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短編小説『私の自慢の集合ポスト』 後編

前編はこちら。

次の日の朝、メイコはバイトに行く前にエントランスの集合ポストを確認してみたが、ご飯粒一つ落ちていなかった。念のため202号室のポストの扉を軽く指で叩いてみたが、中からは何の反応もなく、空のようだった。

バイトから帰ると、マサノブが部屋の真ん中で腹筋をしていた。買ったばかりの黄色と白のラグマットにマサノブから滴り落ちた汗が染み込んでいく。

「今日のご飯は?」

腹筋から腕立て伏せに変えたマサノブが訊いてきた。

「カレーだけど……一人分しか材料ないから」

メイコがキッチンでそう言うと、「ほら! 素麺やっちゃうからそうなるんだよ! 素麺があればこんなことにならなかったのに!」というマサノブの刺々しい声が返ってきた。

マサノブはメイコの作ったカレーを頬張りながら、テレビに釘づけになっている。

「ねえ。やっぱりここ、猫いたんだよ」

「あ、そう」

マサノブはテレビから目を離さずに平坦な声を出した。

「何処にいたと思う? 一階の、集合ポストの中。そこで飼われてるんだ。そういうのがありなんだったら、私も飼っちゃおうかな、また」

「いいんじゃない?」

そう言って大きくゲップをすると、マサノブはラグマットの上に寝転ぶ。

メイコは、ため息をついてカレーの皿をキッチンへ運んだ。

「痛」

途中、メイコは腹筋をするための謎の形状をした椅子のような物に足をぶつけてしまった。

その瞬間、何かがメイコの中で切れた音がした。

「……ナッキー返せ」

メイコは低くそう呟いた。

「……あ?」マサノブは低い声でメイコを睨みつけてきた。

「私のナッキーを返せ! お前が殺した! うちのかわいい家族を返せ! お前が殺したんだ! 早く返せ! 同じ猫だ! 全く同じ猫をここに持って来い! 顔も同じ声も同じ賢さも同じのやつだ! 早く持ってこいクソったれ! クソクソクソクソ! 持ってこれないなら早めにそう言え! 私がお前を殺す! 殺しきる!」

「おいおい、お前、またそういう冗談をさ」

「冗談じゃねえわ! どうしてお前はそうやって、自分が私のナッキーを殺したのに平気な顔してご飯が食べられるんだ! ひとでなし! 冗談じゃなく殺したる!」

メイコはキッチンでそう叫んで、包丁を取り出すと、腹の前で構えた。

その姿を見たマサノブはうんざりしたような顔で、

「お前、頭おかしいんじゃねえの」と言うと、ラグマットの上のガラスのテーブルを、ひょい、と持ち上げてメイコのほうへ放り投げた。

「ぎゃっ!」

メイコはそう叫んでキッチンの奥へ逃げ込む。ガラスのテーブルは冷蔵庫に当たって床に落ち、真ん中から割れてしまった。床にガラスが飛び散ったが、マサノブはそんな事お構いなしにキッチンの入り口まで来ると、床に置いてあったダンベルに手を伸ばす。

「殺される前に殺さねえとなあ」

平坦な声でそう言いながら、マサノブは拾ったダンベルをメイコへと、真っ直ぐに投げて来た。思わず肘と膝を曲げて直撃を逃れようとしたが、ダンベルは真っ直ぐに脛に直撃した。ガツンッ、と鈍い音がして、目の前が真っ白になる。激痛のあまり叫ぼうとしたが、上手く喉が開かずに、ヒュゴッ、という音が口から漏れただけだった。

「……またあんなことがあった時、頼りにできるのは、ご近所さんなんだからね……」

母親の声が脳の中をすごい速度で通り過ぎた。

まただ。またやってしまった。

充分に反省したつもりなのに、充分に警戒したはずなのに、また私は、マサノブをキレさせてしまった。

あの時、葛飾区のマンションでも、同じことを――叫んだのは猫のことではなく、結婚のことであったが――してしまい、怪我をしたメイコはマサノブから逃れようとしたのだ。

だけどすぐに見つかってしまった。絶望しつつも、もしかしたら、マサノブも、ナッキーの事を含め、反省しているのかもしれない――そう考えたのが全ての間違いだった。

あの日、ドアを開けたとき、マサノブがダンボールに座っているのを見つけた時点で、メイコは逃げ出して警察に駆け込むべきだったのだ。

マサノブは左足を抱えて蹲っているメイコに近づくと、髪の毛を掴んで引っ張り上げ、冷蔵庫のドアにガンガンとメイコの顔を打ちつけ始めた。

「うぶーっ! うぶぶうーっ!」

メイコの口や鼻から、声のような息が、細かな血の泡と共に吐き出される。そんな中メイコは顔面を血だらけにしながら、前歯が二本ぐらぐらになっているのを舌先で確認しながら、これ以上舌で確かめていると、舌を噛み切ってしまうかも知れないからやめておこう、と何故か冷静にそう考えていた。

ああ、そういえば、ナッキーもこんな風に、突然キレたマサノブに首根っこをつかまれて、私のお気に入りの椅子の背の部分に何度も叩きつけられていたっけ。あの時、気絶しかかってる私の目の前で、ナッキーはおしっことかいろんなものを撒き散らしながらも必死でマサノブの手を引っかいたり噛み付こうとしたりして何とか死から逃れようとしてたのに、結局はマサノブのあの太い腕が、変な方向に何度もナッキーの柔らかい身体を椅子に打ち付けるもんだから、お腹が破れちゃってピンクの内臓が食卓の上にダラララッ! って一気に落ちてったんだっけ。痛かっただろうなあ、可哀想なナッキー。でももうすぐ私もそこに行くからね。待っててね。

そんな事を考えながら冷蔵庫に顔を打ちつけられていたメイコだったが、何度目かの時に、捕まれていた髪の毛が途中で切れてしまい、そのまま頭を床の上にゴトン、と落とした。

ああ、大きな音立てちゃったなあ。すまないなあ。でもいいか。引越しの挨拶はしたし、この下の人は、素麺受け取ってくれたし――

「あっ、メイコお前、おかしなもんばっかり食べてるからこんなに簡単に髪の毛が抜けちゃって。だからもっと健康には気をつけろって言ったんだよ俺」

マサノブはそんなことを言いながら、大きく足を振り上げ、何度もメイコの身体を上から踏みつけた。頭を持ち上げようとすると頭も踏まれるので、なるべく動かないようにしていた。

このままではいつか、首を踏まれてしまうだろうな。首を踏まれたら一気に死ねるのかもしれない。そうなったら楽でいいかもな。守ってあげられなくてごめんね、ナッキー。それと、ごめんなさい、下の階の人。よっぽどうるさいですよね。でも、もうすぐ終ると思うんで。

インターフォンが鳴った。

頭の中がジンジンとうるさくて良く聴こえなかったが、確かに、今、メイコの部屋のインターフォンが鳴らされた。

部屋の中で暴れる音を聴いて、誰か助けに来てくれたのだろうか。

でも、誰が。

同時にメイコは、マサノブがその親切な人に危害を加えなければいいが、と考えていた。

同時に、でもちょっと死なない程度にマサノブに痛めつけられてくれたら、慌てたその人がすぐさま警察呼んだりしてくれないだろうか、とも考えていた。

マサノブはメイコを踏みつける足を止めてしばしその場に固まっていたが、やがて、もう一度インターフォンが鳴ったのを聴くと、舌打ちをしてダンベルを一つ持ち上げ、玄関の方へ歩いていった。

メイコはキッチンの中から玄関の方を確かめようとしたが、一切、体の何処にも力が入らなかった。立とうとしても、脳が体のどの部位に信号を送れば立ち上がることができるのか、整理できなかった。

視線を落として自分の足を見たが、左足の脛が、何故赤ん坊の頭くらいの大きさにどす黒く腫れてしまっているのか、どうしても理解できなかった。

ガチャリ、と、ドアが開く音がした。

廊下の空気が部屋の中へ入り込んでくる。床に寝転がったままのメイコは、鼻先に移動する風を感じることが出来たが、鼻血が固まってしまっていたため、その匂いがどんなものであったかを知ることはできなかった。

玄関からは何の音も声もしなかった。

どうしたのだろう? マサノブはどんな言い訳をするつもりなのだろう?

そんな事を考えているうちに、ドアがバタン、と閉まって、再び家の中の空気は停滞した。

同時にメイコの意識もぷっつりと切れて、メイコは暗闇の中へ落下した。

メイコが薄く目を覚ますと、どこかのベッドの上であった。

透明なカーテンの向こうで、母親が青白い顔をしてメイコを見つめていた。その頬は涙でぐっしょりと濡れていた。

メイコが再び目を覚ますと、病室を移る事になった、と母親が説明してくれた。メイコ、助かったんだよ、とその声は嬉しそうに言った。

メイコが再び目を覚ますと、体中の色んな箇所に突き刺さっていたチューブの数が随分と減っていた。母親は看護師さんと楽しそうに果物をむいていた。

メイコが再び目を覚ますと、小さな鏡が目の前に置かれた。目の周りをぐるりと紫色が囲んでいたが、上唇をめくると、折れてしまったはずの歯が綺麗に並んでいた。鼻も完全に顔の真ん中にめり込んでたんだけどさ、頑張って真っ直ぐにしてもらったんだよ、と、母親が言った。前よりも高くなったんじゃない、と、返事すると、笑いながら肩を叩かれた。叩かれた場所が、痛い、と感じた。

マサノブはどうしたのだろう。この病院はあの男にはバレてないだろうか。時折、寝ていると、病室の外からマサノブの腹筋をする声が聴こえてくる。恐怖で叫んで目を覚ますことが多くなってきた。母親はその度に、メイコの頭を抱きかかえて、ここは大丈夫、大丈夫、と何度も泣きながら言うのだった。

ある晩、メイコが目を覚ますと、ベッドの傍らに母親が椅子に座っているのが見えた。面会時間はとっくに終っているのに、まだ母親が残っているのが不思議だった。始めの頃は母親もホテルへ帰らずに付きっ切りだったのだが、少し前から、メイコの家から通うようになっていた。

それだけではない。母親は、暗闇の中で、目を見開いていた。真っ直ぐと空中を見つめたまま、微動だにしない。看病の疲れのあまり、おかしくなってしまったのだろうか?

不安に思ったメイコは、小さく呼びかけた。

「……お母さん?」

すると、母親は首ごとぐるり、と回して、真っ直ぐにメイコの方を見た。やがて口が小さく開くと、中から小さな下がちろちろ、と出たり入ったりした後に、

「ふにゃあ」

と一声、鳴いた。

メイコが驚いていると、次の瞬間には、ふっ、と糸が切れたようにガクン、と力を抜いて椅子の上で眠りこけてしまっていた。

今のはなんだったのか。メイコには理解できなかったが、一つだけ、確信があった。

――今のは確かに、ナッキーの声だった。

次の日、母親に訊いても、何も覚えてないとのことであった。前日の夜には確かにメイコの家のベッドで寝ていたはずなのに、朝目が覚めたら病院の椅子の上にいた、というのである。

やがて、警察が何人か尋ねてくるようになった。マサノブの姿を捜しているのだが、未だ見つかっていない、とのことだった。警察が動いてくれている事に安心したメイコは、その日からマサノブの夢を見る回数が減っていった。母親は、前回のときにあなたたちがもっとちゃんとしてくれたらこんな事には、と毎回警察たちに文句を言うのを忘れなかった。

医者と看護師にお礼を言って、メイコは病院を出た。

ここに来る前はまだ春だったはずなのに、もう肌寒くなり始めていた。松葉杖をつくメイコを母親は心配したが、メイコは、久しぶりに誰もいないところで一人で寝たいの、と言ってタクシーに乗り込んだ。母親は駅前のホテルに泊まる事になっていた。

久しぶりに帰ったマンションだったが、本当にこんな外観だったかどうかメイコにはわからなかった。何しろ引っ越して三ヶ月もたたないうちに入院してしまっているのだ。それでも、一階ロビーのエントランスに足を踏み入れると、確かにここが自分のウチであることが実感できた。入院中、集合ポストの郵便物は母親が管理してくれていたので、何も入っていないはずだったが、メイコはそれでも確認してみたい気持ちに襲われた。

集合ポストに近寄ろうとした瞬間、胸を黒い影が覆った。

あれ、私、ここのポストでなんか嫌なもの見た気がするんだけど、あれって、なんだっけ。何を目撃したんだっけ――

無意識に集合ポストから離れようとした瞬間、背後から突然声をかけられた。

「お久しぶり」

「え?」

一瞬、マサノブがまたここに現れたのか、と身構えたが、声は女性のものであった。

ゆっくりと振り返ると、そこには――細長い影が立っていた。

いや、影に見えたのは、その女性が細身で背が高く、長い髪の毛をうな垂れた顔の前に垂らしているからであった。

「突然声かけてごめんなさい」

細長い影は、ゆっくりと顔を上げた。髪の毛が左右に分かれ、真っ白な顔が中から現れる。

とても綺麗な女性だった。

同時にメイコは、その目が、202号室のドアの隙間から覗いていたものと同じものである事に気が付いた。

「あ、もしかして……202号室の」

「ええ。あの時は、素麺を、ありがとう。あれから随分ご無沙汰しちゃって」

細長い影のような女性はそう言ってニッコリと笑った。

綺麗な形の歯が薄い唇の間から覗く。

「いえ、実は私、今日まで入院していて……」

メイコは、余計なことを言ってしまったかな、と思った。不安にさせる必要は無いのに。

「私ね、引っ越す事になったの」

メイコの言葉が聴こえなかったのか、女性はそう告げた。

「え」

「今日のうちにね」

「それはまた……」

メイコはなんと言っていいかわからなかった。

「仕事の関係でね、海外へ行かなくてはいけなくなって。それで、その前に私、どうしてもあなたに挨拶だけはしておきたくって」

「そんな。いいですのに。私なんかのためにわざわざ」

「そうは言うけれど、あなただって以前、私なんかのためにわざわざ挨拶に来てくれたわ」

そう言いながら女性は長い髪を左手でかき上げた。その手もまた、白く美しかった。

「だからね、そのお返し」

「お返しだなんて。本当に大丈夫ですから。受け取れませんよ」

「でもね。もう渡してしまっているの」

「もう渡してしまっている……?」

「それじゃあ。御機嫌よう」

細長い女性は、そう告げると、エントランスを出て、自分の家に戻っていったようだった。

意味がわからなかったが、すぐに、母だ、と思いついた。母が既に、数日前に、お返しとやらを受け取ってしまっているに違いない。家に帰って確認しなければ。

メイコはエレベーターのボタンを押して三階へ上がると、自分の部屋のドアを開けた。数ヶ月前から母親が住んでいると知っていたとはいえ、それでも家に足を踏み入れる前は恐怖を感じた。またマサノブが、部屋の真ん中に座っていたらどうしよう、と全身が堅くなった。

もちろんマサノブの姿はなく、部屋の中も片付いていた。割れてしまったテーブルや血塗れになってしまったラグマット、ドアがへこんだ冷蔵庫はもちろん、マサノブが持ち込んだ物も全てなくなっていた。メイコは引越しのお礼らしきものを捜したが、見つけることは出来なかった。

メイコがまだ痛む足を庇いながら床に座って途方にくれた、その時だった。

――ふにゃあ。

か細いが、聞きなれた声が確かに、した。しかも、この部屋のどこかで、だ。

メイコは足が痛いのも忘れて立ち上がり、松葉杖も使わずに家の中を探し回った。

さっきの声は決して聞き間違いなどではない。間違いなく、ナッキーの声だ。でもどうしてだろう? どうしてナッキーの声が聴こえるのだろう? その疑問の答えを考えるのは、後でも良いし、どんな答えでも良い。私の頭がおかしくなっちゃってるから、って答えでも構わない、と思った。おかしくなってるんだとしたら、あの日、キッチンでなんだか良く使い方がわからない器具に足をぶつけた瞬間に、おかしくなってしまってるのだろうから。お医者さんだって専門外だもの。体の傷は治ったかどうかの診断はできるけれど、頭の中まででは無理だろうからさ、仕方ないよ。

そんな事を考えながら、メイコは猫の姿を捜すのだが、何処にも見当たらない。

しかし、――ふにゃあ。という、ナッキー独自の間の抜けた鳴き声だけは、メイコのすぐ傍から離れたり消えたりすることがないのであった。

まさかとは思うけれど。

メイコは、いよいよ自分の頭がおかしくなっているのだ、と確信した。

そんなはずは無い。そんな莫迦な事はありえるはずがない。

そう頭では思っても、体が次の行動を起こすのを止めることが出来ない。

メイコ、しっかりして。あんた、完全に頭が狂っちゃってる。

自分自身にそう強く抗議しながら、メイコは棚から大振りのハサミと、キッチンから包丁を取り出した。

何もかもがおかしいけれど、やっぱり、声はこっから聴こえる。理由はわからないけれど、聴こえるんだから仕方ない!

メイコは決心した。そして、左足を包んでいるギブスを、ハサミを使って無理矢理切り分け、外した。

――ふにゃあ、ふにゃあ。

ナッキーの声はいっそう大きくなる。

やっぱりそうだ、間違いない。あの子は、ここにいる。

メイコは震える指先で、左足の上に被さっているスェットの裾をゆっくりと捲り上げた。

左足の脛には、生々しい手術跡がまだしっかりと残っている。しかし、そのまだ切り口の新しい皮膚の薄皮の真下が、子供のこぶし大くらいに膨らんでいる。そしてその塊は、小さくもぞもぞと動いて、ふにゃあ。とメイコの皮膚の下で声を出しているのであった。

「ナッキーは、私の左足の脛の、皮膚の下にいる!」

メイコはそう叫ぶと、洗面所へ走り、バスタブの中に腰を下ろして、足をしっかりと固定し、滅多なことでは動かないような姿勢をとる。その次に大量に用意したバスタオルを自分の手のすぐ届くところへ置き、病院から貰った大量の痛み止めを一気に蛇口の水で胃へと流し込んだ。上半身のスェットも脱いでブラジャー一つになると、自分の口に脱いだスェットの袖を突っ込み、奥歯でそれを噛み締めた。左膝の辺りにタオルを強く巻きつけ、包丁の刃を、自分の脛の皮膚へ突き立て、ゆっくりと切り開いていく。白い脛に開かれた切り口から、赤黒い血がどくどくと流れ出し、白い皮膚の下のピンクの肉がゆっくりと盛り上がってくるのを見ながらも、メイコは、ああ、脛毛も随分剃ってないから、近い内に剃らなくちゃ、などと関係のない事を考えていた。本当は痛みで失神してしまいそうだったが、喉の奥から大声を出し、それらを口で噛み締めたスェットに吸収させることで、なんとか気を保つ事に成功していた。やがて赤黒く濡れた太く白い骨が露わになり、メイコは血で滑る包丁を何度もタオルで拭きながら、ようやくこぶし大に膨らんだ部分の皮膚の周りを切り取った。およそ六角形に近い形に切り取られたメイコの皮膚の下から、ころん、と、血塗れの小さな猫が、転がり出てきた。

ふにゃあ! ふにゃあ!

生まれたばかりのナッキーは、メイコの顔を見つめながらそう力強く鳴いていた。

メイコは再び気絶しそうになりながらも切り取った皮膚をもう一度脛に貼りつけ、ホッチキスの針で無理矢理とめた。海外の医療ドラマでそうしたシーンを見たことがあったので、真似をしたのだ。

そして新しいタオルでもう一度左膝を強く結びなおし、全体を包帯で強めに巻くと、再び歩行できるようになった。

ナッキーを温めのお湯で全身に纏わり付いていた血を洗い流してやると、お腹の辺りに破れたような傷跡があるのがわかった。

もうすっかり傷口は塞がっているが、あの時、ちょうどナッキーのお腹が裂けてしまったのと同じ位置だった。

メイコはナッキーをタオルでくるんでベッドの上に置き、服を全て着替えて部屋を出た。

足を引きずりながらエレベーターで二階へ降りる。

202号室の前に立ち、インターフォンを鳴らした。

ドアは開かずに、部屋の中から女性の声がした。

「……何? 今、引越しの準備で忙しいの」

「ナッキーが帰ってきた。私の左の脛から」

「脛から? ……ああ、そう。良かったわね。じゃ」

「あの日、私の家に来てくれたんでしょ?」

ドアの中からは物音一つ返ってこない。

「私の部屋から、暴れる音がして、それで、助けに来てくれたのよね?」

「……」

「警察や救急車を呼んできてくれたのもあなたでしょう? それで、ナッキーを、もう一度、私の元に返してくれた」

やはりドアの向こうからは物音一つしない。

「何をどうやったのか何か知らないし、知ろうとも思わないけれど、ひとつだけお礼を言わせて欲しい。ナッキーを返してくれて、ありがとう。あなたからのお返し、しっかりと受け取ったから」

すると、音もなく、目の前が細く開けられた。

女性は真っ黒な幅広の帽子を被っていたので、今回は目を見ることは出来なかったが、先ほどとは違い、唇は真っ赤に彩られていた。

「何か勘違いしているようだけれど」

「……え?」

「私があなたに贈ったのは、猫なんかではないわ。あれは……私を呼びに来ただけ」

「呼びに来た……?」

「飼い主のことがよほど心配だったのでしょうね。最初は、変なとこに現れて、迷惑したわ」

「変なとこに……現れた?」

「郵便ポストによ。なんだろうと思ってたら、それからしばらく経って、上の階からドスン、バタンって暴れる音がするから、ああ、これが伝えたかったのかってわかって」

「郵便ポストに……?」

「で、まあ、呼ばれたのに行かないのも悪いかなと思って……私は、私にできることをしただけ。それだけよ。その後、そちらの猫はいろんなところをウロウロしてたみたいだけれど……最終的にあなたの元に戻れたのね。それは良かった」

「一体何をしたの? ……マサノブは?」

「ああ、まだ見てないのね。そっか。猫と勘違いしてたんだものね。まあいいけど。とにかく、私は、もう行かなきゃいけないから。片づけがまだ終らなくって」

「待って!」

ドアが閉められそうになったので、メイコは慌ててドアの間に手を入れ、一気に開いた。

部屋の奥から強烈な風が吹き出してくる。

その風の奥に、部屋の中が見えた。廊下の壁には、どこか南国っぽい外国の面や人形が大量にかけられていた。床にはサイズの違う薄汚れた壺が幾つも敷き詰められている。更にその奥の居間全体に、ブルーシートが床から天井まで隙間なく貼られ、その中心の床の上に、巨大な銀色の手術台のようなものが置かれていた。

細長い影は、メイコの目の前で、帽子を風から押さえながら、

「とても難しい術式だったから時間かかっちゃったのよ。でもまあ、あなたの退院に間に合って、よかったわ」

と笑顔で言って、メイコの目の前に手をかざした。

その瞬間、メイコの意識は途切れた。

ゴロゴロゴロ、という低い音が聴こえた。

メイコが目を覚ますと、自分の部屋のベッドの上だった。

全ては夢だったのか。

泣き出しそうになるメイコの顔の前に、生まれたばかりの、ナッキーが小さな顔を覗かせて、ふにゃあ。と鳴いた。

ああ、夢ではなかったのだ。

メイコは小さなナッキーを軽く抱きしめなおすと、再び、窓の外から聴こえてくるゴロゴロゴロ、という音に意識を奪われた。

痛む左足に顔をしかめながらベランダに出て外を見ると、大きな幅広の帽子を被った真っ黒で細長い影が、大きなスーツケースを二つ、ゴロゴロと転がしながらマンションから出て行く姿が見えた。

確か、海外へ仕事で行くと言っていた。それにあの部屋にあった大量の仮面や人形、壺や何かの道具――それに、難しい術式、と、あの人は言った。手術ではなく、術式、と。

メイコがそんなことをぼんやりとした頭で思い出しているときだった。

――すけ、て。

か細い声が聴こえた。聞き覚えのある声だった。メイコはもう一度耳を澄ます。

――めいこ。た……すけ……て。

小さな声は階下から聴こえた。メイコは音を立てずに、ゆっくりと、廊下へ出た。

――めいこ。どこ。ここは、どこ。

エレベーターを降りて、声のするほうへゆっくりと足を引きずって歩く。

――ここ、どこ。たすけ……て。だれか。

メイコはエントランスへたどり着いた。入院する前は蛍光灯が切れ掛かっていたが、今は白い光に包まれている。

――ねえ。ここ、どこ。

声はエントランスの壁沿いにある、集合ポストの方から聴こえた。

メイコがゆっくりと近づくと、302号室のポストの隙間から、真っ黒い血が、粘り強く流れ、今はもう空になって口を開けている202号室のポストの上に垂れ落ちていくのが見えた。

メイコはゆっくりと302号室のポストへ耳を近づける。

――だれか。たすけてよ。

メイコは、震える指でポストのダイアルを回して蓋を開けようとしたが上手くいかなかった。

流れ落ちる汗を拭う事もせずに、メイコはポストの上部にある細長い蓋を指で押し、隙間から中を、ゆっくりと除きこんだ。

ポストの中から、ちょうどポストのサイズに分断され、再び繋ぎ合わされたマサノブが、長方形の肉の塊となって、血と汗と涙でぐっしょりと濡れながら、こちらを見つめていた。

メイコはそれからすっかり傷も癒え、新しい仕事場も見つかり、再び元気を取り戻した。

ある日、ゴミ出しの日に、隣人の奥さんと鉢合わせになり、猫をこっそり飼ってることを指摘された。

「すみません。早くペット可のマンションに引っ越さなきゃって思ってるんですけど」

「あなた、あんなことがあったから……あんまり可哀想なことは言いたくないんだけれど、主人が猫アレルギーだから心配でね?」

「いや、本当にもうなんか、すみません」

「まさかとは思うけど……集合ポストで飼ってやしないわよね?」

「え? どういう状態なんですか、それって」

「私が言ってるんじゃないのよ? なんか、見た人がいるって言われたから。あなたが、夜中に郵便ポストの中になんか、ご飯みたいなのを詰め込んでるのを、ね? もちろん私はそんなの信じちゃいないけれど」

「してませんよ、そんなこと。あと、もう一つ言うなら、私だって無宗教ですからね? もう少し待ってください。物件をずっと捜してはいるんです。けれど見つからなくて」

「あら、そうなの?」

「そうなんです。中々、ウチの郵便ポストと同じサイズの物件って見つからなくって、結構困ってるんです」

おしまい。


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