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 「同一化フリーズ」 

彼の名前は岩崎雄一。数学の世界ではその名が轟いていた。大学での講演や研究論文は多くの人々に尊敬され、彼の頭脳は世界でも類稀なものとされていました。

だが、雄一には誰にも言えない秘密がありました。

高校時代からの親友で世界的なピアニスト、杉山美希。美希の指先から流れ出る美しい音楽が雄一の心に突き刺さりました。

「美希になりたい。僕は美希になりたい。彼女のようにピアノを弾いてみせたい。」

数学での成功が虚しいものに感じられ始めた雄一は、音楽への憧れを隠しきれなくなりました。その才能と情熱、そして美希への劣等感が彼の心を苦しめていました。

「どうして僕は音楽の才能を持っていないのだろう?」
毎日のように自問自答を繰り返しました。

とうとう、彼は一大決断を下しました。数学の世界からの引退。その知らせは世間を驚かせました。

「僕は音楽で自分の道を切り開く。美希に追いつき超えてみせる。」
彼はSNSに宣言しました。

彼をよく知る友人たちも家族は、彼を説得しようとしました。しかし彼は誰のアドバイスも聞き入れませんでした。

「僕の決心は決して揺るがない。これは僕の人生なんだ。」
彼は歌を口ずさんでいました。

これは僕の人生🎵
誰のものでもない🎵
退けば1つ、向かえば2つ手に入る!

決断後の日々は予想通りの厳しさでした。彼は毎日12時間練習を続けました。しかし音楽の才能は決して彼に与えられることはありませんでした。練習しても練習しても、彼のピアノからは美しい音楽は流れませんでした。

1年、2年、5年、いつのまにか10年の年月が過ぎ、彼の音楽への夢は遠ざかっていきました。むしろ、彼は自らが捨てた数学の世界への後悔と劣等感に苛まれ始めました。

「どうして自分はこんなに愚かだったのだろう?・・・生きるのに向いてないんだよなあ」
彼は毎日SNSに後悔の言葉を連ねるようになりました。

友人たちは彼から次第に遠ざかりました。

自己同一化の罠にはまり、自分を見失った彼を誰も助けることができませんでした。

岩崎雄一の物語は、夢と現実のはざまで終わりました。彼の数学への才能は忘れられ、彼の音楽への憧れは失われた夢として風化していきました。

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