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【1万字】藤井風『青春病』の歌詞のヤバい仕掛けをコピーライターが考察する〜青春はどどめ色じゃなかった〜

コード進行、メロディーライン、歌声・・・藤井風の魅力を全部語るには次の新曲が出ちゃうくらい膨大な時間が必要ですが、中でも『青春病』の歌詞を丁寧に読み解いていくと、時間と空間を鮮やかに操るヤバい仕掛け、それによる深い深い伏線回収が見えてきました。コード進行や編曲、英語ver.の歌詞、過去の動画内での風さんの発言なども時折手がかりにしながら考察してみました。(※通説とは違う見解を示します)

1万字以上になってしまって、「長い」の域を超えて「キモい」の領域に達している説はありますが、暇でどうしても死にそうな時に読むといいんじゃないかと思います。

歌詞の解釈に唯一の正解は無いと思いますし、風さん自身もきっと「それぞれが好きに解釈してくれればええよ〜」というスタンスだと思うので、あくまで「ああ、そういう考え方もあるかもね」という具合に参考程度に読み流していただけると嬉しいです。

さて、2020年12月にリリースされた激エモシティポップ、『青春病 / Seishun Sick』。


それ、キェルケゴールと釈迦も言ってたな

青春の病に侵され
儚いものばかり求めて
いつの日か粉になって散るだけ
青春はどどめ色
青春にサヨナラを

MVを担当した山田智和監督に対して風さん自ら「青春をまっすぐやりたい」と申し出て撮った浜辺ダッシュシーンに対応するセクション。しかもこの「青春の病に〜求めて」の部分、実は『帰ろう』のサビや『きらり』のサビ2フレーズ目と、キーこそ違えどコード進行が同じになっています。そのことからも風さん自身の思い入れの強さを感じるセクションです。

当然歌詞の面でも、「青春=儚いものばかりを求めてしまう病」という定義を提示し、以降この楽曲全体に通底させるという超重要箇所。ここで言う「儚いもの」とは楽しい日々、今の人間関係、遠くに置いた大きな夢、約束など、この先もずっと続きそうな、でも決してそうではない、時が流れればいつか失われてしまう一瞬の輝きを指していることでしょう。その輝きが消えた時、今度はそれを信じていた自分が粉々に打ち砕かれるといいます。んー、たまらん。。
この「儚いものばかり求める」という人間のサガは風さんにとって大きなテーマのようで、『旅路』の中にもこんな一節が登場します。

(1番Bメロ)
果てしないと思えても
いつか終わりがくると
(2番Bメロ)
果てしないと思ってた
ものがここには無いけど

さて、そんな儚いものを求めることがなぜ「病」なのでしょう。デンマークの哲学者キェルケゴールは、手にしようとしものが結局は手に入らないなどして、他人ではなくそんな自分に対しての関係がうまくいかずに、自暴自棄になったり、投げやりになったときなどに生じるのが「絶望」だとし、これを「死に至る」とも呼びました。キェルケゴールによれば「絶望」とは死にたいけれども死ぬこともできずに生きていく状態のことで、誰しもが一度は抱えるものだと言います。風さんがこの「死に至る病」に影響を受けたのか、仏教で人の本性とされている「愛別離苦」「求不得苦」を念頭に置いたのか、はたまた例えば熱病のような恋の感覚から青春を直感的に「病」と結び付けたのかは定かではありません(終盤の歌詞で「熱」という言葉が出てきます)。しかし、求めてはいけないものをつい求めてしまう人間の非合理な本性を、古今東西の哲学者たちは生きることに伴い必然的に患う病のように捉えてきた歴史があり、「青春=病」という図式は、案外唐突なものではなく深い説得力のある考え方だと思います。

そんな青春はどどめ色をしているといいます。
「どどめ色」とは、赤紫から青紫にかけての黒ずんだ紫色を指し、青ざめた唇や青あざの色を表す際に使われる色のようです。英語ver.の歌詞では“the color of bruises(あざ)"と表現されています。ちなみに「どどめ」とは桑の実の別名でもあり、ちょうど熟した桑の実がちょうどこのような色になっています。どう見ても、「青春」から一般に想起されるキラキラしたイメージとは相入れない色ですね。

ではこの色が何を意味するのか。桑の実は白い実と黒い実で花言葉が異なり、黒い実は「私はあなたを助けない」「あなたより生き延びる」というもの。つまり、「青春はどどめ色」は「青春はあなたを助けない(≒見捨てる)」と言い換えることができます。青春は残酷な存在であり、青あざのような傷であり、しかしそれでいて紫のベリーのような甘酸っぱさと微かな妖艶さで人を引き込み過ちを繰り返させてしまう(※bruiseがbruisesと複数形になっていますので)ような、そんな人生の季節だと歌っているのではないでしょうか。そのことが、同曲のPVの中で風さんが疾走する、明け切らない夜とも日没直近の夕暮れとも取れる遠浅の浜辺の光でも裏付けられているように感じます。

二転三転するロジックで揺れ動く心を表現

本文4-2

ヤメた あんなことあの日でもうヤメた
と思ってた でも違った
僕は 自分が思うほど強くはなかった
ムリだ 絶ち切ってしまうなんてムリだ
と思ってた でも違った
僕は 自分が思うほど弱くはなかった

言ってることがこんなに二転三転するクライアントとは仕事をしたくないですが、青春の話となればむしろ感服。言葉遊びが好きな風さんの遊び心とセンスを感じるところです。

「ヤメた」の後に「あんなこと」をするのはもう「ヤメた」と、「ヤメた」を二度も使って決意を表しつつ、「と思ってたけど違った」とあっさりひっくり返しています。つまり「ヤメ(られ)なかった」という意味になります。あれほど決意したはずなのに、そうではない行動を取ってしまう主人公。だからヤメられなかったことを「強くはなかった(=弱かった)」と評しているわけです。図にするとこんな感じ。「ヤメる」は英語ver.では“quit”を使っています。

スライド1

そして続く「ムリだ」のクダリは、さらにロジックが複雑になります。それは「絶ち切ってしまうなんてムリ」が、「絶ち切るという強い行為なんて弱くてできない」とも取れるし、「このまま絶ち切るなんて僕の中の強さが諦められない」とも取れるからです。
謎を解く鍵は英語ver.の歌詞にあります。英語ver.では「絶ち切ってしまうなんてムリ」を“gave up quitting”(gave upはgive upの過去形)と訳していることから、「ムリ」=「諦める(give up)」、「絶ち切る」=「ヤメる(quit)」となり、「絶ち切ってしまうなんてムリ」は「ヤメるなんて強い行為は、弱くてできずに諦めた」を意味することが分かります。はい。伝わってますか...笑??ぐっちゃぐちゃしてきましたね。「ムリだ」からのクダリを図にするとこんな感じ。

スライド2

そして英語ver.の歌詞で使われている“quit”によって、実は「ヤメる」=「絶ち切る」だとということが判明し、「ヤメた」からのクダリと「ムリだ」からのクダリが一連で繋がっていることが分かります。つまり
ヤメた→やっぱりヤメられなかった→意外とヤメられた(絶ち切れた)
という意味になり、図にするとこんな感じ。

スライド3

一度聞いただけでは論理がぐっちゃぐちゃしていて戸惑いますが、このぐっちゃぐちゃ感自体が実は狙いで、まさに青春期の大きく揺れ動く心や自己矛盾を巧みに表しているように思います。それでいて最後は自分でも想像していた以上の強さ故に絶ち切ることができたという展開が、青春期を通じた人間的成長をも予感させます。

ダメな僕にとっては、その優しさが辛い

本文2-2

君の声が 君の声が
頭かすめては焦る
こんなままじゃ こんなままじゃ
僕はここで息絶える

前セクションの「弱くはなかった」の部分の4ビートとは対照的に、このセクションは「タタッ」と16分音符のビートから始まり、それが二度の「君の声が」を挟むように奏でられます。そのことが、「君の声」が頭の中で何度も鳴り響いているような印象を際立たせています。

それくらい主人公の頭の中を占拠する「君の声」とは、いったいどんな声なのでしょう。「あなたの夢、きっと叶うと思うよ。私は応援してるね」というエールかもしれませんし、「私にもこんな夢がある。いつか叶えられるように頑張るからお互い頑張ろうね」という約束かもしれません。しかし「こんなままじゃ」「君」の期待に応えられそうにない自分に、「焦」ったり、あるいは「君」だけがいつか手の届かない遠くへ行ってしまいそうな未来に「焦」っているのでしょう。
ポジティブな言葉を掛けてくれているのに、ダメな自分のせいでそれがむしろ僕を苦しめる言葉になっている。優しさまでもが僕を締め付ける。だからこのままでは、一歩先でもなく、十歩先でもなく、「ここで」、「息絶える」(これもまた「死に至る病」?)というのでしょう。辛すぎ。

胸の奥が痛いよぉぉぉ!!!やめてぇぇーー!!!!!

本文3-2

止まることなく走り続けてきた
本当はそんな風に思いたいだけだった
ちょっと進んでまたちょっと下がっては
気づけばもう暗い空

Aメロ、Bメロと来て、締め付けられる胸を抱えてボロボロになりながら普通であればサビに行く流れで、あえて挟まれるこのCメロのセクション。青春というと「がむしゃら」「突っ走る」といった若くキラキラしたイメージで美化しがちで、この曲でも「止まることなく走り続けてきた」とポジティブに描きます。
が、次の瞬間、「本当はそんな風に思いたいだけ」なんじゃいの?と真理を突いてきます。自分は今素晴らしいひとときの只中にいるんだ(あるいはいたんだ)と自分に言い聞かせようとしているだけで、実際はもっと辛くてダサくて上手くいかなくて、カッコ悪くて苦しい。ちょっと進んだと思ったらちょっと下がってを繰り返す。もがいてももがいてもなかんか前に進めない。もどかしい。そんな現実から目を背けて、キラキラした自分に酔おうとしているだけだろ?と厨二的な自己陶酔を握りつぶし、胸の奥をエグってきます。本当のことを言わないで!!!!

そうもがいているうちに「気づけばもう」青春期の終わりを予感させる「暗い空」。多くの曲がそうであるように8小節を一カタマリとして曲を構成していくのがセオリーのところ、「暗い空」からサビに至るまでにもう1小節追加してここだけ9小節になっています。ただしここには歌詞はありません。まさに、苦しみの中で「暗い空」となってきた天を仰ぎ、心が声にならない声で叫んでいる様を暗示しているのではないでしょうか。わざわざ小節を追加したのに歌詞は置かない。歌詞を置かないことによって声を表す。無によって有を表す。そんなヤバい芸当をやってのけているというのは、果たして深読みでしょうか。。

お分かりいただけただろうか

本文1.-2jpg

青春の病に侵され
儚いものばかり求めて
いつの日か粉になって散るだけ
青春はどどめ色
青春にサヨナラを

やっとサビにたどり着けました。
曲冒頭のサビはベースもパーカッションも無い静かな曲調で、まるで夕暮れか明け方の窓辺で「あの頃も、こんな空だったな」と過ぎ去った青春時代を思い返しているような情景が浮かびます(だいぶ妄想)。
Aメロでは過去形の歌詞によって現在から過去を見ている印象を与え、Bメロでは過去形と現在形の混在、そしてCメロは現在形のみとなっていることから、いつの間にか回想に深く入り込んで行って、聴く人が当時の主人公を追体験できるような歌詞にさりげなく変化していっています。映画や小説のような鮮やかな時間軸展開。天才か?
ですので、この流れのこのサビは、過去の主人公を現在の僕が描写しているのではなく、当時の僕が「こんなどどめ色の青春なんて、もうたくさんだ!」と一人称で描く叫びに読めてきます。

あ、オトナになってる

そうか 結局は皆つながってるから
寂しいよね 苦しいよね
なんて 自分をなだめてるヒマなんて無かった

苦しみや辛さ、前に進めないもどかしさを散々吐き出した1番とは変わって、ここで変化の兆しが見えてきます。
「そうか」と気づいたのは、人はみな他人のように見えて、ちゃんと皆(※“we”と訳語を当てているので「皆」は物事というより人のことのはず)とつながっているということ。本当は孤独じゃないし、苦しみを分かち合うことだってできるはずだ。自分次第で。だから「寂しい」だとか「苦しい」などと自分をなだめて短い人生を浪費するのはヤメようという心境の変化が表出してきます。
もちろん全てが好転したわけではなく、青春は依然として険しいものであることには違いありませんが、英語ver.の歌詞に出てくる“life is short”という言葉には、少なくとも自分の傷をなめて満足しているヒマは無いんだと、前を向き始める姿が浮かび上がってきているように思います。

そして「君の声」の意味が変わり始める

本文5-2

君の声が 君の声が
僕の中で叫び出す
耳すませば 耳すませば
何もかもがよみがえる

前述のように読み解いていくと、この2回目の「君の声」が持つ意味は少し変わってきます。
はじめは僕を焦らせるだけだった声に、今度は「耳をすま」しています。つまり、振り払い、逃げ去りたかった「君の声」と、ここで向き合おうとしているのです。以前は頭を「かすめて」いました。一方ここでは「叫び出」しています。前より声が大きくなっています。それを空間的に解釈すれば、僕自身が声のする方を向いたということが分かります。
また同時に、「よみがえる」という言葉を使っていることから、この声を過去のものとして捉えています。

そう、時間軸が再び現在に戻ろうとしているのです。

あの青春という激しい痛みを伴った病は、いったい僕にとって何だったのだろう。主人公はそんなことを内省し、反芻(はんすう)し始めたように読めます。主人公、ちょっとだけオトナになってる....!!

はい、時空超えました

本文6-2

止まることなく走り続けてゆけ
何かが僕にいつでも急かすけど
どこへ向かって走り続けんだっけ
気づけばまた明ける空

1番のCメロでは「止まることなく走り続けて」きたことが幻想だったと指摘してきたにも関わらず、ここで「走り続けてゆけ」とむしろ背中を押す命令形の言葉に歌詞が変化します。
では、いったい誰が、誰に命令しているんでしょう。それは、現在の僕が、青春の只中にいた過去の僕に命令しているのではないでしょうか。すべてはつながっていて、人も皆つながっていて、もちろん過去の自分現在の自分も、そして未来の自分もつながっていて、全てに意味はある。だから現在の僕は確信を持って言うのです。「カッコ悪くたって、ボロボロだっていい。時々どこへ向かってるか分からなくなったっていい。Life is short! そのまま走ってゆけ!」と。私にはそんな風に聞こえます。
そんな現在の僕の声が、時を超えて過去の僕にも耳にも届いたのでしょうか。「何かが僕にいつでも急かす」と過去の僕が不思議な体験をしているようにも読めますし、現在の僕もまた、内なる未来の僕の声によって、急かされているのかもしれません。

そして気づけば、「暗い空」になっていた空は「明ける空」へと変わっています。「暗い空」から「明ける空」への転換は青春期全体を通した年単位のものであると同時に、「また明ける」とあることから、これまでも繰り返されてきたもっと短期間の単位のものでもあるのでしょう。大きな流れの暮れと明け、日々流転する速い川の流れのような暮れと明けを重ねつつ、「だから暗闇に怯えなくていい。」そんなメッセージを伝えようとしているように感じないでしょうか。

過去、現在、未来をつなぐ壮大な時間軸配置。それらを見続けていたのは広大な「空」。2番Bメロで使われた「耳をすます」というぐっと視点が狭くなっていく言葉と対極を成すように、このCメロでは時空を超えたスケールの大きな言葉が連なり、まるで壮大な長編戯曲のような圧巻の迫力を描き出しています。劇作家なの?

「無常」「罰当たり」の鍵は鴨長明『方丈記』にある!?

本文7-2

無常の水面が波立てば
ため息混じりの朝焼けが
いつかは消えゆく身であれば
こだわらせるな罰当たりが

サビに行かない。サビに行くと見せかけて行かない...!頭サビをDメロとカウントすると、ここがEメロ。耳をすまし青春と向き合っていた僕が結論めいたものを出し始めるという伏線回収でしょうか。

ここで言う「無常」はこれまでの流れと「いつかは消えゆく」という表現からして、間違いなく「無常観(=あらゆるものは永遠には続かない)」という仏教の考え方のことを指しているのでしょう。

で、「無常観」というと「祇園精舎の鐘の声…」で始まる『平家物語』を思い出す人が多いかもしれませんが、僕はこれ、ひょっとして鴨長明の『方丈記』を引き合いに出しているのでは?と考えています。『方丈記』の冒頭にはこんな一節があります。

よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし
ー川の淀みに浮かんだ泡は、一方で消え、その一方でまた現れ、いつまでもそのままっていたことなど一度たりと無い(筆者・訳)

そう、『方丈記』では無常なるものを水辺で喩えていて、青春病でも「無常の水面」という水に喩えた言い回しをしています。『平家物語は』平家没落から源氏勃興の動乱期を雄々しく唄い上げ、また最後は我が子を失った建礼門院の出家と死を描く作品で、マッチョかつ明確にバッドエンドな物語。青春病で描いている思春の曖昧さとは微妙に相入れません。一方『方丈記』は、鴨長明が都で目にした数々の災厄(大火、台風、飢饉、政治騒乱、大地震など)と人々の悲劇から無常を達観し、郊外に方丈の庵(約3m四方の小さな建物)を築いてそこで独り静かに仏門の道に身を置くというエッセイです。この、激動の時代を心静かに振り返りながら何かを悟るさまは、遠く過ぎ去ったどどめ色の青春を振り返る行為と重なるような気がします。ここからも、青春病の「無常」は『平家物語』的というより『方丈記』的だと言えそうです。

さて、青春病を始めて聴いた時、ここでふと、じゃあ「罰当たり」ってどういうこと??と腑に落ちませんでした。無常観とも関係無さそうだし、なんだか唐突なワーディングに見えますが、それを読み解く鍵もまた『方丈記』にあります。『方丈記』は出だしこそ有名ですが、中盤以降はあまり知られていません。方丈を築いた日野での暮らしについて中盤で多く触れられている『方丈記』ですが、終盤では鴨長明は方丈の庵で侘しい暮らしをすることにこだわることすらも、悟りを妨げるという考えに至るようになります。

そう、無常を心得てもなお、「こうすればうまくいくはずだ」とこだわるならば罰が当たるというのです・・・!!!!
僕はこのことを思い出した時、めちゃくちゃゾワりました。風さん自身が幼い頃からお父さんから「神聖な書物」の話をよく聞かされていたという話を語っていましたが、まさかこんなマイナーな一説を青春と結びつけてさらっと歌詞にしたのだとしたら、教養の深さがヤバくないですか???風くん、、、僕は時々あなたが怖いです。。

「ため息混じりの朝焼け」の「ため息」は、「やっぱり永遠なんて無いんだな」という諦めであると同時に、どこか清々しさも漂います。無常を悟った主人公は、その残酷さを受け入れ、「しょうがないな」と短いため息を吐いて朝焼けの向こうへと向かって行きそうです。だから「ため息に満ちた朝焼け」ではなくあくまでため息「混じり」程度なのでしょう。

実は「獣」を肯定している

本文8-2

切れど切れど纏わりつく泥の渦に生きてる
この体は先も見えぬ熱を持て余してる
野晒しにされた場所でただ漂う獣に
心奪われたことなど一度たりと無いのに

驚愕のFメロ。J-POPでFメロて....組曲かなんかですか?まだサビに行かない。でも飽きさせないところが本当にすごいですね。この曲のモチーフとして死ぬほど登場する

「タン タ タン タ タン」
(8分音符→16分音符→8分音符→16分音符→8分音符)

のリズム(例:しゅーん のー ひかー)を

「ター ター タン」
<8分音符+16分音符>→<8分音符+16分音符>→8分音符

と結合すると、ちょうど「きーれーど」のリズムになります。つまり、ここもモチーフ展開の箇所。だからこそ、初めて出てくるある種唐突なメロでありながら、違和感なく聞いていられるわけです。
なので歌詞としても、全く新しい話が始まるというよりは、今までの延長上で総括的な解釈をすべきでしょう。

「切れど切れど」=いくら振り払っても「纏わりつく泥の渦」のような青春。その泥の渦に囚われもがく主人公は、「野晒しにされた場所でただ漂う獣」のようだと言います。若さ故の「熱」だけは持っている。でも経験を持たないがためにその「熱」を持て余し、どこへ行けばいいのか彷徨い続け、荒い呼吸でボロボロになっているのでしょう。そんな「獣」に憧れたことなど一度もない「のに」と、「のに」を使っているというとは、結局自分がそんな「獣」になってしまったということを意味します。

そんな無様で粗野でみすぼらしい青春。しかしそれは、本当に単なる悲劇だったのでしょうか。確かに曲の前半では青春は悲劇のように描かれていました。しかし過ぎ去った青春を振り返った僕は、今やすべてを受け容れ、欠けがえのない経験へと昇華させつつあるのではないでしょうか。
このセクションの曲調が徐々に明るくなっていくこと、そしてセクション後半ではMVでメンバーが青春病ダンスを楽しげに踊る姿が、青春が単なる悲劇や嫌悪では片付けられない、むしろ素晴らしき日々であるということを物語っています。

しかも「一度」のところでは今まで一度も登場していなかったコードが登場し、しかもそれがブワッと視界が開けるような響き。主人公が新しい境地に達したことが示唆されています。

Ahhhhhhhhhhh.......!!!!!!!!!!

本文9-2

青春のきらめきの中に
永遠の光を見ないで
いつの日か粉になって散るだけ
青春の儚さを
Oh oh oh oh oh
Ah ah ah

あの苦しみも、あの涙も、あの孤独も、あの邂逅(かいこう)も、あの勇気も、あの裏切りも、あの熱も、あの魂も、すべてを飲み込んで主人公は青春を受け容れます。「どどめ色」という言葉はこのラストサビにはもうありません。どどめ色だった青春は、「きらめき」へと変わったのです。ちょうど「きらめき」と歌う箇所でも、光り輝くような煌びやかなピアノの音が入ります。
「飲み込んで」と書いたのは、「青春のきらめきの」4拍のうち、今までのように1拍目にアクセントを置くのではなく2拍目にアクセントを置いています。そのリズムが、まるで何か大きなものをぐっと飲み込んで直後に思わず息を放つかのように聞こえるからです。(しかもその飲み込みの直後に先のピアノのきらめきサウンドが訪れるのです)

ただし、青春に「永遠の光」を見出してはいけないと言います。いつか終わるのです。永遠という幻想に囚われていると、「いつの日か粉になって散るだけ」という無情な無常は変わりありません。
でも、青春はいつか儚く終わる。Life is short. そう分かっていれば、みすぼらしい獣になったような境遇に絶望する必要もありません。それとともに、「いつか」を夢見るのではなく「今」をがむしゃらに生きることが必要だという悟りを感じます。

そして最後の「青春はどどめ色」と一つの文として成立していた箇所は「青春の儚さを」と文が続きそうな語句に置き換わっています。しかし、続く箇所は「Oh」 や「Ah」といった感嘆詞。明確な言葉にはなっていません。
それは、青春の痛みによって、あの苦しい過去によって、僕は今を生きることができるようになった。しかしそんな青春は薄張りのガラスのように脆く、儚い。「もう二度と...もう二度と手に入らないのか....!!!! Ahhhhhhhhhhhhh...............!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」という、言葉にならない叫びが全身から、あるいは魂から湧き上がってくる感覚を表現しているように感じます。

どどめ色でグロテスクで残酷な青春。その姿は表面的に美化された過去とは違う真のリアルであるものの、そのことを正面から直視したとき、そしてそれを受け容れた時、青春はそれまでとは違う新しいきらめきを放ち始める。これがこの歌の主題なのではないでしょうか。
うん、一緒に叫ぼうか。

Ahhhhhhhhhhhhh...............!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

アウトロには歌詞はありません。「ターララーララーーララーラー」とリフが繰り返されていきます。このままずっと繰り返されフェードアウトしそうですが、しません。ふっと単音のメロディーに変わり曲が終わります。

そう、青春が終わりを告げました。

青春は思い出へと変わり、アルバムの中の一枚の写真となって僕は現在に戻る。そんなエンディングなのではないでしょうか。

「ありがとう」

僕は青春と過去の僕に、そうつぶやいたかもしれません。

本文10-2


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