見出し画像

【曲レビュー】スピッツの名曲「サンシャイン」、その内容は親から子への愛の歌?


 今から29年前の9月、スピッツが通算5作目となるオリジナルアルバム「空の飛び方」をリリースした。代表曲の一つである「空も飛べるはず」や、人気シングルの「青い車」や「スパイダー」、ライブで盛り上がるロックチューン「不死身のビーナス」などといった人気曲も多く収録されており、次作「ハチミツ」でのスマッシュヒットを既に予感させる名盤に仕上がっている。個人的にも、スピッツのアルバムの中でかなり好きな一枚である。
 そんな本作の最後を飾る曲が、今回取り上げる「サンシャイン」だ。

曲の特徴

 「空の飛び方」は、全体的にロック色が強めというか、あくまでバンドサウンドをメインとした上でポップなメロディーを演奏するという、スピッツらしさがわかりやすく出たアルバムだと思う。「サンシャイン」はそのラストを飾るに相応しい、バンドサウンド主体の存在感のあるバラードだ。
 イントロ初っ端のドラムが印象的で、続いて響くどこかノスタルジックで切なげなギターの音色を聴くと、目の前にセピア色の曲の世界が広がるような感覚を覚える。30年近く前の作品ではあるがサウンド自体は古臭くないこのアルバムだが、収録曲はどこかリリース年代とは別のところで懐かしさを感じさせる曲が多いように感じる。

 全体的に冬の雰囲気が漂う曲であり、曲中繰り返されるギターのカッティングがクールで都会的な印象を与えている。歌詞については後述するが、都会的な印象とはいえ基本的に歌詞の主人公は都会にはいないと筆者は考えており、田舎から想像する都会だからこそより冷たい印象のサウンドになっているのではないかと思っている。
 マイナー調な曲で歌詞の内容も別れについて歌っているが、それ以上にアレンジの巧みさがこの曲の切なさをグッと引き上げている。サビで入ってくるエレクトリックピアノがバンドサウンドに華を添えるスパイスとして非常に効果的で、歌詞に登場する「蘇る埃の粒たち」を思わせる、目の前で懐かしい光が明滅しているような音色が、温かくて切ない不思議な気持ちにさせる。

 このサンシャインの歌詞についてだが、先ほども少し触れた通り「別れ」について歌っているのは明確であるものの、状況は明確に限定されておらず、リスナー側で広く解釈できるような余地が残された内容になっている。実際にネットを検索すると、死別の曲であると解釈している人がいたり、恋人との別れについて歌っていると解釈している人がいたり、様々な意見が見受けられる。そんなサンシャインの歌詞について、筆者は「巣立った子供を想う親の心情を歌った曲」だと解釈している。前段が長くなったが、ここからはサンシャインの歌詞をピックアップして、筆者がこの解釈に至った理由を説明していきたい。

歌詞の意味について①
 〜ポイントとなるフレーズ〜

 先述の通り、聴き手に解釈の余地を残した歌詞であるので、歌詞を頭から順に見ていっても一つ一つのフレーズはどうとでも読めてしまう。そして、筆者がこのような解釈に至ったのも、明確な論拠となるフレーズがあったからというわけではなく、親子の曲という前提のもとで聴いた時に、全体を通して歌詞の意味を自然に理解できたからである。そのため、親の目線で歌われた曲だと思う理由を先に示し、その前提に基づいて歌詞全文を見ていきたい。

 結論から言えば、サンシャインが子を想う親の曲ではないかと考えたきっかけは、「”すりガラスの窓”って、なんか実家っぽいな」と感じたことだ。この”すりガラスの窓”は、

「すりガラスの窓を 開けた時に
 よみがえる埃の粒たちを
 動かずに見ていたい」

という1Bの歌詞の中で登場するが、これはただ印象的で美しいだけでなく、ラスサビ前にも繰り返される重要なフレーズである。舞い上がった埃の粒が光を受けて煌めいている様を柔らかく映し出す情景描写と、それを「動かずに見ていたい」という深く複雑な感情を言葉少なに表した心理描写が同居する、とても巧みで素晴らしい歌詞で元々気に入っていたが、ある夜このフレーズを聴いていた時に、ふと祖母の家にあるすりガラスの窓のことを思い出した。2階の角にある部屋の、花柄があしらわれた腰窓だ。その窓は開ける頻度の少なさ故に埃が溜まりやすかったのであろう、たまに開けた時に、この曲と同じように光の粒をよみがえらせていたことをぼんやりと思い出した。後で調べたところ、筆者の思い浮かべていたのはすりガラスではなく「型板ガラス」というものらしいが、古い家で多く見られる不透明の飾り窓を想像して、このフレーズに田舎の実家というイメージを見たのだ。


 実家の窓で、開けた時に埃が舞い上がるということは、掃除や開閉の頻度が高くないということ。これは主人がいなくなった部屋の窓であることを示しており、「サンシャイン」の曲中で都会に旅立った誰かはこの部屋の住人で、埃の粒たちを動かずに見ているのは掃除に入った親なのではないか。そう思い至ってからこの曲を聴くと、全てのフレーズが自分の中でピッタリとハマった。

歌詞の意味について②
 〜全文解釈〜

 ここからは、先ほどの前提を踏まえて歌詞の全体について筆者の解釈を述べていきたい。

 まず1Aの

「困らせたのは君のこと なぜか眩しく思えてさ」

についてだが、これは親が子供に対してわざと困らせるようなことを言ったりしてからかうのはよくあることに思う。今から旅立とうとしている、あるいは旅立ってしまった子供が眩しく思えるのは、明るい未来に向かって歩んでいる/歩もうとしているから。眩しくて見えなくなりそうな子供を近くに感じたくて、軽く困らせるようなことをしてしまっている場面を想像する。

 続いて1Bの

「すりガラスの窓を 開けた時に
 よみがえる埃の粒たちを
 動かずに見ていたい」

は先ほども触れた通り、旅立ってしまった子供の部屋の窓を久しぶりに開けた場面だと思う。この舞い上がった埃の粒たちは、窓を開けて差し込んできた太陽の光を反射して、光の粒のようにチラチラと明滅している。その一つ一つの向こうに、浮かんでは消える子供との思い出が透けて見えて、動かずに見ていたいと感じているのではないだろうか。

「サンシャイン 白い道はどこまでも続くよ
 サンシャイン 寒い都会に降りても
 変わらず夏の花のままでいて」

というサビの歌詞には、曲名にもなっている「サンシャイン」が登場する。これは、思い出をその光に映す太陽のことでもあり、旅立ってしまった子供のことを太陽のように想う親心でもあり、これから子供が向かうべき道標としての太陽への願いでもある、トリプルミーニングの単語であるように思う。
 「子供が向かうべき道標としての太陽」というのは、子供のことを「夏の花」だとしているところから生まれた解釈だ。夏の花といえば代表的なものは向日葵。向日葵はその字の通り、いつも太陽を向いて真っ直ぐ伸びる、自身も太陽のような花だ。「白い道」は、「寒い都会」という言葉と組み合わせて雪道と取れるが、必ずしも雪道である必要はなく、子供の前に広がっている「まっさらな未来」のことを歌っていると思う。
 これらを総合すると、都会に旅立った子供が、時に冷たい現実の中でも、太陽(=明るい方向)に向かって、まっさらな未来を歩んで行ってほしいという、子を想う親の願いに聴こえるのだ。

 2番についても、同じテーマを1番よりも具体的に表現した歌詞だと思う。

「こげた臭いに包まれた
 大きなバスで 君は行く」

という2Aの歌詞についてはかなりハッキリとした情景描写だ。「こげた臭い」というフレーズは、視覚情報だけでなく嗅覚情報を盛り込むことでよりリアリティを持って迫ってくる効果に一役買っているだけでなく、子供が去っていくことに対する温かくも寂しい感情を想起させる。「大きな」バスという修飾も、ただのバスに「子供を連れていってしまう」という印象を付加してくれる。あるいは、「まだ小さい」と思っていた子供が、こんな「大きな」バスに乗って旅立っていくことに対する感慨を感じさせる対比効果もあるかもしれない。

「許された季節が終わる前に
 散らばる思い出をはじめから
 残らず組み立てたい」

という2Bの歌詞の「許された季節」は、子供と過ごすことのできる残された時間を表しており、1番とは時系列が異なる(2Bは巣立ってしまう前)と解釈している。「散らばる思い出をはじめから残らず組み立てたい」は1Bと対応しており、「よみがえる埃の粒たち」は「散らばる思い出」のことであると暗示しているように思う。子供がいなくなる前もいなくなった後も、子供との思い出を頭の中で、あるいは埃の粒の向こうに組み立てる切実な親心を感じる。

 2サビは

「サンシャイン 白い道はどこまでも続くよ
 サンシャイン めぐる風によろけても
 変わらず夏の花のままでいて」

と、「めぐる風によろけても」の部分だけが1Aと変わっている。意味合いとしては、「寒い都会」と同じく巣立った先での困難を表しているが、これも風の強い中でもまっすぐ伸びる向日葵をイメージさせるフレーズだ。

 2サビ以降は、間奏の後で1B、1サビと同じ歌詞を繰り返す。ここまでの展開を踏まえて改めて聴くと、「すりガラスの窓を開けた時に よみがえる埃の粒たちを 動かずに見ていたい」という歌詞の美しさに再度圧倒される。美しくて、温かくて、切ない。スピッツの曲の中でも五指に入る美しいフレーズではないだろうか。
 ラスサビ後は「サンシャイン…」とコーラスを繰り返すが、この切なげなボーカルとサウンドがフェードアウトしていく終わり方は、非常に切ない余韻を残す。このアウトロは、遠くからずっと子供の明るい未来を願う親の祈りに聴こえるのだ。

まとめ

 このように「巣立った子供を想う親の気持ちを歌った曲」だと思って聴くと、旅立ちと別れについて広く解釈できるような歌詞について、一貫性をもって読み解くことができないだろうか。「空の飛び方」は全体的に色んな形の愛について歌われた曲が多いが、そんなアルバムの最後に「親子愛」というまた違った種類の愛情を歌ったのだと筆者は考えている。
 とはいえ、今はこのような解釈のもと聴いているが、これが絶対とは少しも思っていない。これから先も聴くシチュエーションによって違う響き方をするだろうし、広く解釈できるということは、それだけさまざまなタイミングで寄り添ってくれる優しい歌詞だと思う。
 スピッツの歌詞は難解なもの(というと少し語弊はあるが、簡単な言葉でも一筋縄では理解できない面白さがある)が多く、わかったりわからなかったりの繰り返しだが、わかった時の嬉しさも大きいし、わからないままでも何故だか愛しく思えるフレーズが多いのが凄いところだ。すんなりとはわからない歌詞だからこそ、毎回本気で耳を傾け、聴くたびに色んな響き方をしてくれて、永遠に愛することができる、唯一無二の音楽になっているのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?