【連絡】方針転換

前回、予告した内容とは全く異なることを書いていきたいと思っています。
狂気論のプロジェクトに期待して下さった皆様にはお詫びいたします。ごめんなさい。

なぜ、noteで狂気論を展開することを放棄することにしたのか、その理由を簡単に述べます。

1) 病状の悪化・不安定化(詳しくは述べませんが、狂気論は狂気を助長します。)
2) 思想的な転向。決定的な体験に由来しますが、あとで述べます。
3) 参考文献の難解さ。ドゥルーズ&ガタリ『アンチ・オイディプス』とフーコー『狂気の歴史』は外せないが、今の私は解釈を加える能力が足りません。

重要なのは思想的な転向です。この転向そのものが今後の主題でもあります。
私は西洋哲学と並行してキリスト教思想と仏教にも関心を持っていたのですが、ここ1年ぐらいは、キリスト教思想と仏教からは疎遠になっていました。西洋思想と仏教が乖離したままで、どう結びつけたらよいのか分からなかったからです。ごく最近の病状の悪化・不安定化が出来してからは、仏教一本に絞って、親鸞の『教行信証』でものんびり読もうかとも考えました。ここには内在から超越へ、自力から他力へという転向が既に胚胎しています。


ところが最近、あるツイートを読んで大いなる示唆を得たのです。
私なりにそのツイートを再構成すると以下のようになります。

《新約聖書を旧約を踏まえて理解し、さらに親鸞の『教行信証』を理解すれば見えて来ることがある。親鸞はある部分ハイデガーだ[後略]》

謎の多い断言なのだが、調べてみると、ハイデガーと仏教の親和性は割とよく指摘されているようです。最近の『存在と時間』の新訳などは意図的に仏教的なニュアンスを退けようと訳語を工夫しているようでもあります。これは取り組んでみる価値のある読書プロジェクトだと思いました。新約聖書をどう接続するんだという疑問を残しつつ。


気が遠くなるようなこの読書プロジェクト、一生退屈することはないだろう。

予告はもうしません。今後の展開に乞うご期待下さい。

あ、決定的な体験を書き忘れました。それはいわゆる「親鸞体験」なのですが、またいずれ。

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