の戦型ではないとわかっていながら仁は埴輪徒として「相撲戦」の駒に立ちました。それは相撲戦であっても仁もそのリングサイドにいる司令官の権宮司も勝算があると踏んだからであり、もしも「光撃」戦がはじまるようなら正春に代わればいいという判断でもありました。しかし正面から相撲で負けた場合は想定していない、つまりはそれが大間違いだったのですが、仁と戸隠神宮は戦術的判断も戦略的判断も間違ったのです。

しかし最大の敗因は戦型の選択が十分ではなかったとか、仁が埴輪徒として力量や経験が足りないとか、もちろん三角頭が想定よりずいぶん強かったという事だけでなく、最たるものは「冷静さを欠いたこと」蚩尤収めが「おもてなしをする体をなさなかったこと」のような気もします。ヤヨイオグナも仁戦の前に「理性を失うな」と忠告していたにもかかわらず戦闘中に理性的な行動をとるのを忘れてしまいます。まあ仁はこのアドバイスを深刻に受け止めておらずハイハイ聞いている感じもあって、さもありなんという結果ですね。それにちょいちょい仁は戦闘前から精神的なブレが描写されていて、これはこの三角頭戦が作中初めの蚩尤収めだったことから埴輪徒の内面の葛藤をわずかばかり描写する必要性に迫られたためもあったと思いますが、仁の埴輪徒としての弱点につながっていきます。

戦況が不利になった仁が輿に剣を取りにいったのは一見強い武器によって戦闘の優位性を取ろうという理性的な判断に見えますが、その実恐怖心から出た行動であり、最も理性から遠い行動になってしまったのです。興味深いのは仁が剣で切りつけた時に激しくその行動に同意していたのが機動隊の安西さん(出っ歯の人)だったという事です。安西さんの発言をずっと追っていると彼が非常に論理的に物事を考える人だという事がわかります。逆に言えば彼の言動は少々観念的であり、不安や恐怖に対して思考的解決を重んじる人でもあります。一般的な現代人に近いメンタリティを持っているといえるでしょう。もちろん蚩尤収めの微妙なニュアンスを感じている様子はありません。しかし理性を失い蚩尤収めを台無しにした仁も、それに同調した安西さんも、決して一般的な基準において悪いとは言えないものの、その返報は実に激しいものでした。蚩尤収めは明かに人間を超越した理性的態度が求められるのです。シビアですね。

ただ、仁は埴輪徒としての修練は十分に積んでいたと思われます。おそらく模擬戦やシュミレーション的な成績、戦闘に関わる各ステータススペックは相当高かったことでしょう。仁とともに訓練をしていて、彼を知る各地の埴輪徒から彼がとても慕われていることを見てもそれは明かです。

すこしだけ比較してみるとわかりやすいのですが、真具土の凛は終始冷静に蚩尤収めを行っています。正春や仁の対極にあるのが凛の在り方であり、しかしそれであっても時に敗ける可能性がある事をオグナから告げられています。つまり蚩尤収めに戦術的絶対性はないという事はないのです。ほんとに、シビアですね……

ヤヨイ・オグナ陣営の思惑

ヤヨイ・オグナとその後継者ポジションである凛、そして一応は協力関係にあるような美保は各寺社とも寺社会議ともちょっと違った立ち位置で物語に登場します。

オグナと凛は真具土の埴輪徒で真人であり、普通の人間とは明確に性質が違います。生理機能などは人間に寄せて擬態していますが、超常生命、神人という本質においてはむしろ蚩尤と同じなのです。そんな彼らがなぜ人間社会に組し、寺社会議や各地の寺社に蚩尤収めで協力しているかはよくわかっていません。権宮司も「ヤヨイオグナの真意などわからん!」と叫んでいます。ただこれは理由があると思っています。

まずヤヨイオグナが徹底的に真意を伏せているという線です。オグナの口から「自分の判断は戦略的なものだ」と語られています。ですがその理由についてはやはり周囲に理解できるように語るつもりはないようです。これでは不信感が出るのも仕方がないかもしれません(笑)ですが次にもし語ったとしても他の人間に理解が追い付かない、または誤解させてしまうというまさに戦略的懸念から語っていない(語れない、語るのが適当でない)という可能性があります。つまり「無記」、いわば秘密を貫いているという事です。本来ならば戦略的意図の語られない戦略など到底組織が受け入れられるものではありませんが、ヤヨイオグナは特例の様でその発言は訝しがられながらも説得力を持って寺社に受け入れられています。オグナや凛の真具土としての超常性、超越性に根拠があるのでしょう。

ただオグナ陣営の意思決定について非常に特徴的な点があって。それが「奇縁」いわば偶然の出会いやたまたま起こったことを重要視するという卜占的態度です。またオグナは対馬の巫覡にことあるたびに占いをさせているようです。こういった卜占的態度は理性的な結論や論理的な思考よりオグナや凛の中では優先されることの様で、凛の主巫女のユリとの出会いやコトを蚩尤収めに参加させるための決定などが「奇縁」を根拠になされます。つまりオグナ達は人間的、論理的な思考より、神によってもたらされた「縁」の方をとるという事です。このことからもオグナが人間より神に近い思考過程、意思決定過程を持つ人物であり、ハニワットにおいては何処までも神の意志を尊重して物事が進んでいくことがわかります。このことはまた別に一本文章を書きたい問題なので僕もここまでにとどめておきます(笑)オグナが真意を人に話せないのはそれが容易に(いろんな意味で)言語化していいようなことではないからかもしれませんね。

美保はそういうオグナや凛にとっても対等に関係を持てる独特の神社として登場します。一度蚩尤収めに参加してしまえば穢れを負うので二度と戻れないという設定上今後はあまり出てくる機会はないかもしれませんが、美保の持つ独特の存在感は作中でも珍しくて好きでした。遠隔地からの登場でもいいので是非また美保のメンバーに登場してもらいたいですね。美保と他の寺社との関係は不明ですが自社会議の人間(三田口さん)の反応を珍しがる様子からほぼ完璧に独立した勢力と権威を保っているのでしょう。

また普通に考えれば真具土の凛が蚩尤を収めれば収めるほど話が長引くのですが、戸隠神宮や他の寺社は仕方なく彼らの力を借りています。それはオグナ達の力を借りなければ収集しない事態が既に起きてしまっているという現実の理由以上の大きな理由が今後語られるのかもしれませんね。あるいは「無記」語られないのかもしれません(笑)

寺社会議のポジション

寺社会議側の人間は黒スーツにサングラス、という格好で物語に登場しています。三田口さんがそうですね。神原さんは制服組よりもうひとつ上のクライテリアの16人会議とかいう怪しい長老的メンバーの一員であると語られますが、それが寺社会議の最高意思決定機関かどうかはわかりません。

寺社会議を語るうえで興味深いのはハニワット作中で社会における大きな影響力を持っているという事です。随分な資金力を持っていることをうかがわせる描写もあります。人員も豊富なようです。権力については国内において超法規的どころか権力の裏の中枢を握っているかの如く描かれます。つまり、作中において日本という国は実は埴輪徒を擁する神秘を保持した寺社が統治していたのであり、寺社会議が実権を持っているかの如く描かれているのです。また基本的にオグナ達の衣食住その他を支援しているのは寺社会議のようですが、どことなくオグナ達を自分たちの管理下、監視下に置きたいような意図も透けて見えてきます。オグナ達は系譜としては恐らく寺社会議より古い権力集団なのでしょう。神秘の度合いも寺社会議よりも高いですし、寺社会議がオグナ達に対して独特の距離感を持っているのは様々な理由がありそうです。いつもオグナを見る目が苦み走っている神原さんはむしろ最もオグナ達に好意的な人物でしょう。寺社会議のスタンスはもう少し現世社会において現実的な支配力を行使するポイントを重要視しているような気もします。

第二部になって寺社会議についてはわかっていることが増えてきます。そのひとつは、上鴨を本拠地の一つにしている事。上鴨が所有しているとされるのが八咫の埴輪土という事からも、寺社会議のモデルの一つは八咫烏という組織なのでしょう。

なぜ、蚩尤収めに対する戦術や戦略が違うのか

ハニワットは群像劇であるとともに人や団体を超えた社会を描くことに積極的な作品です。もしかしたら社会をも超えた人々のありさまを描きたいのかもしれません。第二部以降に登場する寺社や埴輪徒達の戦術や戦略も非常に定型から外れたユニークで独創的なものです。いや、物事の定型と非定型という対立構造を超えているポイントを射程に捉えているのかもしれません。

繰り返しになりますがハニワットには登場する陣営によって蚩尤収めに対するスタンスや戦術戦略が微妙に異なっています。ハニワットを読み進めるうちにそのあまりにもドクトリン(固有的戦略思想)が不安定な各団体の有様を見て、初めは不安を感じました。こいつらホントにこれで闘えるのか?と。ですが読み進めるとあらたなシーンごとに「これが同じ人間か!?」というほどの振れ幅を見せる登場人物たちを見て「組織」や「キャラ」というものが刻々移り変わる川の流れを眺めているように感じられてきて、ああこれが描きたかったのかもしれないと納得しました。

しかしながら、その中でそれぞれのはかない個性と意志を統一し大業に立ち向かう登場人物たちのなんと健気なこと。できることが限られているいかなる状況でも理性を捨てず、不十分でも誰かが決断し行動し、その責任を取るという話が語られます。ここらへんは鈴木先生でいうところの「壊れることを許さない」に通じるかもしれませんね。武富文学の支柱の一つです。

また全ての登場人物の立ち位置やスタンスは作中常にに変化しており、行動は毎回予想を裏切り、安易な着地点を持ちません。これはハニワット最大の面白さの一つであり、武富文学はこの非常に描きにくいテーマについて果敢に挑戦しているかのように思います。

以上です。読んでくださってありがとうございました。思ったより長くなりましたね……おやすみなさい。


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